コメント
その程度の話と切り捨てられない話
(前段)「生き抜く」力ですか・・・すでに方々で教育目標にあがっていることを言うために、わざわざ選挙戦を「戦い抜く」力には恐れ入るばかりです。
(後段)教員評価分布・・・「いい先生・悪い先生」の目安として、これを期待している人は少なからずいるはずです。秋原さんは呆れていますが、決して侮れません。4月の学力テストでも、学校別あるいは児童・生徒別の番付を出してほしい人が多いですし・・・。
これとは別に府立大学(これも市立大学を吸収合併します)に「教育学部」を設ける話を聞いたことがあります。大阪教育大学など既存の教員養成大学出身者は文部省の言い通りなので、「ぼく」の言うことを聞いてくれる人材を養成したいという計画です。
残念ながら、大阪を活気づけよう、大阪市の歳入を増やそう、市民の暮らしを豊かにしよう、とする話はとんと聞きません。来る総選挙で維新から立候補しそうな前・宮崎県知事はトップセールスに異様に熱心でしたが、そちらの方がまだしも自治体の首長らしいです。
第2会派の公明党の罪も重大
イシン大阪との試合で、得点王秋原FWにパスを出して鮮やかなゴールにつなげたカフェ葉月の村野瀬DFの気分です。...と書いておくとふなぼりすたさんがサッカーネタのあるところ何かコメントしてくれるでしょうw
ということで、常連のみなさんも初めてのみなさんも、コメント欄で秋原FWにどんどんパスを出しましょう。^^
もう一つ思うのは、この件では維新の会のトンデモマネジメントもさることながら、協力者としての第2会派の公明党も共犯だということですね。
維新の会はまともな交渉や政策立案の相手ではないとますます強く思います。
橋下徹に教育を任せるわけには、いかない…。
・橋下徹個人の価値の押し付けでしかありませんね…、
“国際社会でも競争が激しくなる…”って、それは橋下徹自身が新自由主義・市場原理主義を信望している強欲資本主義社会を是とする人間らしい偏った視野狭窄に陥った思想を、多様な価値観をもつ市民、なかんずく、“権利の主体である”子どもたちに押し付けるものにほかありませんね…、子どもの様々な個性や特性等を摘み取るものではないでしょうか?…。競争が嫌いな子どもも存在します。
フランスなどは、過度な競争を嫌い、共生社会を指向するオランド大統領が誕生しましたし、ギリシアでは急進左翼政党の支持率が伸長著しいのです…。橋下さん…、あなたのお考え、価値観はもう古いんですよ…。島国日本にしか目がいかない、国際情勢に疎い人間には、首長の素地がないとしか言えません。
>大阪維新の会の府議も全く同じように「グローバル社会の中で生き抜く力」としか述べられなかった。
・漠然とした、観念論に過ぎませんね…、批評する価値すらない代物と言わざるを得ません。お粗末な思考です。
>「生き抜く力」という程度の短く平凡なスローガンを橋下や維新の会にわざわざ定めていただく必要は誰にもないと思うのですけど。それに、その「生き抜く力」とやらを本当につけさせる合理的な教育カリキュラムを立案することが橋下にできるんでしょうか...。
・橋下にそんな高尚な能力なぞ、皆無でしょうね…きっと。
>生き抜く力って、ようは、競争に勝って他人を蹴落とす力でしょ。
・ひとを蹴落とすと、後の後悔たるや、考えるだけで背筋が凍ります。わたしは嫌ですね…。こうゆう価値観の押し付けは断固拒否します。
>この条例によって、子どもの教育目標にこんなスカスカで空虚なことしか言えない人間が、学校現場を好き放題かき回すことができるのです。
・教育の政治介入の恐ろしい点ですね…、偏った思想の持ち主が首長になった場合、教育の自由が蹂躙され、教育の中庸が破壊されます。
>「小中学校の教員の勤務評価分布を学校ごとに公表する」
>しかも勤務評価なんてなにを基準にするのか当てになりません。
>まるでキャバクラかホストクラブでの人気投票みたいだと感じたのは私だけではないでしょう。
>「男芸者」という言葉がぴったり・・。
公務員叩きに限りない喜びを覚える人には溜飲が下がるでしょうが、私が生徒なら自分の恩師達がこんな辱めに合うのは耐えられません
・わたし自身、キャバクラには、頻繁に通った経験がありますが、キャバクラの方がまだ気が利いている…。従業員に君が代の起立斉唱なんて強制なんかしませんし、キャバクラに勤めるお姉さん方は、思想調査や分限免職なんてされませんもの…。
麻原彰晃とハシゲが重なって見えてきました
麻原彰晃マーチ
1
彰晃 彰晃 しょこしょこ 彰晃 麻原彰晃
彰晃 彰晃 しょこしょこ 彰晃 麻原彰晃
中野の彰晃 杉並の彰晃 消費税廃止だ
彰晃 彰晃
光を浴びて 今 立ち上がる
若き血潮に 応援しよう
みんなの暮らしを守るために
力をあわせて 推し上げよう
彰晃 彰晃 消費税廃止
2
彰晃 彰晃 しょこしょこ 彰晃 麻原彰晃
彰晃 彰晃 しょこしょこ 彰晃 麻原彰晃
渋谷の彰晃 中野の彰晃 教育改革だ
彰晃 彰晃
子供の暮らしを 守るために
今立ち上がる 若き力
子供の心を はぐくむために
あなたの応援が 必要だ
彰晃 彰晃 教育改革
(後略)
彰晃を橋下に変えると事は見えてきますよ。
彰晃はオウム真理教の思想を政府構想に反映させようとしていました。法律の構想もあったのです。
