「社会正義」から逃げることはできない

社会正義が「いやらしい」のは認めるが、だからと云って「個人の正しさ」に逃げ込んでも無責任になるだけである。


2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ[絵文録ことのは]2007/01/13
2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ[絵文録ことのは]2007/01/15


言及記事は連作と云えるのでまとめてリンクする。
先の「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ」の大きな矛盾は、「2ちゃんねるの致命的欠陥――ひろゆきは2ちゃんねらーに責任転嫁すべきだ」で論点を「2ちゃんねる」の詳細に絞ることにより消し去られている。
が、間接的にでも先行記事で提示された「社会正義のいやらしさ」は解消されないまま、法治主義として棚上げされてしまったのは残念である。個人的には別記事としてそちらを論じて欲しいものだ。


別段「2ちゃんねる」を擁護するのではないが、記事の「2ちゃんねる批判」*1の所在なさは批判したい。


まずは、先行記事の「要点」を引用。言及しやすいように元記事にはない番号を打つ。

1) この世の中に絶対的な正義、絶対的な善はありえない。個々個人の考える正しさのみが存在している。
2) 事実と合致しているか否かという意味で、真と偽は存在する。
3) 個々個人の判断として、好き嫌いは存在する。
4) しかし、自分の考える個人的な「正しさ」を、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」として主張する人がいる。私はそういうのは嫌いだ。
5) また、「社会的正義」あるいは「世間のあるべき姿」を勝手に想定し、自分ではなく世間や社会の要請として押しつける人がいる。私はそういうのは嫌いだ。
6) 彼らのいう「社会」や「世間」は、果たしてどれほどの広さ、どれほどの普遍性があるというのだろうか。
7) 私は、自分の意見や主張は、あくまでも個人的な考えとして表明する。社会や世間に責任転嫁したくはない。
8) もしそれに賛同者が多ければ、それだけの話である。もしそれに反発する人が多ければ、それだけの話である。

1)の前半に異論はない。加えて云うなら「法」とて絶対的ではない。が、後半はどうであろう。「個々個人の考える正しさ」とは何か。「価値判断は個人によって行われる」というのであれば了解するのであるが、それを「正しさ」と云ってしまうのは何らかの共通規範を前提していまいか。
2)は「事実判断」、3)は「個人的嗜好」であろう。
4)5)は重複。
6)は1)により否定される反語。
7)は自己規範に関する表明であるが、それが「責任転嫁」であるなら否定されて当然であろう。
8)の「それだけの話」がどれだけの話か解らないが、「社会的意義はない」と云うことであれば言及の必要はない。


よって、批判対象とするのは4)5)と、それの前提となる1)の後半である。
これらは(勝手に要約してしまえば)、「個人的な「正しさ」を「社会(的)正義」として主張してはならない」という批判であろうが、ならば「社会正義」は何処から発生するのか?
「絶対的な正義」が有り得ず、「個人的な「正しさ」」も前提にしない。では「社会正義」とは一体何であるのか?
「社会正義など存在しない」と云うのであれば、異論はあれ了解はできる。しかし、記事では警察による調停を是としている。警察力が「社会正義」を前提とする以上、それが存在しないのでは矛盾する。
結局のところ、何処かに存在する共通規範を前提しているにも関わらず、それを「社会正義」と呼ぶことのみ拒絶しているのである。


私の主張は全く逆である。「個人の「正しさ」を社会正義として主張せよ。」但し、社会正義を語る「いやらしさ」を自覚した上で、それを乗り越えなければならない。


個人の「正しさ」も絶対的ではないのだから、個々の「正しさ」は社会において衝突する。それ故、問題解決の指針として「社会正義」が召喚されるのである。この「社会正義」は何らかの集団合意に基づいて形成されると考えるしかないが、故に、個々人の「正しさ」からは常にズレるのである。そのズレを自己の主張に引き寄せることで、社会正義を語る「いやらしさ」が生じる。
しかし、それは致し方がないのだ。自身が「正しい」と思っていないことを主張することはできないし、かといって、誰も語らなければ現実的に召喚される「社会正義」は無批判のまま野放しになる。
「社会正義」により治安を維持し社会生活を営んでいる以上、この「いやらしいが致し方のない行為」を誰かに押し付け*2、個人の「正しさ」の中に逃げ込むのは無責任であろう。
「2ちゃんねる批判」をするのであれば、「いやらしさ」から逃げず、自覚を持って「社会正義」の名の下に行えばいいのである。特にリンチは社会正義に反するのだから。


近々の問題として裁判員制度の施行もある。そこでは社会正義を語らなければならない。決して個人的な「好き嫌い」で判断を下してはならないのは当然であろう。

*1:「2ちゃんねる」自体には殆ど触れていないことは素直に謝罪しよう。そこに到るまでに書く時間と気力が尽きてしまった。申し訳ない。

*2:議会制による対処は現実的に妥当ではあるが、ネット上では多くの物理的制約が解消されるのである。少なくとも言論においては。