タイトルは石川迪夫の発言の意訳です。実際の朝まで生テレビでの発言を、後述しています。非常に長いエントリーですが、このエントリーで何を言いたいかといいますと、専門分野の人は声を上げ続けるべきだという大変シンプルなことです。しつこく、そして、うるさく。
原発事故が起こってしまいました。大変残念なことです。事故が起きる前は、安全だと思っていた人も、原発は危険だと思い直した人も少なくないと思います。現在では安全を叫ぶ人が少なくなっています。これが世論です。
世論というのは不思議なもので、基本的に、一般人は自分の身近な生活の事を考えて、主張を決めます。政治家は、その空気を読んで主張を決めます。すごくざっくりいうとこうです。今回は原発事故で生活に強い不安を覚えた人たちが、反原発の世論を創り上げています。
この反原発の世論は、これまで何度か盛り上がっては消えてきました。大きく分けて3回あります。年表にすると次のようになります。
■反原発年表
1954年第五福竜丸被曝事件後
1986年チェルノブイリ原発事故後
2011年福島原発事故後
今回の前に一番近いところで申しますと、1986年のチェルノブイリ事故以降に反原発は盛り上がりました。1988年の朝まで生テレビでは「原発」をテーマにして2回行なわれています。その後3回目が行なわれたのは、2011年4月。そう原発事故が起きたあとです。この間、原発は朝まで生テレビでさえも取り上げてこなかったわけです。この間に日本の原発運営は大きく変わっています。悪い方向に。それはさておき。
1988年第1回の「原発」は、今見ると非常に興味深いものです。推進派と反対派が「技術論」で討論していました。そして2回目は、「技術論」は視聴者にはよくわからないという理由で封印され、ライフスタイルなどをメインテーマに討論が行われました。
その「技術論」をメインテーマにした第1回目の「原発」討論の内容は、今、理解できる人はとても多いと思います。事故が起きた後に、原発の仕組みに興味を持ち、構造を毎日テレビで学んでいるからです。だが当時は「技術論」を理解できなかったわけです。なぜか。テレビでやってなかったからです。それは平和な時代だったことを意味します。私たちは多くのことをテレビで学んでいるわけですね。
この「技術論」の討論はものすごいものでした。推進派と反原発はが、徹底的に細かく相手の理論をチェックしていました。今見れば推進派の旗色が悪い事がわかります。
なぜこんな話をしたかと申しますと、2011年4月末の朝まで生テレビで、原発推進派の中心人物、石川迪夫が実に興味深い発言をした、というより、漏らしてしまったからです。その箇所を引用します。
石川「臨時、臨時体制の非常時のルールを使って、きちんとサイトの整備する。それから、この原子炉の建家の中の床のところまで、橋頭堡を作る準備をすると、これが一番必要な作業だと私は思ってる」
田原「香山さーん、今の説明でわかるとこ、わかんないとこ」
香山「いや、あのね、なにをま、まず、最優先にすべきかというのは、よくわかりました。ただ、な、なんでそれが、行なわれてないのかということですよね。」
香山「そこまでわかってらっしゃる方がいるのにー。それが、なぜ、伝わってないのか、っていうところが疑問なんですけど」
石川「ひとつはまだ、どこらへんまでの危機状況かというのはですね、これは、あ、恥ずかしい話ですが、原子力関係者も含めて……。もう、先ほど88年にね、議論をしたというのは、あの時は、」
田原「やりました。」
石川「原子炉が安全かどうかということでしたねえー。それから30数年たってるんですよ。」
石川「それでねえ、その時のほんとにあのー、安全で心配した人はみな卒業してしまいました。わたくしだけが落第生で残ってるわけです。」
※石川迪夫「炉心全部溶けてる」朝まで生テレビ(文字おこし)より引用。
人のせいにするな、と思う人もいるでしょう。お気持ちは理解できますが、私は反原発派として推進派の石川迪夫氏の意見を重く受け止めています。石川迪夫の言葉を意訳しますとこうです。
・私が一番原子力を愛している。
・反対してた人たちは原子力を愛していないから、やめた。
・第3者のチェック機構がなければ、安全は確保されない。
です。
1988年を振り返って、原子力発電所を国がどのように運営していたかをみると、「原子力委員会(推進)」と「原子力安全委員会(規制)」のバランスで行っていました。
