天国に入らない、教会、クリスチャンが大量に出現する日について。

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NO.530 移される

”テキスト:黙示録6:14天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。
KJV:14* And the heaven departed as a scroll when it is rolled together; and every mountain and island were moved out of their places.”

本日は「移される」という題でメッセージをしたいと思います。
テキストは上記箇所です。

黙示録は、終末の日に山や島が移されることを語っています。このことの意味あいを考えてみたいと思うのです。テキストに沿って見ていきましょう。

「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり」

終末の日に「天が消える」というそのことは何をたとえているのでしょう?天は以前も見た様に「空の星の様になる」といわれたアブラハムの子孫、イスラエルと関係のあることばです。そして新約のイスラエルは、ロマ書にも書かれているように、我々クリスチャンのことです。それで、天とは、星であるイスラエルの子孫、クリスチャンの住むところとして、教会のたとえであることがわかります。

天が「消えてなくなる」ということばは、KJVでは、depart(出ていく、出発する)ということばが使われています。要するに天はもう不動のものでなく、その場所を動き、変わり、変化するということを語っているのです。天が消えてなくなるとは、それで教会が動かされてしまう、変化するということのたとえであることがわかるのです。

「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり」さて、天が動かされてしまうことをこの箇所は書いているのですが、そこに一つ、特別な表現が加わっていることに注目しましょう。
すなわち、「巻き物が巻かれるように」と書かれているのです。巻き物の意味あいは何でしょう?巻き物ということばは以下でも使われています。

ルカ4:17「すると、預言者イザヤの<書>が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。」

この箇所から、「巻き物」とは実は聖書をさすことばであることがわかるのです。

「巻き物が巻かれるように」

この箇所は、KJVでは、「一つの巻き物が他の巻き物とともに巻かれる」(as a scroll when it is rolled together;)とのニュアンスで書かれています。昔の聖書は羊皮紙でできており、巻き物でした。今の様に66巻の聖書が一册の印刷された本の様になっているわけでなく、それぞれの書は、別の巻き物だったのです。その時、2、3の巻き物の聖書を重ねて巻けば、それぞれ一緒に巻き物は動き、巻かれて行きます。この箇所は、その様な情景について書かれていると読めます。

要するに教会は、自分の意志と関係なしに他とあわせられてしまう、動かされる、妥協させられるというニュアンスがあるのです。何をいっているのか?
要するに他とあわせよう、一致、愛の一致が一番というかけごえのもとに起こされるエキュメニカル的な教理、教団の一致について預言されていると思えます。その一致の時、教会の聖書、巻き物、教理は動かされ、教会には教理的な妥協が起きることを預言しているのでしょう。

具体的には、非聖書的なカソリックの教皇制やら、マリヤ崇拝、偶像崇拝には、目をつぶり、一致のために聖書もキリストのことばも投げ捨て、ぶん投げ、妥協していくわけです。アメリカが政治的な圧力で日本人に強制的に狂牛病肉を食わせているみたいに、悪霊のリバイバリスト、ベニーヒンなどを強制的に教会に受け入れさせるわけです。そして教会はそれに妥協する、それを教会が動く、天が動く(消える)と表現しているわけです。

「すべての山や島がその場所から移された。」

ここでは、山や島が動かされることが書かれています。山は「木が生えるところ」として教会のたとえです。クリスチャンは、ぶどう、オリーブなど「木」にたとえられます。山は、その木が生えるところ、すなわち、多くのクリスチャンがいるところとして教会のたとえです。島も同じく、「海にある場所」、聖霊の海に囲まれた場所として、教会のたとえなのです。

要するにこの箇所は、教会が動かされるということに語っています。このことは、旧約の時代における神の民が動かされたこと、アッシリヤ、バビロンへと動かされ移転させられ、捕囚されたことと通じます。旧約の神の民が移され、動かされたように、新約の教会も動かされ、移されることを語っています。しかし、動くといっても物理的に動くわけではありません。世界中の教会の教会堂が移転するということをいっているのではありません。

そうでは、なくて霊的な移動、捕囚のことをいっています。霊的、信仰的にバビロン化、エジプト化されてしまうのです。もっと具体的にいえば、これから、クリスチャンはクリスチャンという名前はあっても実質他のもの、クリスチャンとはいえないものになっていくと語っているのです。キリスト教会も教会の名前はあってもその実質は別のもの、教会とはいえないものとなっていくというのです。

そしてその結果は重大なものとなります。
かつての日、捕囚されたイスラエルの民は、先祖の約束の地を離され、別の国に引かれていきました。「約束の地」から引き離されたのです。このことは信仰的に重大なことがらを暗示し、今でいえば、クリスチャンが「約束の御国」を受け継がないことを意味します。そう天国へ入らない、クリスチャン、教会が大量に出現する日について語っているのです。

この教会が動かされること、移動することは、もし私達の目が開かれるなら、もうすでに始まっています。聖書に明確に禁じられた同性愛を認めたり、入れ墨を認めたりする動きはすでに始まっているのです。そしてこれらは、さらに加速され、終わりの日に、全ての山や島すなわち、全ての教団、教会が動かされる日が来るのでしょう。その日をさして、テサロニケの手紙では背教と呼んでいます。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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教会の権威として神がどのような人を選ぶのか、私達はその神が選んだ権威にどう対応すべきかを見ていく。

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No.529 モーセと権威

”テキスト:民数記12:1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。
2 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。
3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
4 そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ。」と言われたので、彼ら三人は出て行った。
5 主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、
6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。
7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。
8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」
9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムは、らい病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はらい病にかかっていた。
11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。
12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」
13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」
14 しかし主はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」
15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。
16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。”

 

本日は、「モーセと権威」という題でメッセージしたいと思います。神がどの様な人を教会の権威として選ぶのか、また私達はその神が選んだ権威にどう対応すべきか、接するべきかということを見ていきたいと思います。

テキストに沿って見ます。

”1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。”