神聖法皇位承継法(自らの神聖化を図るための法律)、太陽寂静国刑律(刑法)、教育法(これはオウム真理教裁判でその実態が明らかになりました)、税法、政府組織法、国籍法、警察法、検閲法、軍事法、徴兵法とありました。
これをハシゲの主張と比較すると全く外れていないのです。大阪維新の会はオウム真理教とどう違うのでしょうか。
私には違いは全く分かりません(秋原さん、もしこのブログの趣旨に外れていると判断されたら採用されなくても構いません)。
ハシズムの背後にあるもの
この本は2003年初版発行で、同じ年の中央教育審議会の答申に対する批判として書かれたもので、だからその内容は9年前のものです。ところが読んでみると、現在の大阪府の教育基本条例や橋下氏の教育政策批判としても、すっかり当てはまるような内容でした。
そもそも、“橋下流教育改革”の内容はどこかで見たようなことばかり。もちろん、英国のサッチャー政権下の教育改革やアメリカの「落ちこぼれゼロ法案」と酷似しているということは、こちらでもみなさんが、さんざん指摘されてきた通りですが、日本でも少なくとも1990年代以降ずっと似たような流れがあって、橋下氏はそれに乗っかっているだけなんだということが一目瞭然です。
現在の橋下氏や維新の会の主張にも、すでにその兆候が見られるように、どこの国でも、新自由主義とは“自由”という名前が付いていながら、個人の自由を抑圧する国家主義(ウルトラナショナリズム)と相性抜群のもののようです。その「自由」とは「個々の人間の自由」のことではなくて、「金儲けをすることへの縛り(規制)はけしからん。好き放題に儲けさせろ!」という「資本の自由」のことで、それは国家権力と結び付いてこそ効果的に実現されるものだからでしょう。
そして、その政策の下では、元々大きな資産を持っていたり、有利な情報にアクセスできるような、恵まれた企業や個人が圧倒的に有利になります。多くの庶民は貧しくなる一方ですが、その不満を「国民一体の愛国心」という幻想でごまかし、隠蔽し、それに乗らない異端者は弾圧する。貧困や将来に対する絶望感が起因する青少年の非行や犯罪の増加に対しては、家庭のしつけや各人の道徳心が足りないせいだと説いて、封建的な道徳教育を復活させて国民に押しつける。さらに国内の不満のはけ口として、他国を「敵」とみなすように仕向けながら軍事国家化をすすめる。そういう手なんだなとつくづく思いました。(そういえば、小泉総理も強力に規制緩和を推し進める一方で、靖国神社への公式参拝を強行し、その“愛国ぶり”を積極的にアピールしていましたね)
そして、子どもたちにも、早くからその目的に沿った教育を施し、(下記の引用で斎藤貴男さんが言われているような)大企業の都合に合わせた「用途」にしたがって早めに選別してしまおうということなのでしょう。公共教育にかける予算を削って、庶民の子どもたちへの教育の質が落ちるのは構わない。彼等の大半はどうせ、将来は低賃金で首切り自在の「雇用柔軟型グループ」としてしか雇われないのですから。一部の秀才だけが大企業に役立つエリートや専門家として育てばよい。だから「市場原理による競争の導入」を名目に、公立学校間でも格差が拡大するような政策をあえて推し進め、成績の良い子の集まる名門校だけを重点的に財政支援すれば最も効率がいいわけです。
こうした内容を見ると『機会不平等社会』を書かれたジャーナリストの斎藤貴男さんを思い出すのですが、そういえば、こちらのAfternoon cafeの2月のエントリーで、斎藤さんのスピーチを取り上げられたものがありましたね。
斎藤貴男さん「橋下政治の危険性と民意のつくられかた」をメモ http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-879.html
---------(引用開始)--------------
お上 大企業に都合よい人材育成
橋下さんは、「選挙で選ばれたんだから私がやることは民意だ」と豪語している。そして「条例案」では、子どもたちに「規範」「義務」「自己責任」「愛国心と郷土愛」を押しつけ、「激化する国際競争に迅速的確に対応できる世界標準の競争力の高い人材を育てる」としている。これは橋下氏の独自の政策でもなんでもなく、日本の国是として追究されてきた、御上や大企業にとって都合のよい教育政策そのものであり、東京ではすでに進行し、全国に波及するほどの大きな問題であることをまず認識しなければならない。
少数の超エリートの下に労働者はロボットでいい
1995年、阪神大震災の年に日経連が「新時代の日本的経営のあり方」を発表した。これは「不況の原因は労働者の賃金が高すぎるからだ」とした上で、労働者を1.長期能力蓄積型 ( 超エリート) 2.高度専門能力活用型(契約型 ) 3.雇用柔軟型(いつでもクビを切れる非正規) の階層に分けるというものだ。
これを政策として強力に実行したのが小泉政権である。この時期、経済界の「教育制度を考える委員会」桜井会長も「企業に必要なのは一握りの参謀本部と優秀なスペシャリストで、あとはロボットのように働く労働者でよい。教育もそれに沿って進めればよい」 などと発言している。
小泉首相時代に強まった構造改革路線は、いま野田政権に受け継がれている。
--------(引用終わり)--------------
「これは橋下氏の独自の政策でもなんでもなく、日本の国是として追究されてきた、御上や大企業にとって都合のよい教育政策そのものであり、東京ではすでに進行し、全国に波及するほどの大きな問題であることをまず認識しなければならない。」