・原子力委員会(ドンドンいく機構)
・原子力安全委員会(チェックして文句をいう機構)
だがこれは建前です。実際は、原子力委員会と原子力安全委員会の委員を掛け持ちする学者が存在しており、既に国が作ったチェック機能は死んでいました。ではどのようにして規制が行われていたか。
反原発を掲げる学者が、うるさく推進派の責任を追求していたのです。第3者のチェック機関が民間にあったわけです。更に申しますと、朝まで生テレビ、というメディアの中で、第3者のチェックが行なわれ、公開されていたと言ってもいいでしょう。
・第3者チェック集団(有志の学者、研究者たち)
実は、第3者のチェック機関と申し上げていますが、これは、大学の教授、民間の反原発研究団体、などが緩やかに協力したものだったように私は捉えています。つまりチェック機関というものは存在しなかったが、危機感を持った有志が協力し合い立ち向かっていた、という形です。彼等は非常に優秀で、非常に推進派はやりづらかったといえます。
原発推進側はしょっちゅう隠ぺいを行い、そのたびに厳しく、そしてうるさくチェックするということが繰り返されました。このうるささがとても大事なのです。隠ぺいは必ず行なわれるものです。決してなくなりません。どんなに公開するというルールをつくろうが、隠ぺいは行なわれます。それがこれまで人類が始まってから続いてきた歴史です。それについてうるさく、つまり、一般市民が「なんか騒がしいな」と気づくレベルのうるささでチェックすることが必要になってきます。
このうるささを石川迪夫は、心の何処かで、「うるさいからちゃんとしなくては」と思っていたフシがあります。実際に1988年2回目の朝生でその様子を伺うことが出来ます。
反原発派に推進派の学者が追求され、たじたじになり事実をごまかそうとした時に、石川迪夫は、その学者に厳しく事実を問い詰めるシーンがありました。これは石川迪夫という人物を知る上で重要なことです。
彼の人間性はおいておいて、石川迪夫は、自分が育て上げてきた原子力発電に誇りを持っている人物です。誇りを持つということはそれだけのことを彼はやってきたという自負があるということです。私は、これを石川迪夫の原子力への偏愛だと思っています。商品でも何でもそうですが、技術者は開発する対象を愛するものです。そうでなければ数十年にも渡る技術開発などできるはずがないからです。
その石川迪夫が、
石川「原子炉が安全かどうかということでしたねえー。それから30数年たってるんですよ。」
石川「それでねえ、その時のほんとにあのー、安全で心配した人はみな卒業してしまいました。わたくしだけが落第生で残ってるわけです。」
このことは大きな問題提起をしています。
今の世代の原子力に関わる人は、実際に原子力を開発してきた人ではない。つまり、原子力に偏愛がないのです。もう少し踏み込んでいうと、今の学者は、原子力が素晴らしいと洗脳された人たちです。先程の石川迪夫は、原子力を安全に作り上げた自負を持っている人です。この違いがあります。石川迪夫は、毎日炉の中の放射性物質が放つ光を見つめていたような、生粋の現場の技術者です。今の学者たちと、石川迪夫には隔たりがあります。
・原子力を作った世代(洗脳した世代)
・原子力というシステムを受け継いだ世代(洗脳された世代)
この隔たりは、同様に反原発派の学者の間にもあります。この隔たりは、奇妙なことに有る歴史的な事件によって分けられています。安保反対運動です。これについては、小出裕章氏も言及しています。小出氏は東北大学での学生時代に、女川で行なわれた反原発運動を体験しています。仲間の研究者が職を捨てとび職となり、反原発運動をし続けているとを発言しています。政治が決めることに対して、力づくで抵抗した世代、と、それ以降の世代です。
・安保世代(抵抗したけど世の中変わらなかった。けど抵抗には意義があった)
・安保を知らない世代(結局世の中変わらなかったんでしょ? じゃあ国に期待しないことが大事)
簡単にいうとこんな感じです。
と歴史的な意義を並べてもあまり何も役に立たないのですが、とりあえずはこういった認識で、石川迪夫や小出裕章を見つめれば、何かを得られるでしょう。