ここでモーセの姉であるミリヤムと兄アロンがモーセを非難しました。彼等は兄、姉だから、当然モーセより年長であり、だから自分達にはモーセを非難する資格があると理解したのです。今でいえば、自分が年上であるからといって、教会で神の働き人を非難する人々とでもいえるでしょうか。年輩の役員、長老あたりが、「あんな若造の牧師より、俺の方がいくらでも社会経験も知識もある」というわけです。こんなパターンは、往々にして教会であり得るパターンではありますが、しかし、それが神の前で正しい態度かどうかは別です。

さらにミリアム、モーセ、彼等のいっているその非難の内容も妥当に思えます。モーセがクシュ人の女をめとっているのも客観的にもあまりよいことの様に思えません。ですから、彼等の非難は人間的に見て妥当の様に、思えます。今でいえば、もっともなことをいって牧師や働き人をとっちめる人々ということでしょうか。箸の上げ下ろしから、費用の使い方、家族のこと、私生活のこまごましたことまで。それらの非難には、妥当に見えるものもあるでしょうが、しかし、神の前に正しいかどうかは別です。

”2 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。”

アロン、ミリアム彼等には、モーセを非難する資格が神の前にもあると思えました。何故なら、自分達は神の声を聞いているからです。教会でもこんな類いの人がいます。「信仰にかけては、私だってうちの牧師くらいの信仰はあるわ。ちゃんと神の声をききわけているわよ」もちろんそれはそうなのでしょうが、しかし、それだからといって、神の立てられた権威に逆らうべきかどうか、それが神の前に妥当かどうかは別です。何故なら、神はその非難を聞かれるからです。「主はこれを聞かれた」と書かれている通りです。

”3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。”

この時、神が選び立てた権威であるモーセに関して彼が「地上のだれにもまさって非常に謙遜」であったことが書かれています。謙遜とは、でしゃばったり、角ばったり、自分がないがしろにされてもやみくもに権威を主張しない人だということでしょう。今でいえば、自分を主張しない人、結果、今みたいな弱肉強食の時代においては、ないがしろにされたり、すぐ楯つかれたりしやすい人です。

不思議なことですが、神が教会の権威として立てる人にはこういうタイプの人が多い様に思えます。結果、見えるところしか見ない人は、すぐなめられたり、反抗されたりしがちです。
しかし、人間的にくみしやすい、いいやすいからといって、神の立てられた権威に逆らうべきかどうかは別です。むしろその結果は重大なものとなることが多いのです。

”4 そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ。」と言われたので、彼ら三人は出て行った。
5 主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、
6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。
7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。
8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」”

さて、モーセへの非難に対して、神御自身が答えられました。このパターン、法則を覚えてください。ある人が神の家の権威に立てられたなら、そして、それが神の立てられた人なら、彼への非難に対して、神御自身が答えられるのです。子供どおしのケンカに対して親が出てくるのはよくありませんが、しかし、教会におけるケンカ、神の立てられた権威に対しての反抗には神御自身が対処を下す、そのパターンを覚えてください。

そしてそれは、神御自身の対処なので、非常に厳しく、重大な結果をもたらします。この時、ミリアム、アロンの非難に対して、当事者であるモーセその人は何らの弁明もいいかえしもしていないことを覚えてください。しかし、神御自身が対応されたのです。教会で牧師が気が弱そうだから、いいたいことをいっても大丈夫だろうなどと考え違いをする人がいます。確かに気の弱そうな牧師はいわれても何ら反論できないように見えるかもしれませんが、しかし、神御自身がいずれその人に反論するでしょう。

「7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。」

何故モーセが権威になったのか、彼が選ばれたその理由は何でしょう?それは、この箇所を見る限り、モーセが忠実なものだったからであることがわかります。ある人が神により権威が与えられるか否かの違いはその人が神の前に忠実なクリスチャンかどうかによることを覚えてください。神の働き人として歩みたい、神により用いられたいと志す時、それはよい志ですが、しかし、忠実な者が用いられることを知りましょう。

忠実とは、具体的には、どういうことか?要するに毎日きちんと祈り、聖書を読み、神のみこころを行っている人ということでしょうか。今、小さな奉仕をまかされているなら、それを忠実にこなすかどうかが、その後の働きを決めるでしょう。小さなことに忠実でない人に神からの大きな奉仕が回ってくるはずがありません。はっきりいいますが、神がよしとしない限り、私達には何の働きも回ってきません。

”8 彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」”

彼等はモーセ個人を非難したつもりであり、何ら、神に対して、不満や反抗をしたつもりはなかったのでしょうが、しかし、神はそう取り、そう反応しました。”なぜ、あなたがたは、「わたし」のしもべモーセを恐れずに非難するのか。”とのことばに注目してください。彼等はそれと知らず、神のしもべを非難しており、神御自身からの怒りを買いました。この反抗はミリアムに恐ろしい結果をもたらしました。ですから、神のしもべへの非難には、よくよく注意が必要であることを知りましょう。人間は結局見える人しか見ないのですが、しかし、神のしもべへの非難は、見えない神の怒りをかう可能性があります。このことを恐れましょう。

”9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムは、らい病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はらい病にかかっていた。”

モーセを非難したミリアムは結果として重大、深刻な結末を我が身にもたらし、自らがらい病をわずらうようになったのです。恐ろしい害を自らにもたらしたのです。このことを他人ごととせず、我々はよくよく、教訓を学ぶべきです。神のしもべを非難し、神の授けた権威をあなどる時、自らに深刻な神の罰が下る、この原則は、このモーセの時、そして今も同じなのです。

”11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。
12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」

アロンは、「私たちが愚かで犯しました罪」と語っています。彼はミリアムや自分の語ったモーセへのことばが、これ程、深刻な罰、結果をもたらすとは思わなかったのです。彼らは神に逆らうつもりもなかったし、そうする意図など全くなかったのかもしれません。しかし、弟モーセを非難することは、そのまま神の権威を侵すことであると他ならぬ神御自身が判断されたのです。

