【調査会NEWS1547】(26.5.12)
今日は岐阜大学の大学院生だった林雅俊さんが失踪して16年目の日です。昨日岐阜市では救う会岐阜の主催で「林雅俊さんの失踪を考える会」が開催されました。挨拶されたお父さんの俊雄さんが「本当に良い息子だった」というおっしゃっておられた言葉が重く感じられました。
さて、これにあわせて岐阜に関わることをいくつかまとめてみました。
(1)林雅俊さん失踪
岐阜大学の大学院生だった林雅俊さんは平成10年(1998)5月12日夜大学を車で出たまま失踪。14日に越前町梅浦海岸に本人の車が発見される。車内に残されたパソコンには自殺を思わせるメッセージがあったが、調査会の常務理事でもある川人博弁護士の分析によれば他人が自殺を偽装した可能性が強いとされる。
<当時の状況>
4月28日 学校の近くでガソリンを満タンにしている。
4月29日 9:30頃家を出て20:00頃帰宅(木ノ本インター近くのGSで40〜45リットル給油)。失踪後調べたところ金沢の有料道路の通行券があった。高速券はなかった。
5月12日 大学で大日本土木に入るための面接練習をしていた。22:30大学の指導スタッフと別れる。この日の夜は帰宅しなかったがそれまでも卒論などで朝帰りとか泊まり込みがあったので帰宅しなくても不思議ではなかった。
5月13日 20時頃指導スタッフから「会う約束をしているのだが来なかった」と電話がある。
5月14日 福井県越前町海岸に車が止まっているとの電話が四ケ浦駐在所の駐在から自宅にあり、連絡を受けてお父さんが現地に向かう(現地に着いたのは同日17:00頃)。置いてあったのは海岸の釣り場に下りて行くところ(本人は釣りはやらない)で、下りて行く道を塞いだようになっていた。13日早朝から止めてあった模様。ドアはロックしてあり、中にパソコン、財布、免許証などすべて置いてあった。座席のリクライニングは倒れていた。パソコンには13日14:03の書き置きのようなものがあった。「このパソコンは義兄にあげる。ゼネコンはいやになった。道を間違えた」と書かれていた。義兄の名前などもあったので内容からして本人であることは確かとお父さんは思ったが義兄は中国に在住しておりまだ姉と結婚して間も無い頃でそれほど親しく話す間ではなかった。携帯はもともと持っていなかった。
●その後無言電話が1〜2カ月間続いた。1回女性の声で「雅俊さんいませんか」という電話があった。
●現場の周辺には何度も行ったが、越前町から東尋坊寄りのレストランで聞いたとき、「沖に船がいて陸との間で合図し、小さい船が着たりすると聞いた」との話があった。
(2)平成10年(1988)の夏(つまり林雅俊さん失踪の2〜3か月後)、岐阜大学医学部に勤務していた男性医師からの情報
夜9時近く机を置いている部屋に内線電話があった。この日施設には自分以外いなかった。電話の内容はチンプンカンプンで記憶に残っていない。残っているのは、訳のわからない電話だという印象だけ。
岐阜市役所の前の通りは、長良橋通りという大きな道路がある。市役所から、この長良橋通りを山田眼科の方に進んでいくと、泉町になる。地図の左側に、司町がある。98年当時はここに医学部があった(現在は移転)。医学部から官舎がある六本松までは伊吹町側にある駐車場出口から、長良橋通りに出る。この通りに朝鮮総連の岐阜県本部がある。
長良橋通りに出ると左にハンドルを切り、六本松の官舎に向かう。長良橋を越えると高富街道につながる。そのまま道なりで進むと、福光東、東2に至る。ここは大きな道路との交差点になり、地図にはデニーズが見える。ここで、右に曲がると、歩道橋がある。歩道橋近くは二股になっており、結局は、歩道橋を越えて少し行くと、合流する。
ここから少し走り、西山で山沿いの道に向かうのが、六本松官舎への通常の通り道になる。そのまま真っ直ぐ向かうと農道になるので、多くの方は山沿いの道を通られていたようだが自分は農道の方を通り、帰宅するのを常としていた。
