実感とバーチャルな感覚について
一昨年位から何度かパソコンが故障した。毎日持ち歩いて、ハードに使っているのだから仕方ないとも言えるのだが、仕事の忙しいときにハードディスクがいかれてしまい、絶望感に浸った経験を持った方は私だけではないだろう。
何度かそんなことが続くうちに、ふと「これはパソコンに頼り過ぎるな」という天の啓示ではないかという気がしてきた。そんなときふと広告が目にとまったのが柳田邦男氏の『壊れる日本人』(新潮社)である。読んでみてなるほどと思った。
私はもともと機械物が好きだったこともあり、ワープロの時代から人より早くこの手のものを使ってきた。人にもあちこちで勧めてきたし、だからこそブログも始めたのだが、最近になってITの限界を感じるようになった。やはり実感と、機械を媒体にしたバーチャルな感覚は異なるのではないかということだ。これまでの反動なのか、最近、「実感」にやたらこだわりたくなっている自分に気がついた。
もちろん、そうは言ってもITと無縁の生活を送ることは不可能だ。必要に応じてお付合いしていくというところだろう。そんなことで、このところ、このブログはともかく、一般の原稿はしばらくぶりに原稿用紙で書き、清書にパソコンを使っている。原稿の中身の善し悪しはさておき、原稿用紙にペンを走らせるのは新鮮である。
ところで、「実感」と言えば一昨年(だったと思う)の8月15日に靖国神社で感じたことがある。あのときは靖国参拝がクローズアップされ、年齢を問わず非常に多くの人が参拝したのだが、私は何か不思議な違和感を感じていた。
こういうとお参りに行った人たちに失礼かもしれないし、私もお参りした1人ではあるのだが、戦争経験のある人が少なくなると、逆にバーチャルな感覚で戦争を受け止める人が増えてくるのではないか、「戦争」の実感が遠ざかって、靖国の英霊は寂しい思いをしているのではないかということだった。
そして、あのときふと感じたのは、「自分も含めて、戦争体験なしにお参りに来ている人よりも、2002年6月の黄海での南北朝鮮の海軍艦艇の衝突、いわゆる『西海交戦』で戦死した韓国海軍の兵士達の方が、靖国の英霊と共有できるものがあるのではないか」ということだった。 「西海交戦」の翌日の韓国紙には1面トップ記事の見出しに「戦死」という大きな活字が乗った。私はあの活字を見て「朝鮮戦争は終わっていなかった」ということを再認識したのだった。
総理の靖国参拝はもはや国際的な政治問題になっており、参拝しないわけにはいかないだろうし(常識的な総理であれば、だが)、参拝すべきだと思うが、個人個人の参拝は「中国や韓国が気にくわないから当てつけに参拝する」というのでは英霊に失礼である。今年は、250万柱の死にどういう意味があるのか、列に並びながら静かに考えてみたいと思う。
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