アロン、ミリアムのことは、今の私達に対する教訓として書かれていることを知りましょう。
そして、悲しいことは、このミリアム、アロンのことがらを知りながら、なおかつ勇敢にも神の権威に逆らう人々が多いのが今の教会の現状なのです。今の教会においては、神が教会に建てられた権威に逆らう声は多く、牧師、教師に逆らう声は多いのです。

さて、少し話はずれますが、ペンテ、カリスマ教会で今さかんに行われている霊の戦いとは、人々を惑わし、巧妙に神の立てた権威に逆らわせよう、反抗させようとする試みであることを知りましょう。これは、神が御使いに与えた権威に対する反逆、反抗の試みです。そして、この「霊の戦い」とかいう「仕組まれたわな」に踏み込んだ人々は、皆深刻な害、罰を受けています。ある人は、霊的におかしくなったり、ある人は、けが、事故、頭痛を含む肉体的な害、罰を受けています。そればかりか、命を落とした人のことさえ聞いています。

愚かなこと、神の立てた権威にあえて逆らい、結果当然の罰を受けないようにしましょう。たとえば、警察官は、日本の権威者として、権威を持ち、銃や警棒を持ちます。あえて、警察官に殴り掛かったりする人は、反撃され、警棒で殴られこぶをこしらえたり、もっと悪いときには、銃で撃たれて死亡したりします。しかも撃たれて殺されても人からあまり同情されません。「よりによって警察官に反抗したり、殴りかかったりするからそんな目に会うんだ」
ということで、自業自得の様な扱いです。

愚かにも霊の戦いなどのインチキ教理に惑わされ、しきりにあちこち出かけては御使いに戦いを挑み、その結果、深刻な害や、損害を受けている人はまさにこの警察官に殴り掛かる人と同じ愚かな愚行を行っていることに気付くべきなのです。ちなみに霊の戦いにいそしんでいる人々、グループ、団体、教会を見てみましょう。大変失礼ですが、皆あまりまともな評判のない人々、グループではないでしょうか?変なスキャンダルが起きたり、悪い噂が起きたり、訴訟はたまた異端扱いされているところとか..。

もしかすると、多少例外があるかもしれませんが、あたらずとも遠からずでしょう。彼らは自らの無知と聖書の基本を知らないその愚かさのゆえに神の権威を犯し、結果深刻な害をその身に受けているのです。それにもこりず、自分のとこの信者にそんな危険なことをわざわざ勧めているのです。きわめつけのあほたれです。

”13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」
14 しかし主はモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」
15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。
16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。”

この時、集会の人としての長であるモーセはミリアムがすぐいやされる様に祈りました。しかし、その祈りはすぐに聞かれず、ミリアムはしばらくの間、らい病のまま、宿営から追い出されてしまったのです。このことは、今の教会においても同じ原則であることを知ってください。私達は人のこと、見えることしか見ていません。牧師に逆らおうと教会の権威に逆らおうと世間の人間関係と全く同じだと思っているのです。

何かひどく牧師に反抗しても、あとで、悪いと思えば、一言あやまればそれで終わり位に
思っているかもしれません。確かに見える人である牧師や教会の権威を持っている人はそうかもしれませんが、神にあってはそうも甘いものでないことをも知っておきましょう。この時、あえてモーセに逆らったミリアムが思いもかけない深刻な罰を受けた様に今も神の権威に対する対処は同じなのであることを知りましょう。

教会はこの世と全く違うところであり、この世と違う、法則、原則があることをしっかりと
知らなければなりません。あえて、神の権威に逆らう時、深刻な害をその身に受けるようになります。私はその様にして、自らの信仰を破滅させた何人かの人を知っています。
神を恐れましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 
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キリスト教の全ての教理、本、雑誌等が、皆悪霊の影響を受けてしまう。

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NO.528 青草は焼ける

テキスト:”黙示録8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。”

本日は、「青草は焼ける」としてメッセージしたいと思います。黙示録の日に青草が焼けるということばの意味あいを見ていきたいと思います。テキストは上記箇所です。
この箇所を見ていきましょう。

「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。」

ラッパは角笛に通じ、角笛は、警告の音を発します。すなわち、多くの警告者が警告を発する時代のことです。欧米のキリスト教サイトを見ると現在のキリスト教会の現状に関して多くの人々が警告を発しています。いわく聖書の翻訳の偽り、怪しいリバイバル現象、おかしな教理...。これらを見るとき、確かに今はちがう時代、警告のラッパが吹き鳴らされる時であることを知ります。

「すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。」

血やら、雹について書いてあります。血も雹もどちらも、かつての日、出エジプトの日にエジプトを襲った災いです。それで、この黙示録の箇所は、終末の日の出エジプトに関する事柄であることがわかるのです。かつての出エジプトの意味あいは、エジプトの国から、神の民が出てくることです。

同じく終末の日の出エジプトとは、「堕落し、世俗的になり、すっかりこの世についた、すなわち、エジプト化した教会」から、真に聖別された神の民が出てくることを語ります。その様なわけで今私達がこの世、エジプトに対してどの様な態度をとっているのかどうかは、終末において、重要な意味あいがあります。ある人々は、エジプト人としてここにとどまり、ある人々は、真のイスラエルとしてそこを出るからです。

「血の混じった雹と火」

かつての出エジプトの日、大きな雹が天から降ってきて、野にいる家畜を殺しました。同じく黙示録の日にも雹の災いが教会に起こります。雹は、雨の水が変化したものであり、霊的な災いをあらわします。血やら、火も同じく霊的なことをあらわします。教会に霊的な災いが起きることを預言しているのです。具体的にいえば、悪霊のリバイバルのことをさします。

「そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け」

「地上の三分の一が焼け」と書かれています。
地につく教会の1/3はこの悪霊リバイバルの追随者となるのでしょう。結果、これらの教会の信者は悪霊の火で焼かれていきます。教会へ行って悪霊を受けるというとんでもない結果になっていくのです。「木の三分の一も焼け」と書かれています。木はぶどう、オリーブの様に神の民をさすたとえです。神の民の1/3は、この悪霊リバイバルに惑わされていきます。

「青草が全部焼けてしまった。」

さて、青草に関しての記述です。ここには、謎とたとえがあります。聖書はたびたびいうように、たとえの書、また謎が含まれた書です。要するに本当の意味あいが隠された記述が多いのです。しかし、確かに隠されているのですが、それは、少し探せばわかるように、ほんの物陰や、寝台の下にあるような隠れ方をしています。よくたとえを主によって教えていただくなら私達が知恵のない者でも理解できるのです。重ねていいますが、青草のたとえの意味あいは何でしょう?

