【調査会NEWS1579】(26.6.20)
※送信がまだ正常に復していないため、それまでの間ニュースはメールでの送信を行わず代表荒木のブログ、Facebook、Twitter及び調査会ホームページでの発信となります。恐縮ですが拡散等ご協力をお願いします。
■1万キロ現地調査第21回結果の概要
大変遅くなりましたが去る6月4日から6日まで北海道のオホーツク海沿岸(稚内〜網走)で行われた1万キロ現地調査第21回の結果の概要をお知らせします。長文ですが、これでも報告に書けることは一部であり、あらためて拉致問題の根の深さを実感させられます。警察が「捜査上の理由から明らかにすることは差し控えたい」というのを連発する気持ちも多少は分かるような気がします。
1 稚内 調査
○調査対象
氏名 : 斉藤 裕 (さいとう ひろし)
生年月日 : 1950(昭和25)年9月17日
当時身分 : 高校3年生
当時住所 : 北海道稚内市
失踪日 : 1968(昭和43)年12月1日
最終失踪関連地点 : 北海道稚内市
□失踪状況
当日夜7時頃自宅で夕食を摂った後外出し、4キロほど離れた稚内市内の友人宅を訪ねたが友人が不在だったため、「また来る」と友人の家族に告げて友人宅を出たまま行方不明となった。脱北者による北朝鮮での目撃情報もある。
平成16年1月29日、北海道県警に告発状提出。
■調査結果
ご家族や友人に同行していただき、ご自宅跡や当日訪れた友人Kさん宅周辺について調査を行った。
斉藤さんは失踪当日の昼間、野寒布岬近くの友人宅を訪れたがKさんは不在だったため家人に「又来る」と伝えて一旦は自宅に戻っている。これまでは夕刻に外出した際に再び野寒布岬近くの友人宅に向かったものとされていたが、実際には自宅を出た後どこに向かったかの明確な情報はないことが分かった。自宅近くで事件に遭遇したことも含め今後の検討が必要と思われる。
Kさん宅があったとされる野寒布岬には当時米軍施設(現在は自衛隊の分屯地)があり、失踪当日夜裕さんがKさん宅に行ったとすれば、本件が軍事施設に関連する可能性があることが確認された。また、そうでなかったとしても米軍施設を監視する目的で稚内に居住していた固定工作員ないし土台人等協力者が斉藤裕さん拉致に関与した可能性も存在すると思われる。
なお、調査終了後に入手した情報によれば、稚内駅近くの在日朝鮮人の多い飲食店街で斉藤裕さんの兄が働いていたことがあり、裕さんもたびたび出入りしていた。また裕さんはこの近くのマーケットでアルバイトをしていたことがあるが、その向かいでは当時総聯系の在日朝鮮人が事業を営んでいた。この人物は裕さんと面識があったとも言われている。今後はその方面についても調査が必要である。
2 雄武町 調査
○調査対象
氏名 : 紙谷 慶五郎 (かみや けいごろう)
生年月日 : 1912(明治45)年3月5日
当時身分 : 漁業(圭運丸船長)
当時住所 : 北海道紋別郡雄武町
失踪日 : 1967(昭和42)年11月7日
最終失踪関連地点 : 北海道紋別郡雄武町元稲府北岸港から7キロ付近の海上
氏名 : 紙谷 圭剛 (かみや けいご)
生年月日 : 1941(昭和16)年3月20日
当時身分 : 漁業(紙谷慶五郎氏長男)
当時住所 : 同上
氏名 : 紙谷 礼人 (かみや のりひと)
生年月日 : 1948(昭和23)年4月11日
当時身分 : 漁業(紙谷慶五郎氏次男)
当時住所 : 同上
氏名 : 紙谷 速水 (かみや はやみ)
生年月日 : 1951(昭和26)年1月9日
当時身分 : 漁業(紙谷慶五郎氏三男)
当時住所 : 同上
□失踪状況