斎藤さんがこのように指摘されているように、これは橋下氏のオリジナルな政策なんかではまったくありません。この二十年あまり、財界や自民党によって、国民に押し付けられてきた政策とすっかり同じものに過ぎないのです。しかし、その自民党はダメになり、民主党も思ったほど使い物にならない、そう見極めをつけた人たちが、今度は橋下氏とその一派を利用しようとしているんじゃないでしょうか。国民に見抜かれつつあった格差拡大政策を橋下徹と維新の会という、新しいパッケージに包んで“新製品”に見せかけているだけのような気がします。もちろん、橋下氏本人もそれをよくわかっていて、自身の野望のために利用している面も大いにあるでしょう。彼はどの波に乗れば、自分が最も高みに登れるかという、“サーファー”のような感覚は鋭く持っている人なのだと思います。
橋下氏を叩くのは当然ですが、彼個人だけを問題視していたら、彼がコケて沈没したとしても、しばらくするとまた別の“スター”が現れて、同じことが繰り返されるだけでしょう。国民として、「もう騙されないんだ!」ということをはっきり示すべきだと思います。
私には子どもはいませんが、かつて子どもだった一人の人間として思うことがあります。それは人間は「人材」じゃない、ということです。企業の金儲けのための道具になるために生まれて来たんじゃないということです。教育は、ひとりひとりが「自分の人生の主人公」として生きていく力をつけるためのものであってほしいと思います。
補足
大内氏は最近の橋下氏の動向についても必ず言及しておられるはず、と思って検索したら、以下が見つかりました。
人民新聞オンラインさんより 【特集】橋下府知事の「大衆扇動」型ポピュリズム
特集1=インタビュー 大内裕和さん(中京大学国際教養学部教授) グローバル企業人材育成のための教育改革
http://www.jimmin.com/htmldoc/142901.htm
------------------(以下引用)--------------------
【グローバル企業人材育成のための教育改革】
──橋下前知事・維新の会が提案した「教育基本条例」案では、「グローバル社会に対応できる人材育成」「競争力の高い人材」と、「競争」が強調されていますが。
大内:新自由主義が進行する中、グローバル企業が望む人材を育成するのが狙いです。「思想及び良心の自由」や「表現の自由」ではなく、市場経済における「競争の自由」を重んじることであり、橋下知事は、そのことを何度も明言しています。教育に競争原理を持ち込めば、能力主義による生徒間の差別や学校間の序列化・格差が、ますます大きくなります。知事自身が、競争を勝ち上がり、階級上昇を勝ち取った人だということもあって、彼のスタンスには、優勝劣敗や社会ダーヴィニズムの考え方が色濃く出ています。
──維新の会は、学校選択制を強く宣伝しています。
大内:学校選択制も、新自由主義政策のひとつです。教育に競争原理を持ち込んで、「成績優秀」な学校を作り出す制度ですが、それは同時に、「成績の悪い」学校を作り出すことを意味します。東京都品川区が「個性的な学校づくり」を掲げて2000年に学校選択制を導入したのを皮切りに、多くの区・市が選択制を導入しましたが、生徒数の不均衡が大きな問題になっています。品川区のある小規模中学校では、志望者ゼロの年があったそうです。
「教育基本条例」では、3年連続で定員割れした学校は統廃合します。そうなると、近くに通える学校がない生徒が生まれます。これは、憲法26条が保障する「教育を受ける権利(学習権)」の侵害です。「近所の学校に通う」という原則が失われれば、地域と学校の関係性も希薄になってしまいます。「子どもをたくさん集めた学校=いい学校」でしょうか?学校が生徒集めばかりにエネルギーを注ぐようになれば、教育内容より宣伝が優先されます。保護者が、子どもを「よりよい学校」に通わせたいと考えるのは、当然かもしれません。しかし、「成績の悪い」学校は淘汰され、教育の中味は受験対策へ向けて画一化してしまいます。すべての人に開かれているからこそ公立、平等で格差がないからこそ公立なんです。
──また「教育基本条例」は、「教育への政治介入」を強調しています。
大内:教育委員会の裁量を縛り、首長のやりたいままに教育が左右されることは、教育の政治的中立、教育行政の独立性の確保という原則が失われます。かつての皇民化教育の反省から定められた原則を破り、歴史的教訓を投げ捨てる暴挙です。新自由主義的「競争」原理のもとで、学校の序列化を徹底させ、テスト結果重視の教育を進め、学校・教員も従わせる。目標を達成できない学校は、予算カット。命令に従わない教員は、処分。膨大な懲戒・分限処分についての規定で、教員を締め付けます。
「教育基本条例」では、校長・副校長は任期制です。同時に、校長には教科書採択権が与えられ、教員の人事異動などの権限も強化されるため、校長による管理統制は強くなります。一方で、任期が定められているので、校長の府教委への従属が強まります。その府教委も、知事による強い統制下にあるこうして教育現場での「首長独裁」が実現されるのです。
【橋下勝てば 中央政界へも波及 】
──「教育基本条例」が出てきた政治的な背景について、どう分析しますか?