私の理解では、青草は、牛やら、羊と関係があります。牛や羊は食物として青草を食べるからです。そして、牛、羊は、きよい動物として、クリスチャンのたとえです。それでここでいわんとしていることは、クリスチャンの食べ物がみな、焼けてしまうぞとの意味あいです。焼ける?ごはんのおこげでも食べるのか?そんな意味あいではありません。焼けるは同じ節の火と関係があり、要するに悪霊の火によりクリスチャンの食べ物が焼けるといっているのです。

食べ物はもちろん、霊的な食べ物のことで、信仰書やら、教理やらのことです。それらが皆、焼けてしまう、すなわち、キリスト教書店で売られる本やら雑誌やら、音楽CDやらが、どれもこれも、変な霊やら、リバイバルやらの影響を受けたものとなってしまうということをいっているのです。このことは、信じられないでしょうが、しかし、今すでに起こりつつあるものです。たとえば、魔術的な色合いの濃いCSルイスの本などが、キリスト教書店において、売られています。また、TEAMなどのアメリカの伝道団体は、彼を招いて聖会の講師にしています。

しかし、彼、CSルイスは欧米の研究者によれば、救いはキリスト以外にもあるとするおかしな信仰、異端的な悪い霊の信仰を持つ人です。このことから考えるなら、たしかに悪霊の火でキリスト教書店の本などは焼けています。これは一例に過ぎず、ベニーヒン、キャサリンクールマン、ピーターワグナー等、悪霊系の本はたくさん、キリスト教書店に並べられています。音楽もロックがかっていたり、明らかに変な霊の影響を受けている、ミュージックが、闊歩しています。

現状をいうなら、すでにキリスト教書店の本や雑誌、新聞などは悪霊の影響があり、上記ことばに沿えば「焼けている」のです。しかし、いずれもっとこれは進みます。何故なら、上記節には、青草が「全部」焼けてしまったと書いてあるからです。全部焼ける、すなわち全ての本、雑誌、新聞などにこれらの影響が起きるのです。 キリスト教の全ての教理、本、雑誌などが、皆悪霊の影響を受けて、焼けてしまう?

これは、聞いた限り、悪夢の様な話でとても受け入れられないのですが、しかし、他でもない神のことばが預言することなので、真剣に考えたいと思うのです。このことはしかし、たとえば、ノアの日に関する預言のことばとは符合します。終末の日は、ノアの日のようであることを主は語ります。そして、ノアの日とは、洪水の日であり、全ての山が水でおおわれた日です。水、洪水は悪霊の洪水に通じ、悪霊のリバイバルの影響が全ての教会をおおうと理解できます。そしてこのことはまた上記全ての草が焼けるとのことばとも符合するのです。

黙示録は明らかに終末の背教の教会に起きる災いを預言した書であり、それは神のことばなので全て成就するでしょう。望ましいことではありませんが、しかし残念ながら、この「全ての草が焼ける」とのことばもやはり成就することを知りましょう。世の中においては、何でものんきに食べられる時代はすでに過去のものとして、終わりました。

今は、ちょっと牛肉を食べれば、狂牛病になって、死ぬかも知れないし、もしくは危険な遺伝子操作食品で害を受けるかも知れないのです。世の中はすでにそんな世になっています。ひとりキリスト教会のみ今でも安泰などとは、とんでもない愚かな誤解であり、むしろキリスト教会こそ、怪しい食品、焼けた草に満ちていると思った方が正しいのです。このことを見る目、そしてこれらの焼けた草、悪い霊の食べ物を避けるものは幸いです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー

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主に選ばれた器に人間的な動機や考えで、逆らい反抗するなら死をもって罰せられる。

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NO. 527 主の選ぶ杖

”テキスト:民数記17:1 主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。
3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。
4 あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。
5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」
6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。
7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。
8 その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。
9 モーセがその杖をみな、主の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。
10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」
11 モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。
12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。
13 主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」”

 

本日は、主の選ぶ杖という題でメッセージをします。民数記の記述からこのことを見ていきたいと思います。
テキストに沿って見ます。

”1 主はモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖におのおのの名を書きしるさなければならない。”

この箇所では、イスラエル12部族から一本ずつ杖を出し、その中から主が一本の杖を選ぶということです。このことの意味あいは何でしょうか?それを考えてみたいと思うのです。神のことばすなわち、旧約聖書のことばも新約聖書のことばもどちらも、ちよっと見は、ただ無造作に書かれたように思えます。しかし、これは唯一神が書かれた書だといわれているので、その中にかくされたこと、暗示されていることをできる限り読み取っていきたいと思うのです。

さて、この箇所では、明らかに杖を選ぶということに神がこだわっておられることがわかります。何故杖なのか?剣ではないのか、車ではないのか?杖の意味あいは何でしょうか?以前見たように杖の意味あい、たとえの意味あいは、人の(信仰の)歩みを助けるものとして、教師、指導者という意味あいがあるように思えます。もしそうなら、この箇所でいわれているのは、神がどの様な教師を選ぶのか、神が選ぶ教師の資格、特徴、それは何かということがらに思えます。

