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原発事故は、本当に、「人災」なのか。

パトロール中に燃料切れを起こしたり、アメリカのアドバイスを受け入れなかったりなど、人的なミスが頻発していることが明るみになっている。多くの人がこれらを「人災」だと非難している。
ここはあえて、「人災」と呼ぶことのリスクを考えたい。

筆者が危惧するのは、人災という隠れ蓑を用いて、言い逃れをしようとする者がいるのではないか、これから出るのではないか、という点だ。

そもそも人災とはなんだ。定義はどうなっているのか。

■人災の定義が曖昧すぎて死ぬ

「人災『〔「天災」に対して作られた語〕人間の不注意・怠慢などが主な原因で起こる災害。』(三省堂大辞林「人災」より引用)」

天災についても調べる必要がある。

「天災『風水害・地震・落雷など、自然現象によってもたらされる災害。』(三省堂大辞林「天災」より引用)」

自然現象にもたらされる災害「天災」の対義語が、人の不注意が原因で起こる災害「人災」ということになる。しかし、皆さんもお気づきのとおり、天災の定義がはっきりしているのに比べて、「人災」の定義は曖昧だ。それは以下の箇所だ。

「人間の不注意・怠慢などが主な原因で起こる災害」

太線箇所の言い回しが曖昧で、解釈に幅がある。ここが、原発事故のもろもろのミスを「人災」にできるトリックだ。同時に、人災に「しない」トリックでもある。

■一口に人災といっても色いろありすぎて死ぬ

例えば、人間の疲弊が原因で起こる災害は、人災だろうか。

職務に忠実に従い、三日三晩徹夜だったせいで、大事なときにうとうとしたことが原因で起きる災害は 人災なのだろうか。うっかり大事なことを失念していたせいで起きる災害とくらべてみてどうか。一方の原因は「怠慢」だが、もう一方は「職務に忠実」だった ことが原因だ。これら2つの災害を、「人災」というケースに当てはめて、同列に並べていいのだろうか。

人間が怠慢で起きた災害と、「職務に忠実だったが起きた災害を比較して考える。

【結果】両者とも人間が原因で災害が起きた。
【過程】一方が「怠慢」だが、もう一方は「職務に忠実」だ。

結果は同じだが、哲学でいう「善」視点では、両者には大きな開きがある。ダメな人と素晴らしい人だ。そして、「善」レベルに大きな差があれど、結果として災害を引き起こす。つまりは、どんなに素晴らしい人材を使っていても、ダメな人を使っている時と、同レベルの災害は起きうる、と言える。

悲観的だという人がいるかも知れないが、災害は必ず起きる。防ぐことはできない。

このことを前向きに受け止めて、対処しなくてはいけない。枝野官房長官は、はじめ原発の屋根の崩落事故が起きたとき「人体に影響が出ることはない」といった。その後、爆発が頻発し、避難させることになった。絶対にない、ということは絶対にない。

ダメな人材がおこす災害と優秀な人材がおこす災害は、頻度が違うという人もいるかも知れない。だがダメな人より素晴らしい人のほうが責任が大きい仕事を任せられる分、起きる災害が大きいとも考えられないだろうか。

当たり前のことを論じているが、人災にも色いろあるということだ。そしてその色いろある人災を、今後、ずっと一緒くたにして「人災」と呼んでいくのだろうか。

■Googleリアルタイム検索で学ぶ「人災」

私たちは「人災」について同情する気持ちがある。同じ人間として人災について同情するきらいがある。仕方が無いなと思う気持ちがどこかにある。とはいえ、解決する方法はないかを模索するだろう。一方、「私は人災を許さな い。教育で防ぐことができる」と否定したい人もいるだろう。「仕方がない派」と「許すまじ派」の対立はとても興味深いものだ。

