20101012214748001※画像は、宗教改革のルター

震災募金が盛り上がっている。10億円、5億円、などの高額な寄付や莫大な物資の提供などがツイッター上で話題になり、素晴らしい行為だと賞賛されている。

なぜ多額の寄付をするのか。なぜ賞賛するのだろうか。

■自明かもしれないが、なぜ、お金かをおさらいしとこう。

お金は、いろいろな物資に替えられるので便利だ。千羽鶴は時代遅れだが、匿名の人の気持ちが欲しいと願う珍しい人には有効だろう。

大災害では、まず人命救助が求められる。その後、物資が不足するので物資の需要が高まり、同時に住環境などの生活インフラの整備が求められる。ここまでの第一段階では、労働力と重機、そして資金が必要になる。早い段階で、ガソリンと重機を提供出来れば、それが一番役に立つが、大抵の人にはこれらを提供するのは難しい。だから資金を提供するしかない。

お金は便利だ。1000円は誰に貰おうと必ず1000円だ。労働力のように人による能力差がない。そして、いつ使っても良い。さらには、思想が付きまとわないように、見、え、る。1000円を透かしてみても野口英世しか透けて見えない。

そしてなにより優れているのは、そして、寄付する側に都合がいいのは、寄付は、寄付した後、使い方にまで責任を問われないことだ。一番難しい寄付金の使い方まで考える必要がない。

さて、この第一段階が終わった後に、初めて本質的な精神的救済が必要となる。命の安全が守られてから、初めて精神的な疲弊がハッキリわかるからだ。被災から10日を過ぎた今、宗教家がまだ動いていないのは、まだタイミングを待っているのかもしれない。

しかし、古いタイプの宗教家の出番はもうないかもしれない。すでに、皆さんがお気づきのように、宗教家が現れ、人々の煩悩を救っているからだ。

誰にも気づかれない意外な方法で。

■儲けている人が寄付をすると、消費者の物欲が、正義に昇華する。

小さな金額の寄付なら誰にもでできるが、話題になるような数百万円から数億円という多額の寄付は儲かっている人に限られる。私たちは高額の寄付金額を聞くたびに、賞賛する。そして、寄付金額を比較して、噂話に花を咲かせる。寄付金額の寡少についてはさておき、なぜ莫大な寄付金額が可能かを考えてみる。

それは、寄付者、もしくは寄付者が経営する会社が優れたサービスを創り出したからであり、そのサービスを利用して、消費者が募金者や募金者が経営する会社に利益をもたらしたからだ。多額の寄付金は、募金者、募金者が経営する会社、そして消費者が一体となって生み出したものだ。寄付人は、消費者を代表して多額の金額を寄付している。

具体的に考えると、ユニクロの柳井会長が10億円を寄付した時、そのお金の流れを考えれば、間接的にユニクロの消費者が寄付していることはだれにでもわかるだろう。ユニクロは世界企業だから、世界中のユニクロの消費者が寄付している。

柳井氏が寄付したとき、ユニクロの消費者は誇りを感じる。消費者一人ひとりがユニクロに支払ったお金だからだ。同時にユニクロの消費者でない人は、「ユニクロの商品を買えば、非常時に価格の何%かが寄付される」と考えてユニクロ商品を買うかもしれない。

欲しい物を買った利益が企業や個人にプールされ、災害時に寄付されるならば、消費者としてこれ以上気持ちがいいことはない。なぜならば、自分の物欲が、意図せず、寄付という正義に変わるからだ。物欲は正義だ、と思えるからだ。

バーゲン時に全力で人をはねのけ商品を買ったら、その商品価格の一部が寄付されるのだ。

「あなたの醜い物欲のおかげで、被災者は助かっているのです。あなたは素晴らしい人なんですよ」

と自分の中の誰かが、自分に甘い声で囁く。そして納得する。

消費者の物欲を災害時に正義へと変える経営者は、まさに教祖だ。企業は宗教的存在であり企業CMは布教活動だ。多額の寄付をする経営者は、被災者と愚かな消費者の双方を救う。

新しい宗教家の力を見せつけられた今、古い宗教家たちがどのように行動するのだろうか。

世界史で学んだ宗教革命を思い出す。500年前に、経済活動は善だと主張して血を流したプロテスタントたちは間違ってなかった。グーデンベルクの活版印刷技術は紙幣を作り、今日の資本主義に貢献している。彼らは、みずからが支持した「経済」に、すっかり遅れをとってしまっているほどだ。

■貧乏人は寄付する暇があったら、寄付する人を探しだせ

さて、寄付するお金が無い人はどうすべきだろうか。あなたの1円では人は救われない。1円は1000人が寄付しても1000円にしかならない。そんな自己満足にしか浸れない時間を過ごすならば、別の素晴らしい方法がある。それはなにか。その答えは、ここまでの話で出ていると懸命な人は気づいているだろう。

そう、寄付すべき人物を探し、寄付するよう求めるのだ。物欲を正義へと変えてくれた柳井氏のように、我々の煩悩を「正義」に昇華してくれる新しい宗教家が、まだどこかで息を潜めているはずだ。

■被災地が所属する「場所」や「団体」を考えれば、寄付すべき人が見つかる。

もし国が潤沢な予算を持っていた場合、「国がなんとかしてくれるだろう」と考える人が今より多くても不思議はない。

しかし今回の被災の場合、国に潤沢な資金はなく、大災害が起きた場合を想定した予算を仕分けまでして、組んでいなかったことが明らかだ。それは被災地の復興が遅れることを意味し、日本国全体の景気を左右するだろう。