大内:橋下知事は、立候補まで政治的経験がまったくありませんでした。いくらタレントで顔が売れていたとはいえ、個人的な人気だけでは、ここまでやれません。知事のブレーンとして、作家の堺屋太一や慶応大学の上山信一などが知られていますが、それに加えて新自由主義を進めたい財界のサポートが必ず存在するはずです。「教育基本条例」「職員基本条例」は、そうした新自由主義勢力によって、教員・公務員が、「敵対勢力」として名指しされた、ということです。
新自由主義によって貧困・格差が拡大すれば、大多数の生活・権利が脅かされます。 中東・アラブの民主化運動や、ウォール街占拠から世界に広がった運動のように、それに対する怒りの声が大きく広がれば、新自由主義政権は大きく揺らぐことになるでしょう。そこで、新自由主義政権の用いる手法が、「分断統治」です。「教員・公務員は、民間企業と比べて高い給料だ」「身分が保障されているから、教員や公務員はたるんでる」などといって、「教員と公務員」=「既得権を持つ者」として人々の妬みや嫉妬心を煽るのです。橋下知事の政治手法は、まさにポピュリズムです。それも「大衆迎合」ではなく、強力な「大衆扇動」型ポピュリズムです。この分断を超える連帯が実現できない限り、社会全体の貧困化は進むばかりです。
──橋下は大衆を分断する扇動者、新自由主義の旗振り役?
大内:そうです。2条例は、新自由主義を貫徹するために橋下・維新の会が出してきた切り札です。①新自由主義下で、グローバル企業が求める人材を育て、②教員・公務員を「抵抗勢力」として、徹底的にバッシングし、動きを封じ込める、のが目的です。
橋下の大阪都構想・2条例の動きは、大阪だけの話ではありません。もし今回のW選挙で橋下らが勝利すれば、この動きは中央政界へも波及し、政治状況が一気に流動化します。すでに自民党とみんなの党は、橋下との連携に向けて動き始めています。私は、憲法改悪を狙う動きが、再び加速すると危惧しています。
-------------------(以下略 引用終わり)-----------------------------
こちらは大内氏とも共著のある、哲学者で東京大大学院教授の高橋哲哉氏のインタビュー記事です。
【堺からのアピール】教育基本条例を撤回せよ さんより http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/4676435.html
競争と管理は教育の自殺 お上の幻想で子ども不在:高橋哲哉さん
------------------(以下引用)----------------------------------
--大阪市の条例案は「教育理念」として<他人への依存や責任転嫁をせず、互いに競い合い自己の判断と責任で道を切り開く人材を育てること>など6項目をあげました。
高橋:いずれも「人材」の言葉を使っています。この言い方に潜んでいるのは、国や社会が設計した人間に仕立てあげようという意図です。前文では、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとは言い難いと大阪市の教育の現状を示したうえで、時宜にかなった教育内容を実現しないと国際競争から取り残されるのは自明だと強調しています。しかし、やみくもに競争を煽(あお)りたてるのでは、ますます人格空疎で、勝ち負け以外の価値を知らず、世界に通用しない人間ができあがってしまうでしょう。
--学校を息苦しくしているのは競争と管理だと指摘し、共著「とめよう! 戦争への教育」(学習の友社)で書かれました。<競争は新自由主義という思想に基づくものですし、管理は新国家主義といえると思います。競争と管理は、いまの権力者たち、為政者たちが「国家戦略」として採用している思想-新自由主義と新国家主義-を教育現場に持ち込んだものです>
高橋:1990年代のグローバル化の流れに呼応し、とにかく競争に勝たねばならないという価値観を教育現場に押しつけました。弱い者が淘汰(とうた)されていくのは敗者の自己責任で、全体が発展するためにはやむを得ないという論理です。同時に、多少なりとも自由が認められていた教育現場の管理が強められました。服務規律の徹底、愛国心や忠誠心を教える新国家主義が、弱肉強食を正当化する新自由主義とセットになっているのです。2006年の教育基本法の改定もこの流れでした。
--いわゆる「日の丸・君が代」を強制している自治体では、教育委員会が出す職務命令を校長が教職員に徹底します。著書「教育と国家」(講談社現代新書)で苦言を呈されました。<上命下服のシステムは全体主義国家の特徴そのものですから、こうしたシステムのもとで教育された子どもたちは、自分の頭で考え、自分の理性でものごとを判断することができなくなってしまう。「お上」の命令であればその内容如何(いかん)にかかわらずそれに従うような教育の場で、自分の頭で考え、自分の理性でものごとを判断できる子どもたちが育つとは思えません>