小出裕章氏がことあるごとに「力が足りませんでした」と謝罪を繰り返すのは本気でそう思っているからです。第三者チェック集団が、原発推進派をチェックする場所がなかった。簡単にいうと、テレビでそれをやってこなかったことが大きい、と私は思っています。いくら国会内でやっても駄目です。テレビという俗な場所でやらなくては駄目です。
なぜならそれを市民が見れなくては意味が無いからです。意見が闘っている状況を私たちは観る必要があります。意見が闘った結果を伝えられても、気持ちが動かないからです。推進するにしろ反対するにしろ、これはとても重要なことです。これから新しいエネルギー政策が作られるでしょうがぜひとも公開してテレビでやっていただきたい、と思います。朝まで生テレビは、1988年から2011年までの23年間の空白を重く受け止め、頑張ってもらいたいです。私は田原総一朗を後継者を本気で探すべきだとも思っています。今田原総一朗に倒れられれば、この国のチェック機能は大きく低下するでしょう。俗な場所でのチェック機能がとても大切です。
更に私はここに、インターネットで分けられる世代差があると考えています。
・インターネット以前…情報の共有はテレビで行なわれた。
・インターネット以降…情報の共有はインターネットでも行なわれる。
筆者は、このインターネットが国との闘争のための準備に非常に役立つと思っています。恐らく88年当時の反原発を掲げた人たち、それ以前の左翼闘争をしていた団体に属していた人たちは、なぜ自分たちの世代にインターネットがなかったのかと悔しがっていることでしょう。でも筆者は言いたい。悔しがってる爺さんたちよ、暇があるならインターネットを覚えなさいと。あなたたちの経験と知恵をインターネットで共有すれば、貴方達を受け継ぐものが現れるのです。インターネットくらい1年本気でやれば覚えられます。
筆者はそんなことを考えながら、かつて志を持ったディレクターたちが製作したドキュメンタリーを文字に起こしているのです。インターネットがなかった時代と、今を繋ぎたいのです。
コメント
コメント一覧 (4)
これこそが軍が軍人を守っていない現実であり、日本国が日本人を擁護していない実態だと思います。
大体死亡者と一緒に上官が行っていて、何故不明とされてしまうのでしょう。そのような事にならない為に、指揮官とは居るのではないでしょうか。
まったく理不尽な扱いだとは思いませんか。
そしてこの事は先の大戦時の沖縄でも行われた事、いや日本中で有ったことだったのです。
日本が最初にアメリカ軍に爆撃を受けた時の報道がそれです。「鬼畜米英により、我が帝都が敵機より攻撃を受けしも、その被害軽微なり」その時東京田端の尾久で家族5名が死亡。1名が奇跡的に助かっていました。更にその周辺では火災が発生し甚大な被害が起きていたのです。きっとこの家族以外にも犠牲者は居たでしょう。しかし今ではそれを知る術も殆ど有りません。
今この以前の記事を読んで気づいたことが有ります。それはイラク戦争への自衛隊派遣時の件です。
イラク派遣された自衛官死者総数35名の中に12名の「事故及び不明死者」という部分が有ります。陸6、海6名です。この事について、あの当時世界ではBBCやCNNなどが「日本軍に1名の死者」と報道していたらしいのです。この1名があの不明者の中に含まれて居るとしたならば、これは大問題です。
小泉は自衛隊の行く所は非戦闘地域と言って行かせたのですから。
よく考えてみたら、確か防衛省からの発表でも、迫撃砲の攻撃を受けたが、全員防空退避したので死傷者は無かった、という発言記事が有ったのを思い出しました。しかし変ですよね。何故音も無く飛んで来る迫撃弾を検知出来るのでしょうか?最初から施設に避難している訳も有りませんから、一二発着弾してから逃げた筈なので、その時死傷者が出ていた、と考えるのが本島ではないでしょうか。そして死亡者が出ていたならば、あの小泉の発言は崩壊します。
又更にあのイラク派遣が今の安倍自民の解釈憲法改悪とか集団的自衛権容認に繋がっているのです。
この問題などを追及しないといけないのはこのような事からも明白です。
http://www.youtube.com/watch?v=EcDXRCyyrPI&feature=related
ここを見ると石川迪夫という人がどのような役割を担っていたかわかります。
繰り返される自己弁護、自己擁護。