Vista 2003とVista 2005
すでに多くのところで語られていることなので、ここで繰り返すのははばかれるが、Windows Vistaは、2003年秋頃にその開発が明らかになってから随分と時間が経ってしまった。初期に伝えられた“Longhorn”(開発コード名)の内容については、当時の『月刊アスキー』が異常なほど詳しく伝えているが、高邁な思想に貫かれたものだったと思う(これを“Vista 2003”と呼んでみよう)。
もっとも、そうした高度なフィーチャーのうちいくつかは完全に切り捨てられてしまった。今回リリースされるWindows Vistaの姿が見えてきたのも1年以上前のことだ(これを“Vista 2005”と呼ぶことにする)。ある意味、Vista 2005は、大変に分かりやすいものだったと思う。
Vista 2003とVista 2005、それから発売される本Vistaを眺めてみると“OSのアップデートとは何だろう?”という素朴なテーマにたどり着く。
- Windows 1.0:とにかくウィンドウ環境にした
- Windows 2.0:MS-DOSの上のデモ環境
- Windows 3.0:ウィンドウの世界が実用的に
- Windows 95:画期的だったので買う価値あり
- Windows 98:ネットバブルもあり勢いで買う
- Windows Me:不安定が指摘され新版が待たれる
- Windows XP:出来が良すぎてユーザーが満足?
こんなことがどこかで研究されているかどうか知らないが、ソフトウェアには“満足レベル”というものがあると思う。ひとことでいうと、Windows XPで、ユーザーはある満足レベルに達してしまったのだ!
ソフトウェアが、ユーザーの満足レベルまで達してしまうと、そこから先がいかに大変か、『Microsoft Office』を通じてマイクロソフト自身もすでにこれを実感しているのではないか?
“すべてを与えてはいけない”という教訓
それでも、Officeでは、文書ファイルの“下位互換性”(新版のOfficeで作成したファイルを旧版のOfficeで開ける)を保証しないことで、バージョンアップを促すことができた。現在では、この状況は解消されているはずだが、以前は、社内や取引先の誰か1人でも新バージョンのExcelやWordを使い始めると、みんなが結局は新バージョンを買わざるをえなくなった。
ところが、Officeとは異なり、Windowsの本体では、そのような役割を果たすものがない。Windows Meまでは、いつも“何かが足りない”というイメージがユーザー側にあって、バージョンアップに繋がってきた。ひょっとしたら「すべてを与えてはいけない」というのが教訓かもしれない。
それでは、アップルは、どうやっているのか? といえば、ひとえに「より気持ちよく操作できるバージョンを提供し続けている」だけにも見える。もともと、ジョブズは、そうした指向が強いのでMac OS Xは、順調にバージョンアップを続けている。ユーザーに「欲しい!」と言わせる“魔法の粉”を持っているみたいにさえ見える。対して、真面目なゲイツは、この袋小路の先はジャンプしかないと考えたのだと思う。
つまり、マイクロソフトはVista 2003で“上”を見過ぎたのだ。その結果、Vista 2005は、Mac OS Xがねらうような“実用的で気持ちよく操作できる”というところになったのではないか(そんな気がする)。どうもこのあたり反論されそうな気もするが、Longhornがやるといっていることは、Mac OS Xに似てると、その頃言われたりしたからあながち外れてもいないだろう。
- Vista 2003:とっても高度な進化をめざす
- Vista 2005:便利で気持ちよく使えるを目指す
気持ちよく使えればいいのだ
例えば、当時、世の中のキーワードと言えば“検索”だった。2004年には、GoogleがNASDAQに上場を果たしたのに象徴されるといってよい。それまで、人は集まるけど儲からないと思われていた“検索”が、リスティング広告の登場で、いきなり“打ち出の小槌”に化けたといえる。Mac OS X “Tiger”は、当然、検索機能をバリバリに強化してやってきた。Googleは「Google Desk Top Search」で、逆にパソコンのハードディスクの中の検索に踏み込んできた。マイクロソフトも、MSNの新検索エンジンを開発したり、『Stuff I've Seen』という強力な検索ツールをデモしたりしていた。必然的に、Vista 2005の売りも検索になる。
Tigerの“Spotlight”は素晴らしいが、同時期に登場していれば、Vistaも“検索”を高らかにうたったはずだ。ウィンドウが透過したり変形したりする“Aero”も同じである。しかし、Tigerの“ジニーエフェクト”(ウィンドウが、魔法のランプの魔神のようにキュウっと引っ込むメタファー)を見せられた後ではどうなのか、というようなお話になっているきらいがある。
とはいえ、Vistaの魅力は、あまりにもいろいろとバラバラに並べられているが、個人的にはVista 2005が売りにしようとした点ではないかと思う。つまり“実用的に気持ちよく操作できる”というとこだ。そのことを、『月刊ascii』(2007年3月号、1月24日発売)のコラム“それは順序が逆だろう”で書こうとしたのだが、なんだか中途半端な内容になってしまった(いま頭が整理できてこの原稿になっている)。
もっと簡単にいえば、個人的には、検索が便利になるだけでも十分に価値があるのではないかと思う。なぜかといえば、例えばその検索によって何かの操作がほんの1秒早く、ラクに済ませることができたとする。例えば、今回のVistaでは、プログラムを起動するときにでも検索が使える。たまにしか使わない電卓なら“電”と入れるだけで、“電”で始まるプログラムからサッと選べる。そういう積み重ねは、たぶん合計していくとかなりの手間(お金や労力に換算すればコスト)になるはずなのだ。高望みはするな、しかし、それでも十分に意味があるわけなのである。
- Windows Vista:○○するのに遅すぎるということはない
- Vienna:Vistaの後継。意外に早く登場?