一つ言えること、はっきりしなければならないことは、この12部族の中から主はひとつの部族、一つの杖を選んだということなのです。12本の杖がありましたが、しかし、全ての杖が神に選ばれたわけではなく、逆に一本の杖のみが選ばれました。明らかにこの箇所がいうことは、人の側には、どれ程多くの杖、すなわち、自称、多称の教師がいたとしても、それは人の推薦に過ぎず、神に選ばれなければ意味のないことを示します。12本の杖、全てが尊いのではなく、主の選ばれたたった一本の杖のみが実を結び、それが尊いのです。このことを理解し、尊重しなければなりません。

旧約のイスラエル12部族はそのまま新約のイスラエルである教会の型です。教会においても厳然として、主が選ぶ一つの部族、杖があることがわかるのです。今はどういう時代か?あらゆる部族から杖が乱立し、あらゆる教師が大きな声で、自分の主張をくり返す時代です。しかし、今の時代も方法、原則は一つであり、主の選ぶ杖があるのです。私達はその杖を見分け、その杖に注目しなければなりません。

”3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。”

レビ族の杖が最終的に選ばれます。レビの意味あいは「くっつく」という意味であり、主にくっついて寝食をともにした12弟子の様に弟子の歩みをし、祈りに励む人々と理解できます。アロンの意味あいは、「光を持ってくる」という意味です。まさに教師の役割を明確に語るものです。多くのクリスチャンの問題は何か?それは、光がないことです。

みことばは、聖書はあるにしてもどの箇所が自分に適切なのか、光がないのです。また自分が歩むべき方向がわからない、光がないため、道筋が見えないということです。それに対して、アロンは光を持ってくる者であり、彼をとおして、何が正しいのかわかります。その様なわけで、主はあきらかに教会の中にこの種の人々を置くことを意図していることが理解できるのです。しかし、そうでは、あっても新約聖書では、先生と呼ばれてはいけない、すなわち、真の教師はキリストであることも書かれています。

”4 あなたはそれらを、会見の天幕の中のわたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。”

杖は「あかしの箱の前に置」かれます。同じく教師も人々の前に「あかし」すべく立たされていることを知るべきです。単に知識の切り売り、はたまた、語学の博識を人前で誇るために杖、教師は神に任じられているわけではないのです。彼等のなすべきこと、大きな任務は神がどの様な方か、聖書のことばを行うとどうなり、何が起きるか、起きないか、それらを身をもって「あかし」すべく立たされているのです。

”5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」”

神がえらぶ杖は芽を出すことが書かれています。ということは、神が選ばない杖は芽を出さないわけです。結果が選びをあらわすわけです。そんなわけで、私達が教師、杖として歩もうと志す時、それは、良い志ではありますが、しかし、芽が出ないなら、それは残念ながら、神により選ばれていないということになります。

”6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。
7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中の主の前に置いた。
8 その翌日、モーセはあかしの天幕にはいって行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。”

神が選んだアロンの杖は、「芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んで」いました。実を結んだのです。ですから、このアロンの杖に関しては、こういえます。

1.以前はただの杖であり、「芽もなく、つぼみなく、花なく、実がなかった」けれど、
2. 神の選びにより、「芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結ん」だのです。

しかし、それ以外の神のえらばなかった杖に関しては、
1. 以前は命もない実もないただの杖であり、
2. それ以降も何らの実もないただの杖であった。そういうことです。

それで、私達はこの原則をもって、現代の杖、教師を吟味できます。すなわち、何らの実、御霊の実を結んでいない杖は神の選びが怪しいということを知るべきなのです。

1. 以前は肉や罪の実を結ぶろくでもない者だったが、
2. しかし今は御霊の実を豊かに結んでいるこれは神の選びの杖でしょう。
しかし、

1.以前は単なる人間の努力であり、
2. 今も同じことをしている、御霊の実は結んでいない

これは、選ばれていない杖なのです。蛇足ながら、御霊の実とは、ガラテヤ書に書かれている
「愛、喜び、平和、寛容..」です。
その反対の肉の実は、以下の通りです。

”ガラテヤ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。”

肉の実を結ぶ者は、「神の国を相続することはありません。」とのことです。肉の実、「不品行、汚れ、好色」なんかにとらわれている人々は、天国が絶対確実に危ないわけです。ですから、大いに性的スキャンダルを起こしている、某カトリック教会神父達、某ヘンテコ、カリスマ系教会、某悪霊リバイバル系の教会なんかは大変危ないわけです。この場合、人を教えている場合ではありません。自分の身が危ない、自分の天国が危ないわけですから。

”10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」
11 モーセはそうした。主が命じられたとおりにした。”

神である主は、「アロンの杖をあかしの箱の前に戻し」、「逆らう者どもへの戒めのため、しるし」とするよう命じました。何を逆らったのか?彼等は、一体誰が、神の選んだ杖なのか、誰が杖として立つべきかということで争い、逆らったのです。彼等の主張は、モーセ、アロンは自分勝手に立っている、そこには、何らの信仰的、聖書的根拠はない、そもそも神は彼等を選んではいない、そういった類の主張だったのです。これは、今の教会でも起きます。往々にしておこることなのです。

教会内の権力争いみたいなものです。役員派と牧師側が対立、信徒と牧会者の意見が対立、はたまた、牧師と副牧師が対立など往々にしておこることなのです。それに関して神は上記の様な答えを出しました。我々はよくよく、これらのことがらを心に止めるべきです。何故なら、神が立てた杖に逆らうことは神御自身に逆らうことになり、神自らの裁きを招いてしまうからです。死の裁きを自らの身に招くことのないため、これらの教訓を心にとめるべきです。

決してこれからはイスラエルの中でこのことで逆らい、死の罰を受けることのないために、アロンの杖はあかし、戒めとして、置かれ、全ての人に戒めを与えているのです。そして、それは、旧約のイスラエルのためのみでなく、新約のイスラエル、教会の民のためにも与えられているのです。私達もこのアロンの杖を見、このことで分をこえないことを学ぶべきなのです。そして、このことで神と争い、みこころにもない教会の権力闘争なんかに人間的な力を傾けている人々は、いずれ、ここに書かれている、「彼らが死ぬことのないように」とのみことばが自分の身の上に厳かに成就することを知り、恐れるべきです。