訳の分からん電話の後帰り支度して、伊吹町の駐車場出口から右にハンドルを切って、長良橋通りに出た。長良橋通りは長良橋に近づくと、交差点を曲がることが多くなる。運転していると、後ろの車がパッシングしているような気がしてきて,バックミラーを見ると後ろに車がおり、カーブを曲がっても距離感は同じでついてくる。長良橋を越えて、高富街道になっても同じ車が、後ろに張り付いていたので歩道橋に向けて左にハンドルを切り、直ちに、二股になっている脇道に左に入ると、接するように近づいたまま同じ車がついてた。この段階で、自分をつけているだけではなく、襲撃する気があるということは確実になる。
再び、六本松へ向かう道路に近づくとウインカーを表示せず左にハンドルを切り、農道に入り加速し、引き離し、両側が民家になった地点で、ライトを消し、車を止めた。相手方は山沿いの道に入り、停止し、ライトを消して停車した。このあたりは街頭が少なく、真っ暗闇ではありないが、相当に暗い地域。相手方は山際だから、車のシルエットが見えますが、当方は家のシルエットにカバーされて相手方からの視認は困難だっただろう。しばらくして、相手方はライトを点灯し、車を切り替えし、元来た方向に引きあげた。
大学の病院の医局であれば、結構、訳の分からない電話はかかるが基礎の関係の教室には、通常は関係者以外の人間から電話は来ない。特に夜間では。従って、訳の分からない電話がかかるということは、本人同定の目的が濃い可能性がある。夜間に勉強するための部屋に一発でかけてくるのは、教室の内実を知らない限り、可能性は低くなる。狙いは自分だったのだろう。
脅しをかけるならば自宅に脅しの電話をするとか、携帯電話にかけるとかすればことたりる。自分は書類には自宅の番号や、携帯電話の番号は記載していた。従って脅しの目的では、一人でいることを確認後本人同定のうえ車でつける必要はない。また、襲撃の場合は、一人でいて当人がいるのは同定できているから、その場で行えば事足りる。従って、脅しや襲撃とは思えない。
(3)九州南西海域不審船事案と岐阜の関連
平成13年12月、奄美沖で海上保安庁の巡視船と銃撃戦をした後自沈した北朝鮮工作船から押収された携帯電話は次のようなものでした。通話先には岐阜県内の暴力団もあったと聞いていますが今は確認できません(下記は海上保安庁の資料から引用)。
ア 販売場所・時期:岐阜県内、平成13年2月以降
イ 通話記録:同年5月から11月にかけて百数十回
ウ 通話先:
・都内暴力団事務所の固定電話
・暴力団関係者契約の携帯電話
・何者かが韓国籍の者を偽装してレンタル契約したと思料される携帯電話
・在日の朝鮮籍及び韓国籍を有する者が契約した携帯電話
など
(4)元北朝鮮工作員・徐勝の親族が在住
五十代以上位であれば「徐兄弟救援運動」をご存じかも知れません。昭和46年(1971)、在日韓国人の徐勝・徐俊植兄弟が韓国でスパイとして逮捕された事件です。2人は後に釈放されますが、分かっているだけでも逮捕前次のように北朝鮮への密出入国をくり返しています。
昭和43年(1968)8月 徐勝が密出国
同年 9月10日(7日説も) 石川県能登半島の黒島から徐勝が密入国
昭和45年(1970)8月30日 石川県能登半島黒島から徐勝、徐俊植が密出国
同年 9月11日 石川県珠洲市の金剛崎から徐勝、徐俊植が密入国
原敕晁さんを拉致し成り代わった辛光洙は昭和60年(1985)に韓国で逮捕されます。徐勝と辛は同じ刑務所にいました。かつて辛と同居していた在日女性朴春仙さんは徐勝が辛と獄中で一緒だったと聞いていたので、京都で徐勝本人と会ったとき、辛の消息を尋ねました。すると、彼は一瞬顔色を変えて「ええ、(辛は)立派な先生でした。」と答えたそうです。徐兄弟を工作活動に導いたのが岐阜に住む親族だったと言われています。
以上のようなことについてお話しし、参加者の方々と議論するなかで、次のような情報提供がありました。
●岐阜大学に1990年代半ば在学していた女性の話
深夜の大学構内は危険とされていたようです。この女性の友人女性(同じ岐阜大生)が、深夜まで大学におりその帰路に、キャンパス内で複数の男に連れ去られそうになったとのこと。車を使用したという以外、人数や風体などの情報は不明です。
本人も夜大学構内から出て自転車に乗って家に帰る途中、車に追いかけられ、必死に逃げたそうです。もちろん、どちらも一般犯罪の未遂だった可能性はありますが、これも林さん失踪や(2)に近い時期ではあります。
これらについてお気づきのことがありましたらぜひお知らせ下さい。
※写真は林雅俊さん