1967(昭和42)年11月7日、慶五郎氏の所有する漁船「圭運丸」(6トン)に息子の3人がともに乗船し、当日午前6時頃に北海道雄武町元稲府北岸港を出港し、潮の流れが速いため操業を中止して帰港する他の僚船とすれ違って漁場に出て、港から約7キロ付近の海上でイカ底建て網漁を操業中に遭難したとされてきたが、遭難現場を目撃した人物はおらず、付近に他の船が存在したかどうかも確認されていない。
船体は、当時網の設置されていた付近の海底にて発見されたものの引き上げ作業には失敗し、船の油や残留品などが海面で発見された後に雄武町付近の海岸でも発見されたが、4人の遺体は発見されないまま、捜査は打ち切られた。
最近になって「翌朝、まだ圭運丸について騒ぎにもなっていない時間に雄武町在住ではない人物が「紙谷の船が沈んだ!」と騒いでいた不審人物がいた」、「不審船に囲まれていた」などの情報が新たに寄せられた。
なお、慶五郎さんは当時、雄武町に所在した割烹「日の出」に出入りしており、ここに工作員高大基の妻となる渡辺秀子さんが働いていた。
平成26年5月、脱北者から「対日漁民作戦」情報が明らかにされこの事件も注目されることとなった。調査会からも海上での失踪について海上保安庁に再調査を要請した。海上保安庁は最新の機器類と潜水で付近海底の再捜索を行ったが、何も発見されなかった。
平成26年3月25日、北海道地検、北海道警、海上保安庁第1管区に対して告訴状を提出。
■調査結果
新たに「圭運丸は出港後、一度港に戻ってきた」との情報も得られた。「3隻の見知らぬ船に囲まれていた」とされる場所について、目撃者から当時の状況を聴取した。なお、6月4日に「道の駅雄武」で開催された集会の場で「昭和42年9月末頃(?)、雄武漁港の築港と赤灯台の真ん中くらいに黒い船がいたのを見た。時間は午後2時ないし3時頃。大きさは普通の漁船。小さい頃(小、中学校の頃)同じよう黒い船を見た事あり」との証言も寄せられた。「黒い船」については今回の調査以前にも同じ場所で圭運丸事件の数年後同様のものを見たとの証言も寄せられていた。今後さらに目撃情報が出てくることも予想される。
また、前述のように渡辺秀子さんが割烹「日の出」に務めていたとき紙谷慶五郎さんは同店をたびたび訪れていた。時期的には事件の6年前になるが本件は地上と海上双方に不審な動きがあり、告訴の行方にも注目しながらさらに現地での高大基をはじめとする固定工作員の足取りなどもふくめ調査を進める必要があると思われる。
〇調査対象
氏名 : 渡辺 秀子 (わたなべ ひでこ)
生年月日 : 1941(昭和16)年6月5日
当時身分 : 主婦(工作員・高 大基の妻)
当時住所 : 埼玉県上福岡市
失踪日 : 1974(昭和49)年3月
最終失踪関連地点 : 東京都目黒区
氏名 : 高 敬美 (こう きよみ)
生年月日 : 1967(昭和42)年4月10日
当時身分 : 幼児(工作員・高 大基、渡辺秀子夫妻の長女)
当時住所 : 埼玉県上福岡市
失踪日 : 1974(昭和49)年6月
最終失踪関連地点 : 福井県小浜市岡津海岸
氏名 : 高 剛 (こう つよし)
生年月日 : 1970(昭和45)年6月29日
当時身分 : 幼児(工作員・高 大基、渡辺秀子夫妻の長男)
当時住所 : 埼玉県上福岡市
失踪日 : 1974(昭和49)年6月
最終失踪関連地点 : 同上
□失踪状況
渡辺秀子さんは、出身地の北海道で在日朝鮮人工作員高大基と出会い、工作員であることを知らずに結婚して2人の子供(敬美・剛)をもうけ、埼玉県に居住していた1973(昭和48)年6月頃、高が突然失踪したため、その行方を追って高の勤務先であった東京都品川区にある「ユニバース・トレーディング社」を訪れた。
同社は北朝鮮工作機関による偽装会社であったことから、発覚を恐れた工作員たちが親子3人を監禁。敬美、剛の姉弟は翌1974(昭和49)年6月、福井県小浜市の岡津海岸から北朝鮮に送られたことが判明している。