高橋:さらに言えば、こうした教育環境では、自由な精神をもつ人は教師になりたがらなくなってしまいます。学校教育自体が小さくなると、子どもたちからクリエーティブな力は生まれてきません。これは少し強く言うなら、教育の自殺行為だと思います。
-----------(以下略 引用終わり)--------------------------
>風鈴草さん
> 「これは橋下氏の独自の政策でもなんでもなく、日本の国是として追究されてきた、御上や大企業にとって都合のよい教育政策そのものであり、東京ではすでに進行し、全国に波及するほどの大きな問題であることをまず認識しなければならない。」
>
> 斎藤さんがこのように指摘されているように、これは橋下氏のオリジナルな政策なんかではまったくありません。この二十年あまり、財界や自民党によって、国民に押し付けられてきた政策とすっかり同じものに過ぎないのです。しかし、その自民党はダメになり、民主党も思ったほど使い物にならない、そう見極めをつけた人たちが、今度は橋下氏とその一派を利用しようとしているんじゃないでしょうか。国民に見抜かれつつあった格差拡大政策を橋下徹と維新の会という、新しいパッケージに包んで“新製品”に見せかけているだけのような気がします。もちろん、橋下氏本人もそれをよくわかっていて、自身の野望のために利用している面も大いにあるでしょう。彼はどの波に乗れば、自分が最も高みに登れるかという、“サーファー”のような感覚は鋭く持っている人なのだと思います。
>
> 橋下氏を叩くのは当然ですが、彼個人だけを問題視していたら、彼がコケて沈没したとしても、しばらくするとまた別の“スター”が現れて、同じことが繰り返されるだけでしょう。国民として、「もう騙されないんだ!」ということをはっきり示すべきだと思います。
そうなんです、激しく同意です。
彼がやってる、福祉削減、箱物大型投資っていうのは、まんま自民党がやってきた手垢にまみれた古くさい周回遅れの財界優遇政策です。
それを劇場型政治という毒々しい着色料(この着色料はヒトラーがつかったのと同じモノです)で色づけし直してして国民に新しい食べ物と勘違いさせて食べさせよう、という手なんだと思います。
そこを見抜かないと、もしかれが政治の舞台を去ることがあっても、第二第三の橋下がいずれはでてくるでしょう。
そして国民も麻薬のような劇場型政治に酔いたくて、第二第三の橋下を自分から求めるんです。
ところで菅元総理が「橋下氏の人気は一過性のモノ」と発言したようですが、認識が甘いと思います。甘く見てはいけません(だからこうしてブログを書いています)
彼は決してヒトラーのような大物ではありませんが、今の日本人にはそんな大物でなくてもネズミ男級、スネ夫級のポピュリストで事足りるのです。
>小野哲さん…、>風鈴草さん…
> 主人である時に一切の他人を奴隷にするものは、主人ができると、必ず奴隷をもって自ら甘んずる。これは天経地義、動かすべからざる真理である。
まさにハシゲの本質(弱者をくじき、強者に阿る…)を予言した様な言葉ですね…
魯迅は、日本の東北大学医学部に留学した中国の作家・思想家ですが、日中友好のシンボル的な人物です。
魯迅は、小林多喜二が特高警察の拷問により惨殺されたことに深い悲しみにうちひしがれ、ご遺族宛てに哀悼の書を送りました。やはり歴史は繰り返されると言いますが、小野哲さんのコメントにより歴史に学ぶ大切さをあらためて痛感したところです。
>風鈴草さん…
いつも有意義な資料のご提示、感謝します。
先頃、石原都知事が、ハシゲに呼応し二番煎じの「東京維新の会」の立ち上げを表明し、独裁者同士ラブコールを発信しあい連携を模索している様ですが、ハシゲとポルポト石原が結託すれば、行き詰まり、不当性が明らかになり今や、時代遅れに成り下がった“新自由主義・市場原理主義”が日本に寄生し固定化することが目に見えますね。わたしたち主権者は、国家やひと握りの大資本家・強欲富裕層の奴隷ではないことにもうそろそろ気づかなければ、貧富の格差は固定化される一方で、取り返しのつかない事態になると懸念します。風鈴草さん…、国家権力と新自由主義・市場原理主義との親和性…、勉強になりました。ありがとうございます。
>秋原葉月さん >青い鳥さん
私の書いたようなことなんて、すでに「軒づけ日記」の ゆりひななさんが書かれていてるのは知ってたんですが。(^^;)
(軒づけ日記 「橋下人形と新自由主義の大実験 その1~4」 リンクは下記ブログのエントリーに)
ゆりひななさんはまだ若いお母さんのようですが、ほんまに賢い人やなあ。(慣れない大阪弁。w)自分の若いころを考えると、恥ずかしくなります。こんなお母さんに頑張ってもらいたいと思います。
「【堺からのアピール】教育基本条例を撤回せよ」さんや「kojitakenの日記」のkojitakenさんも、ゆりひななさんのこれらのエントリーを取り上げていらっしゃいましたね。
【堺からのアピール】教育基本条例を撤回せよ 橋下さんは、ほんまに『独裁者』なんかな~?(ゆりひななさん)
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/?p=13
>橋下さんは、ほんまに「独裁者」なんかな~?