被災を「怪我」にたとえると「被災地」は「怪我をした場所」だ。

例えば、右腕を骨折した時には、右腕の不具合だけがすべての不具合ではない。体全体が熱っぽくなり、精神的に憂鬱になり、テストを受けるときには左手で書くため時間がかかる。日常生活全般に不具合を生じる。一部が機能しないせいで、全体の機能が低下する。免疫力などの自然治癒力に任せても完治するまでに時間がかかるし、ひょっとして完治しないかもしれない。元気なときの骨折でさえこれだ。もし大きな病気にかかっていたり老化が進んでいたときに右腕を骨折すれば、回復は困難を極める。

だから私たちは、みずからの意思により、自分以外の力を借りる。保険を適用してもらったり、医者に治療してもらうだろう。友人の助言を聞くかもしれない。また、意識がなくなった場合には助けを借りられない。だから脳の判断で意思決定して、助けを借りる。脳が判断できる機能を持つことは、みずからを救済するために必要不可欠だ。

例えで右腕を骨折した場合を考えてみたが、「怪我をした箇所」は今回の地震では、なにか。「体」はなにか。そして「脳」はなにか。

【1】「怪我をした箇所」を「地方自治体」と考える場合。
地方自治体の一部が怪我をしているのだから、地方自治体が所属する日本国が「体」を指す。脳は、政府にあたる。

【2】「怪我をした場所」を「日本」と考える場合
日本が怪我をしているのだから、日本が所属する団体が体をさす。「東アジア」「環太平洋」「アジア」「世界」「国際連合」など。脳は、国同士が結びついてできた団体の機関を指す。アメリカが世界の警察を名乗るので、アメリカもまた「脳」だ。中国が「中華」思想である限り、中国もまた「脳」だ。最近ではニュー ジーランドが地震の被害を受けたので日本に対して共感している。

【3】「怪我をした場所」を「地球の一部」と考える場合
地球の一部が怪我をしているのだから、地球の一部が所属している団体が体を刺す。「地球」「宇宙」「地上」「地球の表面」など。脳は「自然」や「神」、「科学」や「物理」を指す。怪我をさせたのは地球の活動でもある。

【4】「怪我をした場所」を「経済活動が行われている場所の一部」と考える場合
経済活動が行われている場所の一部が怪我をしているのだから、体を指すのは「経済」「企業」「銀行」。脳は「経済をまとめる機関」「企業の経営者」「銀行の首脳」などだ。

【5】「怪我をした場所」を「アーティストの表現が伝わる場所の一部」と考える場合
体を指すのは「表現」であり、脳は「表現者」。日本から遠く離れたシンディーローパー氏やレディ・ガガ氏が頑張ったのも理解できる。浜崎あゆみ氏や安室奈美恵氏もこの共同体に属している。

【6】「怪我をした場所」を「人類の一部」と考える場合。
人類の一部が怪我をしているのだから、体を指すのは人類、もしくは動物、もしくは植物も含む生命全体。脳は「自然」だ。

【7】「怪我をした場所」を「ネット環境の一部」と考える場合。
体を指すのは「インターネット」や「Twitterやmixi、facebookなどのSNSや2チャンネルなどのwebサービス」だ。脳は、SNSの運営者だったり、インターネットのユーザーである皆さんかもしれない。

このように、「被災地」とは何を指すのか、を考えると、被災地が所属する共同体がわかる。すると、その場所の意思決定をする機関がわかる。意思決定をする機関がわかれば、判断する人がわかる。判断する人は、被災地の復興に努めることになり、寄付もしくは復興への支援をすべきだと考える。

興味深いことに、「怪我をした場所」は同時に「被災地・被災者」を指すこともおわかりいただけただろう。考え方によって「被災地・被災地」は変わる。「被災を受けた現地」「東北」「東日本」「日本」「アジア」「東アジア」「環太平洋」「ユニクロの消費者」「アーティストのファンたち」、どれも「被災地・被災者」だ。

代表的なのは「サッカー」だ。世界中のサッカーチーム、そしてサッカーファンが、日本の被災者にエールを送っている。彼らはサッカーが世界スポーツであると自負し信じ自らに問う。「サッカーに何かできないだろうか」。「サッカーを愛する国が傷ついていれば、同じサッカーファンとして苦しい」。信仰といっていい。

普段辛口なセルジオ越後氏の被災地に向けたエールが印象的だ。

「1人負傷者が出たからといって、勝負を諦めるのか? 10人でも勝利を目指して戦い続ける、倒れた人の分まで走るのが、サッカーだ。」

【セルジオ越後コラム】すべての日本人へ「倒れた人の分まで走るのが、サッカーだ」


少なからぬ人が、被災地の人たちの言葉が報道されるたびに、涙をながすだろう。涙が流れるのは、被災者と同じ共同体に属しているからだ。

涙の理由を考えることは、共同体の枠組みを考えることだ。被災地はどの共同体にあるのだろうか。平時には、われわれは第一に日本国という共同体を自分の共同体に挙げる。しかし大災害は、われわれがいくつかの共同体に属していることも教えてくれる。

そして、属する共同体の復興を願い、寄付へと走る。決して名誉や売名のためだけに寄付をするのではない。

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