一方、渡辺秀子さんについては「殺害説」もあるが遺体は発見されておらず、現時点真相は分かっていないため調査会では「拉致濃厚」としている。2008(平成19)年4月12日、警察は敬美さん・剛さん姉弟を拉致と断定し、高姉弟拉致の主犯である工作員・洪寿恵(ホン・スヘ)こと木下陽子について、逮捕状の発付を得て国際手配を行っているが、渡辺秀子さんについては何の措置も行われていない。
■調査結果
渡辺秀子さんについては昭和36年当時雄武町の割烹「日の出」の同僚だったSさんや4日の集会参加者の証言から雄武にいたのは昭和36年の春頃から秋頃までだったと推定された。
Sさんからはから概略以下のような話があった。
秀子さんは友人と一緒に「日の出」にやってきた。「日の出」のバーテンが紋別から二人を連れてきた。 「日の出」の真向かいには旅館があり、そこに、しばらく三人組の男が泊まっていた。3人とも、紺の上下の背広、揃いのネクタイ、サングラス。バーテンからこの3人は朝鮮人だと聞いた。そういえば朝鮮なまりの日本語だったようにも思う。
(荒木が高大基の顔写真を見せたところ)確かに3人のうちの1人はこの男性だと思う。この男性は、「日の出」にも時々やって来て、日の出の女将と茶の間で喋っていた。私達従業員は茶の間の前を通るので、その様子が見えたが、どういう話をしていたかはわからない。ある時渡辺さんが、「自分が付き合っている人が吉川旅館にいるのだけれども、夜は無線連絡の作業が終わるまでは部屋に入れてくれない」と言っていた。
高大基と渡辺秀子さんについては「昭和42年に雄武で知り合って結婚した」との説が一般に伝えられてきたが、今回調査の事前準備の過程で渡辺秀子さんが雄武にいたのは昭和36年であり、高大基との接点は雄武ではなかったのではないかとの疑いがもたれた(それについては事前に記者会見で発表)。
しかし、今回のSさんの証言の人物が高大基本人であれば昭和36年に二人はともに雄武にいたことになる。知り合ったのがどこかは不明だがいずれにしても今後高大基の北海道における足取り等についての調査が必要であると思われる。
3 興部町 調査
〇調査対象
氏名 : 非公開 ・ 女性
生年月日 : 非公開 20代前半
当時身分 : 非公開
当時住所 : 北海道紋別郡興部町
失踪日 : 1963(昭和38)年8月
最終失踪関連地点 : 北海道紋別郡興部町沙留駅
■調査結果
(1) 紋別郡興部町では1963(昭和38)年夏に当時20代前半の女性(非公開者)が失踪している。
情報提供者から「昔、両親が興部の海岸で燃料にする流木を拾っていたとき、4,5人の男たちに追いかけられたことがあり、それ以降、興部の海岸には行かなくなった。」旨の情報もあったことから、国道238号線沿いの海岸線を視察調査した。
「オホーツクライン」と呼ばれる海岸一帯は街中を外れると集落もない海岸が長く続く一帯で、車両の通行が少なくなる夜間では陸上側からの誘導があれば、何処からでも人目に付かず出入りできる地形であることが確認された。
(2) 1989(平成元)年5月に廃線となった名寄本線の鉄道も当時は走っており、興部町に所在した沙留駅は昭和56年当時の記録では1日の乗降客数が115人と、利用者数が少ない路線であり、「仮に工作員が海岸線から上陸して鉄道を利用したとしてもおかしくはない」との意見が寄せられた。
4 北見市 調査
〇調査対象
氏名 : 山形 キセ (やまがた きせ)
生年月日 : 1943(昭和18)年9月13日
当時身分 : 和裁見習い
当時住所 : 神奈川県川崎市
失踪日 : 1965(昭和40)年8月以降
最終失踪関連地点 : 神奈川県川崎市
□失踪状況
青森県弘前市の中学卒業後、川崎で和裁の見習をしていたが、1965(昭和40)年8月以降、手紙も写真も届かなくなり、それ以来 音信不通となった。
