禅の視点から見ると、その男の主張は「心がすべてを決定する」という仏教の基本的な教えと響き合います。
これは「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」すべての現象は心によって形作られる、という教えと深く関係しています。
牢屋に囚われていても、もし心が自由であれば、その人は決して囚われているわけではありません。
逆に、外見上は自由でも、執着や妄想に縛られているならば、その人は牢屋にいるも同然です。
禅では「外の世界を変えるのではなく、内なる心を調えることが真の解放である」と教えます。
例えば、中国の禅僧・六祖慧能(ろくそえのう)は「心が自由ならば、どこにいても解放されている」と言いました。
また、臨済宗の開祖・臨済義玄(りんざいぎげん)も「心の王であれ」と説いています。
つまり、自分の心をしっかりと観察し、妄想に振り回されずにいるならば、どこにいても宇宙を支配するほどの広大な心を持つことができるということです。
支配するのではなく、「手放す」ことによって、本当の自由を得るのです。
「宇宙を支配する」という発想そのものが、まだ「何かをコントロールしたい」という執着の現れかもしれません。
禅的な究極の悟りは「何も支配しないことによる完全な自由」です。
この男の主張には、真理に近い部分もありますが、もし「宇宙を支配しよう」とする心が残っているならば、それはまだ道の途中かもしれません。
それをそっと手放してみることで、逆に大いなる自由が訪れるかもしれませんよ。