神のことばは侮るべきでなく、そのように書かれているなら、いずれその様に成就するでしょう。役員会が教会を牛耳り、信徒の多数決が教会の方針を決めているように人の目には見えても、そうであってもなおかつ神のことばが厳粛に成就することをこれらの人々は見るようになるでしょう。教会の歴史において、多くの人が神の立てられた権威に逆らい、すでに自らの信仰も永遠の命をも失っていきました。このことは再度今、目の前で繰り返されるでしょう。

”12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。
13 主の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは。ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」”

この様に厳かな神のことばを語ったモーセに対して、民衆の反応は、不平と不満だけでした。残念ながら、民衆、大衆、会衆は、大体こんなものだということを知りましょう。どんなことに対しても不満があるわけです。まとめますが、神は明らかにこの箇所では、一つの会衆の集まりの中で、主に選ばれた器が杖となることを語りました。杖は教師のたとえであり、一つの会衆の中に、神の選びの杖が立たされるのです。

神の選びの杖の特徴は、芽を出し、実をだす、すなわち、復活の命を持ち、復活を経験しているということでしょうか。神に選ばれた杖にこの特徴がありながら、しかし人々がその杖に人間的な動機や考えで、逆らい、反抗していくことは、死をもって罰せられていると語られていることをもとらえましょう。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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第一の誕生しかしていない未信者と新生を経験したクリスチャンとの差について。

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No.526神の国で一番小さい者
 
”テキスト:ルカ7:28 あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。”
 
 本日は、「神の国で一番小さい者」という題でメッセージします。

テキストは上記箇所です。

上記箇所は一見わかりやすそうで、よく見ればわからない箇所です。ヨハネがすばらしい人物だということはわかる。しかし、そのヨハネでさえも、神の国で一番小さい者より優れてはいないとこの箇所は語るのです。一体女から生まれるとは何をさすのか?はたまた、神の国とは何をさすのか?そもそもこの箇所がいわんとしている、主旨は何なのか?よくわからないことが多いです。この箇所を考えてみたいと思います。この箇所がいっていることをまとめてみます。以下の様になるでしょうか。

1. ヨハネは、「女から生まれた者」の中ではもっとも偉大。
2. そのヨハネも「神の国に住む人の中でもっとも小さい者」よりも劣る。

上記の様になります。
この箇所を理解するカギは、「女から生まれた者達」とは何をさすのか、はたまた、「神の国に住む人々」とは何をさすのか、そのあたりにあることがわかります。この2つの対照的なことばの意味あいは何をさすのでしょうか。さて、聖書の他の箇所を見るとまさにこの2つのことを説明している箇所があります。
以下の箇所です。

”ヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。”


この箇所に、上記2つのことがら、「神の国」と、「母(女)から生まれる」ということばが出てきます。この箇所こそが、上記ヨハネに関するみことばを理解する鍵であることがわかるのです。

この箇所を見ていきましょう。

”3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」”

この箇所には神の国に関して説明しています。神の国とは、すなわち、新しく生まれた人々、
新生した人々の入る国、今でいえば、教会のことをさすことがわかるのです。
新生とは、英語でいうborn again,すなわち、再度誕生する、2度目の誕生をさすことばです。

”4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」”

ここでは、母の胎から生まれること、すなわち、いわゆる産院で生まれる、肉体的な一般の赤ちゃんの誕生について語っています。母は当然女性ですから、上記ヨハネの箇所、「女から生まれる者達」に相当します。これは順番からいうなら、一度目の誕生のことをさします。

”5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。”

ここでは、再度神の国について書かれています。それは、「水と御霊によって生まれ」た者の入る国、具体的には、洗礼と、御霊の救いにより入る国であることが書かれているのです。
神の国とは具体的には、世界大の教会のことをいいます。アメリカは大統領が治める国、日本は首相が治める国ですが、この世界に唯一生ける神が治める国(神の国=kingdom of God)があり、それは教会なのです。

ですから、始めの問題、「女から生まれた者達」とは、この世の人々のことをさすことがわかります。教会用語でいえば、未信者のことをさします。また、「神の国の人々」とはいわゆるクリスチャンのことをさすのです。そして、ヨハネを基準にして書かれている、「女から生まれた者達」と「神の国の人々」との区分とは、実は、第一の誕生しかしていない人々(未信者)と第2の誕生、新生を経験したもの(クリスチャン)との差について書いてあるのです。

その結論は、「神の国に住む人々の中でもっとも小さい者」も、「女から生まれた最大の者」にまさるというものです。それで私達はこの認識に基づき、この世のことがらを理解しなければなりません。世界には未信者であっても多くの偉人、賢人、天才がいますが、しかし、神の前には、それらのもっとも偉大な人も「もっとも小さいクリスチャン」にまさることはできないということをです。

生まれつきの人々、第2の誕生、新生を経験していない人には決して理解できない命と悟りと知恵の中にクリスチャンはいるのだということを改めて理解すべきなのです。もっとも小さいクリスチャンでさえそうなのです。そして終末に関連してはこのことを知るべきです。すなわち、この様にすばらしい神の国の住民が愚かにも神の国、教会に他国の方法を持ち込むようになる時、すなわち、バビロン、アメリカ由来のこの世の方法が神の国、教会に持ち込まれる日、それが終末なのだということをも聖書は語ります。
 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 

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聖書は終末の日、御言葉に堅くつく人には困難があることを語っている。

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NO.525 大群集

テキスト:”黙示録7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」
13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」 ”

本日は大群集としてメッセージしたいと思います。上記黙示録の箇所には、白い衣を着た大群集が描かれています。この人々はどんな人々なのかを見ていきたいと思うのです。

”9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

この人々はどんな人々なのでしょうか?この箇所で理解できるのは、これらの人々が白い衣を着ていることです。白い衣は明らかに義をあらわします。黒は汚れや罪があることをあらわし、それらがない白い衣は義の衣をさします。これらの人々は、終末の日、背教や、不道徳が行き渡った時代に堅く義に立つ人々です。これらの人々を特定するもうひとつのことばは「しゅろの枝」ということばです。
しゅろは仮庵の祭りと関係があります。以下の箇所の仮庵の祭りの記述にも「しゅろ」ということばが使われています。日本の新改訳には出てきませんが、KJVでは出てきます。