■調査結果
(1) 山形キセさんのご家族宅を訪ね、当時の状況等について聞取り調査を行った。概略の内容は以下の通り
・6月2日に北見警察署の方が来て、「キセさんの荷物は、(行方不明になった後)、弘前の実家に送られているということを(二、三日前に)知った。」という話をしていた。弘前の実家に姉の荷物が届いたという話は何も聞いていない。一緒に和裁見習いをしていた鳴瀬さん(実家が弘前で隣同士)が、姉の荷物を、弘前の実家に送ったという話も聞かなかった。
・姉と最後に一緒に写真を撮ったのは昭和40年8月。当時川崎に住んでいた兄、熱海に住んでいた姉は(川崎在住だったキセさんと)時々会っていたようだ。
・和裁見習いについては大きな不満はなかったはず。但し先生は「裁ち方」は絶対に教えてくれなかった。これを教えると皆辞めていくから、という理由だった。山形キセさんについては当時実家が青森県、失踪現場が神奈川県川崎市でもあり、今後は他の親族への聴取と川崎市の失踪時住所周辺についての調査を行うこととした。
(2) 国井えり子さん(後述)
5 枝幸町 調査
〇調査対象
氏名 : 非公開 ・ 男性
生年月日 : 非公開
当時身分 : 高校生
当時住所 : 北海道枝幸郡枝幸町
失踪日 : 1978(昭和53)年7月
最終失踪関連地点 :
□失踪状況
(26.6.4現在、ご家族との調整が終了していないため、非公開としています)
■調査結果
(1) 当会への情報提供を基に枝幸町歌登における失踪者の実態について調査を行った。
ア 1978(昭和53)年夏に同町から行方不明となった当時15若しくは16歳の少年Aさんのご親族から当時の状況などについてお話を伺った結果、不可解な失踪であることが確認され、引き続き情報を収集しながら
調査を行っていくこととなった。
イ 同町では他に数名の失踪者がいるとの情報もあったが、今回の調査過程では具体的な特定は出来ず、A
さん同様、引き続き同町での失踪関係者の情報収集を行っていくこととなった。
(2) 枝幸町の一角では「深夜の海に向かって車両のライトを点灯させていた不審車両があった」という情報を得
て、目撃者から状況について聞き取りを行った。
枝幸町の海はナマコの密猟が多く、実際に事件となったこともあり、海に向かってライトを点灯させていた車両が何に関係しているのかは現時点明確な判断は出来かねるものの、参考とする情報と思われる。
6 上川郡下川町 調査
〇調査対象
氏名 : 野崎 幸夫 (のざき ゆきお)
生年月日 : 1934(昭和9)年10月16日
当時身分 : 消防職員(北海道上川郡下川町消防本部)
当時住所 : 北海道上川郡下川町
失踪日 : 1961(昭和36)年7月1日
最終失踪関連地点 : 北海道上川郡下川町
□失踪状況
下川町消防本部で正午のサイレンを吹鳴した後、行方不明となる。
昼食は通常自宅でとっていたが、妻から昼食に戻らないとの連絡が入り失踪が判明。
■調査結果
現在は「上川北部消防事務組合」所属の「下川消防署」を訪れ、当時の状況等について聞取り調査を行うとともに当時の消防署跡地周辺の調査も行った。下川町は当時、金や銅の鉱山があったこと、林業も盛んだったことから1960(昭和35)年には人口も1万5千人を超え、映画館等もあった賑やかな町であったという。
野崎さんの勤務する消防署は、その賑やかな町の中心部(国道239号線)に面した位置にあり、「拉致」を考えた場合、衆目のある場所での「強制的な拉致」は考えにくく、仮に「拉致」だった場合は「別の場所に呼び出されて拉致されたであろう」と推定された。
幸い、野崎さんが行方不明となった時期(昭和36年)の地図が入手できたこともあり、今後は町内の状況についても調査を行うこととなった。
7 常呂郡佐呂間町
〇調査対象
氏名 : 岡田 優子 (おかだ ゆうこ)
