Vol.34 彗星のように現れたピアニスト小曽根真、クラシックとも真っ向勝負…世界を舞台に<下>
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渡辺貞夫(サックス)、北村英治(クラリネット)の両ベテランが相次いで米国の名門レコード会社と契約した1980年代前半、
12歳で「ジャズピアニストになる」…米バークリー音楽大へ留学

1961年、神戸市生まれ。父はジャズピアニストでオルガン奏者。小曽根は物心がついた時にはピアノをおもちゃ代わりにしていた。5歳の時にピアノを習い始めたが、「教則本があまりに退屈だった」と、すぐにレッスンを放棄。以後、もっぱらオルガンを独学で習得した。7歳の時には毎日放送(大阪)のテレビ番組に隔週でレギュラー出演し、オルガンの演奏をしていた。
12歳の時、名ピアニスト、オスカー・ピーターソンの来日公演を聴き、衝撃を受け、「僕もジャズピアニストになる」と決意した。高校1年生の時に地元のジャズ祭で、親交のあった北野タダオ率いるアロージャズオーケストラにソリストとして参加。以後3年間、同オーケストラの一員として本格的に演奏活動を展開した。北野から米国最高のジャズ教育機関と言われるバークリー音楽大学への進学を勧められた。
「ほぼ独学でやってきたので、体系的にジャズを学べるのは魅力でした。留学後はアロージャズオーケストラに戻って、将来は北野さんの後を継ぐというのが夢でした」
1980年にバークリーに入学。経験的に理解していたことが理論化されていく数々の講義は、「まさに目からウロコが落ちるという感覚」で、小曽根の血肉になっていった。
教員の尽力で卒業後も米国滞在、初アルバム「OZONE」で世界デビュー
在学中からジャズクラブ出演など仕事にも恵まれた。また著名なジャズ雑誌のコンテストにも応募、学生部門で優勝した。この時、「まるでオスカー・ピーターソンのようだ」という評価を受け、無邪気に喜んだ。
卒業後に帰国するつもりでいた小曽根を引き留めたのは、大学の教員でもあったビブラフォン奏者、ゲイリー・バートンだった。「マコトはとどまるべきだ」と、ビザ取得に奔走してくれた上、自身のツアーの伴奏者に起用してくれた。
「ゲイリーは文字通り僕の恩人です。『お前は話ができるが、聴くことができない』とよく言われた。共演者のソロを表層的にとらえ、自分のソロを組み立てるだけではダメで、その行間ににじむ真意をくみ取ってこそ、優れた演奏になるということ。まさにジャズの神髄を教えられました」
さらに大きなチャンスが舞い込んだ。卒業式の演奏を聴いていた名プロデューサー、クインシー・ジョーンズが自らのレコード会社との契約を持ちかけた。同時期に、自主制作していた音源がきっかけで、米大手のCBSからも誘われた。小曽根はCBSを選んだ。
「まったく予期せぬ話で、逆に目がさめた。これまでと同じにやったらピーターソンのコピーで終わってしまう。録音までの半年間、縁のなかったクラシックを聴きあさるなど、新しいアプローチで、自分の音楽を一から構築しました」
84年、初アルバム「OZONE」で世界デビュー。漂うような繊細な叙情美は、独創的と高く評価された。
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