どうしてそうなるのか?残念ながら、しかしくり返していいますが、最近の聖書の訳は油断もすきもないことを覚えましょう。怪し気な店で買い物をすると、つり銭をだまされたり、インチキな品物を売り付けられたりします。きょう日の聖書翻訳も同じ様なものだということを知るべきです。最新の文献学の成果が盛り込まれた聖書なんて、ヨタ話を本気にしてろくでもない訳を高い金を払って買い、あげくの果て、信仰を失う愚か者になってはいけません。

”レビ23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。
(KJV:Le 23:40 And ye shall take you on the first day the boughs of goodly trees, branches of palm trees
(しゅろの木の枝), and the boughs of thick trees, and willows of the brook; and ye shall rejoice before the LORD your God seven days.)

41 年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。
42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。
43 これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」
44 こうしてモーセはイスラエル人に主の例祭について告げた。”

レビ記の箇所にはしゅろの枝が仮庵の祭とともに記されています。従って、黙示録のしゅろの枝の大群集が実は仮庵の祭りと関係があることも想像できるのです。かつての日、モーセの時代、出エジプトした民は仮庵に住みました。この出エジプト、また仮庵の祭りはどちらも預言的なできごとであり、その最終的な成就は終わりの日になされると理解できます。この黙示録の箇所こそ、まさに終末の日に出エジプトが行われ、大群集が仮庵の祭りを行っている、その成就を記した箇所なのです。

出エジプト、また仮庵の祭りの意味あいは?出エジプトは、エジプトを出ることであり、終末の日にソドム、エジプト化した教会、すなわち、黙示録11章で「ソドムやエジプトといわれる都」と呼ばれている、終末の背教教会から出ていくことを語っています。そうです、かつての日、神の民がエジプトから出ていくことにみこころがあったように、終末の日には、エジプト化した教会から出ていくことにみこころがあります。

尚、蛇足ながら、黙示録11章の「ソドム やエジプトと呼ばれる都」を「エルサレムのことだ」などと解釈するガセネタが流通していますが、あほたれにならずよく聖書を読まなければなりません。
黙示録11:8には、「ソドムやエジプトと呼ばれる(大きな)都」と書かれています。現実のイスラエル国の首都、エルサレムはちっぽけな都であり、2ー3時間で行き巡ることができます。この「大きな都」とのみことばと全く矛盾します。ろくに聖書も読まずすぐガセネタにひっかかる愚か者になってはいけません。出エジプトと仮庵はセットになっています。すなわち、「背教の教会を出て」(出エジプト)、「地下教会を作る」(仮庵の祭り)のです。

”10 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、
12 言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」”

これらの大群集は明らかにもう地上にはいない人々です。彼等は神の御座の前にいます。すなわち、殉教者なのでしょう。ですから、私達は、知るべきです。正しい人、またエジプト化した教会を離れ、地下教会に潜った人々が殺され、殉教する日、これが黙示録の時代であり、終末の時代なのです。そして、その迫害、殺害は他でもない彼等の兄弟である、仲間のクリスチャンから来るのです。

”13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。
14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。”

彼等は大艱難から、抜け出てきた人々です。彼等は艱難を経験し、その中にいた、そしてそこから出てきた人々です。いわゆる「艱難前に携挙」された人々ではありません。「大きな患難から抜け出て来た者たち」とのことばの「(患難)から」とのことばの原語は、exであり、exodus,エクソダス、出エジプト、「(エジプト)から出る」と同じことばが使われています。

出エジプトをした民はもともとエジプトの中に長年住み、そこで困難に会い、そこから出てきました。彼等はエジプトの困難、艱難を経験しなかったわけではないのです。
同じ意味あいで、この白い衣の大群集も大艱難から出てくるといってもその艱難を全く経験しないわけではないのです。ですから、艱難の前に教会は挙げられるとする「艱難前携挙説」はこの箇所とも矛盾します。

「大きな患難」

世の終わりには大きな艱難があるとは聖書が明確に語ることですが、私達はその艱難に関してどう考えるべきなのでしょうか?艱難時代なんてない、黙示録はローマ時代の事をいっているのだなんてわけのわからない人々に関しては論外です。話にもならないので、相手にする気にもなりません。コメントなし。環境のこと、エコのことばっかりやけに強調して、終末論は、地球の終わりについて語っている、反環境的神学だなどとどっかの偽ユダヤ発の「意図的な主張」を愚かにもうのみにしている、神学者だか、環境学者だかわからない人々も相手にするに足らない、論議以前なので、コメントなしです。

大きな艱難があるというので、何とかそれを逃げたい、わらをもつかみたいということで、「キリストが2回にわたって再臨する」という非聖書的、何らの聖書的根拠のない、「2段階携挙説」を受け入れてしまった人々もいますが、残念ながら、この人々は終末のふるいにかけられ、ためしに合格できなかった人々です。彼等はみことばの真実を受け入れるよりは、嘘や、作られた空想話を受け入れることにした人々です。ところでというか、一体何故神はその様な日、艱難の日を終末に許しているのでしょうか?神はいじわるなのか、はたまたきまぐれなのか?