>選挙期間中から、ずっと疑問に思ってた。
>確かに、ご本人は、独裁的手法がお好きやと思うし、選挙制度を利用して、独断政治をやろうとしてるんやろう。
>でも、気になるのは、彼を後押しする財界の思惑やの。
>ほんとは「彼」でなくてもええんちゃうやろか、「彼」は人形なんちゃうやろか・・・。
>そこで、彼のやろうとしてることを、「財界」の視点で見たらどうなるか、細かく考えてみようと思う。
kojitakenの日記 「独裁者」と「新自由主義」は対立概念ではない(「ゆりひなな」さんのコメントへのご返事)
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20111227/1324919408
kojitakenさんは、ゆりひななさんのご意見におおむね賛同されているものの、橋下氏が「人形」であるという見方については批判されています。kojitakenさんは、小沢氏の信奉者の人たちの間に見られる、ある種の“カルト化”のような現象をずっと見てこられたので、「橋下を操る悪の組織」のようなものを仮定しまうと、しばしばそれに固執して、現実離れした方向に走りがちになることを心配されたようです。
>その意味で、4番目のエントリのコメント欄に書かれている、「橋下はただのデコイにすぎない」、「橋下以外にもっと狡猾なブレーンが他にいる」、「アレは、正直そこまでのタマじゃない」といった意見には私は賛成できません。そうやって「悪の組織」みたいなものを仮定してしまうと、やがてそれが「教義」と化して、「小沢信者」が現にはまっているような「陰謀論」の罠にはまってしまう恐れがあります。
>組織が悪いんじゃなく、人間が悪いんです。組織的にやっていることであっても、その組織を動かしているのは人間であり、「組織」だとか今はやりの言い方で言えば「霞ヶ関」などの「顔なし」がやっているのではありません。人間がやっているのです。
>別に「新自由主義者」であることを隠して橋下は当選したわけでもなんでもなく、4年前からずっと「新自由主義者」として叩かれています。橋下は、人々のルサンチマンを刺激して煽動することにかけては卓越した才能を持っているといえるでしょう(ろくでもない、有害な才能ですが)。その最たる例は、山口県光市母子殺害事件の弁護団への懲戒請求を、読売テレビでやっている「やしきたかじん」の極右番組で煽ったことでした。ああいうことをやって人々を煽動できる人間はそんなに多くありません。他には石原慎太郎や小泉純一郎などが数えられるでしょうけれど。
kojitakenさんの言われる、「独裁者」と「新自由主義」は対立概念ではないというのは正しいと思います。そして橋下氏は、けして人の言いなりで動くような「タマ」ではないし、彼自身が扇動者として、稀なる才能を持っているのも事実でしょう。しかし、強烈な個性を持つ独裁者といえども、しばしば、国内外の莫大な資金や権力を持つ人たちの意向を受けて、その人たちのサポートによって、その地位を得るという場合もあります。私は、ゆりひななさんは、その辺のことを言いたかったのではないかと思ったのですが・・・
>「橋下は確かに強力な敵ではあるけれども、必ずや打倒できる」と私は信じています。今後も橋下に関する鋭い考察が書かれた記事を期待しています。
これについては、私も全く同感です。今後も、kojitakenさん、ゆりひななさん、秋原さん、村野瀬さん、【堺からのアピール】さん、その他、多くのブロガーさんのご活躍に期待します!(^^)/
教員の評価について (元おちぶれ教員さん,読んでおられたらフォローお願いします)
教員には,全員に大きな柱となる仕事が3つあり,どの教員もその3つをこなしています→公立(高)校。
これは私立高も同じで,恐らく中学も同じだと思います。
決して,教えたりクラス運営をしたりするだけが教師の仕事ではありません。
これは全国の都道府県が持つ公立高校でずっと前から同じですが,橋下さんはその3つを全部言うことさえできないと思います。
答は,まず皆さんがご存知の『教科指導』。
これも細分すると,授業準備(プリント作成,印刷),授業,放課後の補習,課題回収とチェックと返却,
定期試験作成と採点,模範解答や講評等の配布資料作り,成績処理,HR準備くらいは少なくともあります。
そして,その他にも『クラブ指導』と『分掌』が,教員全員の仕事です(3つの柱)。
クラブ指導は体育科や音楽科の教師だけの仕事,『分掌』は担任のない一部の教師だけの仕事,と思う一般の方
は多いと思いますが(私も昔そうでした),違うのです。全員がいずれかのクラブの顧問で,いずれかの分掌の担当します。