生年月日 : 1953(昭和28)年3月27日
当時身分 : 中学3年生
当時住所 : 北海道常呂郡佐呂間町
失踪日 : 1967(昭和42)年10月23日
最終失踪関連地点 : 北海道常呂郡常呂町
□失踪状況
失踪した当日、「ちょっとカゼをひいた」ということで中学校を休んだ。
「少し気分が良くなったので、でかけてくる」といって自宅から外出した後、行方不明となる。
その後、湧網線・浜佐呂間から汽車で20分程離れた(最寄駅:湧網線・常呂駅)常呂町内の文房具屋で何かを買っているところを、実家の近所の人が目撃していたことが判明した。
■調査結果
岡田さんについては失踪当日、近所の方が隣町の常呂町の文房具店に立寄っているところを目撃されていたことが判明し、また海岸で岡田さんのものと見られるカーディガンが発見されていたことから、最終失踪関連地点は常呂町の海岸と判断され、今回の調査でも浜佐呂間の自宅跡地周辺及び常呂町内を調査の対象とした。
浜佐呂間の自宅跡地周辺では、当時の状況を記憶されている方から聞き取りを行い、当時の捜索で岡田さんのものと見られるレコード等が当時の常呂駅(現在はバスターミナル)裏手の海岸でカーディガン等と一緒に見つかった模様であること、当時立寄ったとされる文房具店は現在も常呂町内に現存していること等の情報と共に
当時の同級生についても情報を得ることが出来た。
常呂町では、当時の地図を入手し、岡田さんが立寄ったとされる文房具店も訪れて当時の状況について聞き取りを行った。
文房具点では当時の経営者にもお話を伺ったが、岡田さんのことは記憶に無く、1人で立寄ったのか、何を購入していたのかについては断定することが出来なかった。
しかし、当時の店舗では「レコードも販売していた」という情報が得られたことから、浜佐呂間で聞いていた「レコード等が海岸で発見された」との情報と符合する面もあり、岡田さんがこの文房具点で購入していた物品が海岸で発見されていたと推測される。
一方、物品が発見されたといわれる常呂駅裏手の海岸については、路線の直ぐ下が海岸(砂浜)であったことが地図との照合で確認され、駅のホームからでも見通せたと思われる場所に岡田さんの遺留品があった状況は海岸に岡田さんが居たという状況より、駅のホーム上、あるいは走り出した列車の窓から岡田さんの持ち物を投げ捨てられたと考える方が説明しやすい状況であると思われた。
今後は同級生等の証言も収集して、当時の岡田さんの状況について引き続き調査を行っていく事となった。
8 網走市内 調査
〇調査対象
氏名 : 国井 えり子
生年月日 : 1951(昭和26)年10月11日
当時身分 : 高校2年生
当時住所 : 北海道網走市
失踪日 : 1968(昭和43)年12月12日
最終失踪関連地点 : 北海道網走市
□失踪状況
失踪する数日前から、家には「学校へ行く」と言って出かけていたが、家族が仕事に出かけたあとで家に戻り、自分の部屋に閉じこもっていた(知人の証言)。
失踪した日の午前7時30分頃、「学校で試験があるのでいつもより早く学校へ行く」といってみかんを半分だけ食べて自宅を出たまま行方不明となる。失踪時の服装は高校の制服姿。普段かけていた眼鏡は部屋に置かれたままで、日記も2冊あった(日記は警察に提出し、その後処分された)。衣服などは持ち出した形跡はなかったが、アルバム(写真)がなくなっていた。高校生だったのでお金もそんなにもっていなかったし、家のお金にも手をつけていなかった。
失踪後、数日してから無言電話が3〜4回かかってきたが、家族が出ると一方的に切れるものだった。同様の無言電話が複数の親戚のところにもあった。
2004(平成16)年に北朝鮮から脱出した人物が持ち出したとされる日本人拉致被害者の女性写真が鑑定の結果似ているとされている。