なぜ興味深いか。それは「罪」とはなにか、は個人が決めることではなく、共同体全体が決めることだからだ。「罪」は定義を厳しい議論のもと決められるべきだ。

ここで、Twitterのリアルタイム検索で「人災」を検索して、それを見てみよう。皆さんはTwitterで「人災」についてどのようにつぶやいているのだろうか。

人災 - Google リアルタイム検索

流れていくツイートを10分くらい眺めてみて欲しい。

ちなみに、Googleリアルタイム検索は、人々の意識を知れるスマートなツールだ。原発事故に興味がある人は、Googleリアルタイム検索「原発」を眺めるといいだろう。

さて、多くの人が「人災」について発言しているのがおわかりだろうか。しかし、おそらく9割9分9厘の人が「人災とはなにか」について言及してはいない。皆、人災について、懐疑的ではない。人を裁くには、まず罪とはなにか、について懐疑的でなければいけない。

『「人災だ」と言ってもそれは人を裁いていないだろう』

と言う人もいるかも知れない。たしかにその通りだ。刑法に「人災」という裁きはないし、「人災」という言葉の定義に疑問を持たず発することで人を裁けるはずはない。だが、その程度の意識で発現される「人災」という言葉に、果たして力はあるのだろうか。

■哲学的に「人災」を考えてみる

哲学者アリストテレスは「善」を再優先させた。つまり素晴らしい人格形成をまず第一に考えた。人間の理想的な姿はこうあるべきだ、と唱え。そしてそれを実現するための仕組みを作った。「許すまじ派」はアリストテレスの一派だ。

のちのカントは、「正義」を再優先させた。いろんな「善」があってもいいが「正義」とはなにかを考えておこうという考え方だ。ダメな奴もイイ奴もいていいが、正義だけはブレてはいけない、という考え方だ。「仕方がない派」は、こちらに属する。

「許すまじ派」に求められるのは、理想の「善」とは何かを問い続けることだ。一方、「仕方がない派」に求められるのは、「正義」とは何かを問い続けること、だ。

・「許すまじ派」……立派な人間とはなにかを考えること
・「仕方がない派」…社会全体が正しいとみなすことはなにかを考える。

少し乱暴で極端な言い方になるかもしれないが、「許すまじ派」は、「人災を起こさない」人を育てようとし、「仕方がない派」は「人災を起こさないように判断する」基準を作ることを正義とする、という違いがある。

更に暴論だが、「許すまじ派」の行き着く先には「人災を認めない」人を育てるおそれがある。役所の論理がそれだ。「それは人災とは呼ばないので人災ではない」 という論理だ。認めなければ「人災」ではないのだ。このまま「人災」の定義が曖昧なままだと、賢い人達は「人災」を起こさない論理を作るだろう。

「仕方がない派」の行き着く先も同様だ。いかに素晴らしい正義を打ちたてようと、「人災」の定義が曖昧なままでは、個人個人が判断する基準が不明確になる。結果、人々は混乱するだろう。その時「正義」は無力になる。

どちらにせよ、「人災」とはなにか、を考える必要がある。それは「人災」について懐疑的になることを意味する。

■「人災」のレベルを作れば、人災が大前提での議論になる

筆者は「人災」のレベルを作る必要があると主張する。人災か人災でないかではなく、「どの程度の」人災かだ。

原発の事故にもレベルがある。福島原発事故では公式発表はレベル4だったが、レベル6ではないかレベル5ではないかという議論がおきた。これは歓迎すべきことだ。レベルがなかったら、「事故」か「事故でないか」という論理に終始するだろう。レベルがあって初めて、どの程度の「事故」なのかが議論になる。

隠蔽体質だと言われている原発の事故でさえ、レベルがある。「人災」についても厳しい目線でレベルを作成すべきだろう。

今「人災だ」と叫ぶ人も「人災ではない」と叫ぶ人も、「人災」の曖昧さを無視している。「人災」を独り歩きさせても、何も解決しない。大事なのは、人災のレベルだ。

気鋭のフリージャーナリストの上杉隆氏は筆者は好きだが、あえて上杉氏に向けていうことで多くの人に注意を喚起したい。上杉氏よ、あなたは「人災」と言いすぎだって!

「人災」と批判し始めることから、この国を変えようとするのはわかるんだけどさ。

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