自分が(実技が)できない球技等のクラブ顧問になることもあり,その場合,実技指導ができなくても,部費管理と
会計,生徒の相談相手の他,練習試合(週末)や合宿の引率に行き,試合で審判ができるようになるための講習会等の研修にも行く必要がある(=出張)ので,決して実技指導ができる先生だけがクラブ指導で大変なわけではありません。
ちなみに,分掌には『教務』『総務』『生徒指導』『進路指導』『図書』『保健・教育相談』などがあり,
担任を含む全教員がどれかを担当します(担任でない教師は,担任よりは分掌の仕事量が多いという違いはある
=分掌専任)。
『広報』の仕事=学校の宣伝(→近隣の中学校周り,学校説明会や体験授業,学校見学等のプラン作成やスケジュ
ールの拡散,学校案内冊子作りなど)が総務部に含まれていたり,総務部が教務部に内包される場合もあるので,
上の分掌(=『 』)の全てが『○○部』として独立しているかどうかは学校に依りますが,3本柱はどこの学校でも変わりません(支援学校を除く)。
そして,3本柱の各々について会議があり(教科会,分掌会,クラブ顧問会議),さらに学年会,職員会,担任会などの会議に出席する職務もあります。
また,例えば自分の分掌が『進路』であっても,業間指導や登下校指導(などの『生徒指導』)は,分担して全教員で行うことが多いため,自分の担当以外の分掌に関わることが必要な場合もあります。
正直言って,大学では『分掌』の各々だけに勤しむ専門の事務職員が雇われており,例えば就職指導課の職員は教科やクラブの指導はしません。
分掌だけでも,とても重い仕事なのです。
橋下さんは教員の評価に関して,現場の最高責任者の校長方の上に立って,あれこれ大きく変えようとしています。
しかもこの記事のように「教員の評価の公表」を考えているなら,公表する評価が3本柱の全てに置いて適正な評価であるためには,
評価基準が次の点をカバーできていることが必要です。
…*校長は3つの仕事をどんな比重でどう採点したら,適正な評価ができるか。
そのためには,
*どんな職場にとっても共通な基礎部分の,適正な評価基準の例,
*職場のタイプ別の評価方法の幾とおりかの例(評価に柔軟性を持たせる場合の実例),
これらのたたき台くらいは用意できていないと,公表される評価の信頼性,妥当性は疑わしいと思われます。
指揮官にはそこまでできないと言われるなら,せめてそのレベルのものがこの先現場で準備できる見込みがあるか
どうか,を探るべく,
教員の評価についての多くの校長の意見を聞く機会を持つことくらいは,当然するべきなのでは?
さて,現実には,学校により現場の事情や条件は様々に異なるので,そんな基準は作り得ないことは自明です。
わかりやすいように,例を挙げます。
例えば,「放課後どの会議にも一切出ず(同じ教科や学年の先生に任せて),『分掌』の仕事も『部指導』もしない。
でもその時間に毎日補習を設定し,継続してずっと『教科指導』に従事する先生」がいたとして,
その教師の評価はどうなるか?
難題です。評価の仕方を是非聞いてみたいものです。教科や学年の先生方,そして生徒はとても助かる,
でも同じ部の顧問と,分掌,学年,教科の同僚(他の教師)のフォローがあってこそ,できることです。
補習をしている時間,彼(女)が分掌や部の仕事をしない分は,他の教師が補完しているのですから。
このように,教員の相互協力でなんとか学年全体,教科全体ひいては学校全体の仕事が補完されている事例は,
学校では多いので,その毎日補習をする教員が「(全教員出席が必須の)会議に出てない」,とか,
「部指導や分掌の仕事を補習中してない」からといって,即悪い勤務評定をつけることは難しいし,
また反対に,補習はしないものの,その分,分掌や部指導で彼(女)の分まで貢献している教師もいます。
つまり「相対評価で最下層の評価の教師を必ず5%は作る」などというとんでもない制度を考えた橋下さんの前科を考慮すると,彼は,
*3本柱を考慮した評価基準は何1つ考えないまま。それどころか
*教師の仕事にどういうものがあるかすら,知ろうともしないまま。さらに
*「教員の相対評価は難しい」と言う校長の意見には耳も貸さずに,
教師を相対評価で順位付けし,さらにそれを公表する制度を導入しようとしているのだと確信します。
そして,上述のように,その評価は「教師の仕事の全体像(3本柱)」を鑑みれば公正なものとは思えず,
何を以て評価するのかさえよくわからず,全てが校長任せとなるように思えます。
首長として教育に口出しするなら,教員の守備範囲として,教科の仕事以外にもこれくらいはあるということを知るところからしてもらいたい。
維新と公明党の議員さん達は,できたら1月でも教諭を体験してみてはどうでしょう?