平成17年9月30日、北海道警に告発状を提出。
■調査結果
(北見の自宅でご両親からの聴取)
・失踪状況・・・・前夜、えり子の叔父が来て泊まっていった。夜夕食を共にし、楽しく歓談。母親の着物(留袖)が出来たので、それを着て「いいでしょ!」と言ったりして楽しげにしていた。
・翌朝、いつもより早く、7時頃家を出た。前の晩勉強が出来なかったので、早めに学校に行って勉強すると言っていた。特に変わった様子はなかったが、いつもと違いみかんを半分残した。普段は必ず一個食べるのに。
・網走高校までは徒歩で通学。徒歩10分くらい。
・夜になっても帰って来ない。20:00頃警察に届けた。当時、自分たちは仕事に出ていて帰宅が遅かったのでえり子が普段何時頃に帰っていたのかはわからない。学校以外の場所でどういうところに行っていたか良くわからない。
・無くなっていたものは写真と手帳。家族と一緒の写真はなくなっていない。
・えり子が行方不明になった後、3回ぐらい無言電話あり。人の声や物音は何も聞こえず。いずれも夜。(昼間は自分たちは仕事があるので自宅にいない)
(失踪当時居住していた網走市内での調査)
自宅から学校までの道筋を徒歩で移動しても10分程度の距離で見通しも良く、街中で日中のため強制的な拉致は難しいのではないかと推測される。あるいは早めに家を出たというのが誰かに会うことを意味したのかも知れない。当時、友人と喧嘩していたことなどが日記の下書きから判明し、「死」についても記載があったことから警察では自殺の可能性も含めて捜索が行われた模様であるが、行方は分からないままに年月が過ぎていた。
今後当時の状況を綴ったノート等から、情報の分析を進めていくこととなった。
〇調査対象
氏名 : 非公開C
生年月日 : 1947(昭和22)年
当時身分 : 工員
当時住所 : 北海道網走市
失踪日 : 1972(昭和47)年12月24日
最終失踪関連地点 : 北海道網走市
□失踪状況
1972(昭和47)年12月24日、クリスマスイブということで友人とスナックで飲食後、一緒に目背を出た後、行方不明となる。後日、家族が友人に直接会って聴取したところ、「店を出て、別れた」と話し、「店を出た後のことについては知らない」と答えている。
■調査結果
今回の調査ではご家族等の同行が無かったため、最後に訪れていた網走市内の店舗跡(現在は別の店舗となっている)で位置関係を確認したに留まった。
▲現在の「しおかぜ」放送時間と周波数は以下の通りです
夜 22:30〜23:30 6020kHz 深夜 1:00〜2:00 6165kHz
■調査会役員の参加する講演会(一般公開の拉致問題に関係するイベント)・メディア出演・寄稿等
★CS放送チャンネル桜「防人の道」
●代表荒木が出演
●放送済み YouTube・ニコニコ動画で視聴可能
http://www.youtube.com/watch?v=4YIKO74yQM0&list=UU_39VhpzPZyOVrXUeWv04Zg&feature=share&index=2
★6月22日(日)15:00 緊急国民集会集会(家族会・救う会・拉致議連主催)
●友愛会館(03-3453-5381 都営地下鉄三田線芝公園駅A1出口1分)
●代表荒木が参加
●問合せ:救う会全国協議会(03-3946-5780)
★9月13日(土)14:00「中村三奈子さんをさがす会」集会(同会主催)
●アオーレ長岡(長岡駅徒歩3分)
●代表荒木が参加
●問合せ:中村三奈子さんをさがす会 090-4279-4724
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特定失踪者問題調査会ニュース
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