→6畳の部屋で6人の乳幼児の面倒を,奥さんと2人で一回見てごらん,という保育所の基準緩和の話と同じ。
生徒が教師の「授業評価」をすることは可能だし,教師にとってもその声をきくことはとても勉強になります
(それでも,例えば「ある教師の出す多い宿題」が,ある生徒には重荷でマイナス評価,ある生徒は歓迎してプラス評価をする
といったような,正反対の評価になることもあるので,評価は本当に難しいですが)。
でも保護者が教師を評価する場合は,ずいぶん偏った一部分しか評価ができなくても当然です。
ある先生が教科指導以外の仕事でどれくらい学校や(自分の子以外の)生徒に貢献しているか,は保護者にはあまりわからないからです
(特に分掌面は,ほとんどわからないのではないでしょうか)。
なのに,保護者に『不適格教員申し立て権』を認めるなどと,これ自体果たして適切だったと言えるでしょうか。
これはまた,現場を知らないままトップに立つことになる民間人校長も同じです
(トップが教員の仕事内容を知らずして適正な評価ができるわけはないのに,とても大きな権限を持たせてしまっている)。
秋原さんが言われるように,民間校長が「起立斉唱をしている」など,教師の仕事のうちごく一部のある仕事について,
自分(=校長)の主義に合った,気に入ることをする教師にだけよい評価をつける危険性が大きいと言えるでしょう。
この法案が通ったあと,大阪市立学校がどうなるかを考えると,先生方と生徒らが虐待を受けているようにすら思えます。
秋原さん,長文失礼致しました。長過ぎるという理由でスルーされても構いません!
mimosa様
それにしても、秋原氏はもちろんのこと、さらによく投稿していただける何人かのコメンテーターの方々、あるいは「堺からのアピール」、村野瀬氏などなど、みなさんが休まずがんばって正義の主張をなさっておられますが、世間全体からみればなぜか少数派となり、どう考えても悪政としかいいようのない橋下氏の政治が多数の人々に強く支持されている状況には戦慄するのみです。20年前にはおよそ予想すらしなかった世の到来です。
これから先の20年後、私はこの世に存在しない可能性が高いですが、大阪では学校教育が破戒しつくされて長くたった後でいったいどんな世になっているのでしょうか、想像したくありません。また、東北・関東方面では原発事故による健康面を中心とした影響も相当でていることでしょう。ああ、おそろしい。
>元おちぶれ教員さま(ありがとうございました!)
すぐにお返事を頂いていたのに,御礼が遅れて申し訳ありません。
書いた後,自分の認識に偏りや思い込みや誤りがないか,もれがないか等心配だったのですが,
元おちぶれ教員さまが「きちんとまとめてある」と言って下さったので,元気百倍でホッとさせていただいた次第です笑。
それにしても,
>みなさんが休まずがんばって正義の主張をなさっておられますが、世間全体からみればなぜか少数派となり、
>どう考えても悪政としかいいようのない橋下氏の政治が多数の人々に強く支持されている状況には戦慄するのみです。
↑
ここの部分,本当にそうで,すごく落ち込みます…
秋原さんが私が書いた教員評価の公表についての上の文をエントリーで取り上げて下さったため,なんと拙稿がブロゴスに載ってしまったんですね。
で,そこで寄せられたコメントを見たんですが…。ホント不愉快な誤解が多かった印象です(その後見直していないですが)。
大体は,私の書いてることを読んでないのではと思える『誤った解釈』に基づく,橋下信者とおぼしき人からの批判と罵詈雑言で,
*無能な教師ほど,評価されることを嫌がるものだ,とか,
*ちゃんと働いている教師は低い評価はつかないので,何も心配する必要はないんだが?,とか,
*仕事がたいへんなのは会社でも一緒なのに,何えらそうなこと言ってるんだ,路線。
私は『教員の相対評価(=順位づけ)に必要な評価基準について,(仕事内容がこうこうこうゆえに)作るのは不可能である』と主張していて,
さらにそのあたりのポイントは,秋原さんがタイトルと冒頭でしっかりフォローして下さっているのに(『教員評価を公表することの愚』:違う学校の別の校長がつけた評価
どうしを比較はできない),なぜ評価されること自体を否定していると受け取られてしまうのか…正論で説明してもわかってもらえないので,悲しく思いました。
→説明不足は私が悪いので,コメント欄で補足させていただいております。
秋原さんのコメント欄見ても思うことですが,くってかかってくる人は文自体を読まずに書いてることが多いんでしょうかね。…
でも,ここAFCでこの記事をツイートして下さった方は,みなさん好意的なのでしょうか,「先生の仕事をもっと知ろう」と書いて下さっていたりしたので,
日が経って,少し落ち着いて来ております笑。
とりあえず,元おちぶれ教員さまと秋原さんにご報告と御礼です。ありがとうございました。