私の今の理解では、神はその日、真にみことばに立つもの、神をまこととする者とそうでない者とを区分しようとしているのはでないかと思われます。このことの例はあの日、主イエスの3年半の公生涯、またその日の間、主について歩んだ弟子達のことを思い出すと理解できると思われます。かつての3年半の間も主とその弟子達は神のみことばの真実に立ったため、偽りや、偽善、曲がった教理を受け入れていた、パリサイ人、律法学者と衝突し、迫害され、命まで狙われました。弟子達はみな、逮捕の危機にあり、主イエスは逮捕、裁判を経て、命を失いました。すなわち、殉教したのです。

主イエスの時のこの3年半の苦難は、人間的には望ましいものではありませんが、しかし、本物と偽物とを区分する手段として用いられたのです。この3年半の苦難をとおして、残るべき者、すなわち、12弟子を始めとして、堅く主につく石、岩の様な人々は選ばれ、選別され、残されたのです。逆に建て前はともかく、神のことばのために苦難に会う気などさらさらない人、そんな意志のない人々は篩にかけられ、消えていき、離れていってしまったのです。主の時の3年半の苦難は、その様に用いられ、人々を選別するために用いられたのです。同じ区分、ふるいの日が終末の3年半で起きると想像できます。その大艱難の日、苦難の日は、本物の弟子、残るべき人を残し、そうでない人々をよりわけてしまうために用いられるでしょう。

”15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。”

「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく」という時、食べるもの、飲むものがないということが想像されます。これは、文字どおりの食べ物、飲み物の意味あいがあるかもしれませんが、しかし、聖書において、食べる、飲むとは特別な意味あいがあることを知りましょう。すなわち、パンであるみことばの教理が食べられないものばかりになる、まともな教理がないので、食べることに苦労するという意味あいがあるでしょう。
同じく「渇くこともなく」とは、飲み物、水、ぶどう酒に関することばであり、悪霊の水ばかりで苦労するというニュアンスがあると思われます。

「太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」

太陽は以前見たように、星、アブラハムの子孫である、クリスチャンと関係することば、具体的には、大きな器のことです。終末の日には、教会の器が災いとなり、人々を強制し、圧迫し、どう喝するのに用いられます。今もうすでにその兆候は見え始めており、偽予言者、ピーターワグナーや悪霊男ベニーヒンなどが強硬に使徒だ預言者だと、地位を求めつつあります。

いずれ彼等は堕落した教会において教皇みたいな地位を占めるようになるでしょう。そして、彼等の命令が背教の教会のすみずみまで、行き渡るようになるのです。その支配下で主につく人々は、苦難を受けます。それが、ここで書かれた彼等を打つ「太陽による炎熱」の意味あいです。

”17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」”

涙と書かれていますが、涙がある以上、終末には、主につく人には困難があることを知るべきです。まとめますが、明らかに聖書は終末の日、みことばに堅く立つ人には困難があることを語ります。その供えはやはり必要であることを知りましょう。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上ー
 
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艱難時代における金持ち教会と貧乏教会を対比しながら見ていく。

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NO.524金持ちとラザロ

”テキスト:ルカ16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、
21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”

本日は、「金持ちとラザロ」という題でメッセージをしたいと思います。金持ちとラザロとはどういう話かというと、聖書を読む人なら誰でも知っている話です。誰でも知っている話の様に見えるのですが、しかし、今まで見てきたように聖書のいう金持ちとか貧乏人ということばには一種別の意味合い、隠された意味合いがあります。このことを見ていきたいと思うのです。

テキストに沿って見ます。

”19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。”

この例話の中には金持ちが登場します。彼は後の日に大きな苦難に会います。彼はハデスで炎の中で苦しむわけです。このことは悲惨であり恐ろしいことです。私たちはこのことから、教訓を受け、何とかこの様な運命に会わないように願うわけです。さて、教訓を受けるに際してわかることは、この金持ちの具体的な問題、罪、足りないことはこの例話からだけでは理解できないことです。

金持ちは「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」ので、これはよくないでしょうが、しかし、ぜいたく、遊ぶということばもあいまいであり、何が彼の決定的な問題なのか、今ひとつはっきりしないのです。しかし、かねてから書いているように聖書は、私的解釈しない、すなわち、該当のテキストのみから判断しないことが解釈の鉄則です。この例話の金持ちの問題点を理解するためには、聖書の他の箇所に書かれている金持ちに関する記述を参照しなければ正しい理解には至らないと思えます。他の金持ちに関する記述といえば、何といっても以下のラオデキヤ教会、金持ち教会の記述です。

”黙示録3:
17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。”

もしかするとこの金持ちに関する例話はラオデキヤ教会、金持ち教会と関係があるのかもしれません。このことを視野においた上で見ていきたいと思います。

”20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、”

さてこの例話にはもう一人の対照的な登場人物がいます。それは貧乏人ラザロです。
この2人はあきらかに対照的、対比的に書かれています。一体このラザロを通して語っていることは何でしょうか?このことを考える時、先程のラオデキヤがヒントになるかもしれません。ラオデキヤ教会のことを振り返るとき、このラオデキヤと対照的な教会が存在することをかつて我々は見ました。それは、フイラデルフイアであり、この教会は、金持ち教会、すなわちたまものに満ち、富みしかし、みことばを投げ捨てたラオデキヤ教会とは対象的であり、したがって、こちらは貧乏教会です。もちろん人前でのことを私は語っているのです。

金持ちと貧乏人ラザロとの対比は実は、終末の2つの教会、富めるラオデキヤ、それと反対のフイラデルフイアとの対比と関係があるのかもしれません。絶対そうだとはさすがにいいきれませんが、とりあえずその可能性は考えておきましょう。さらにラザロという名前で思い出すのは、マリヤ、マルタの兄弟、復活した兄弟の名前がラザロであることです。この貧乏人ラザロももしかすると復活に関係があるのかもしれません。黙示録には、終末の日に復活があることが書かれています。
以下の通りです。

”黙示録11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

ここに書かれた2人の預言者、彼らもラザロの様にこの世では報われなかったのですが、しかし、復活の恵みに与りました。ラザロと似ています。

”21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。”

金持ちは大いに富んでおり、逆にラザロは食べるものにことかき、苦労していたのです。この食べ物にあきる金持ちの姿は確かに「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」というラオデキヤのことばをほうふつさせます。ところで素朴な疑問として、ラオデキヤは富み、金持ちなのに、何故フイラデルフイアは貧乏なのかという質問があります。フイラデルフイアは怠惰なのか?さぼっていたのか?その理由を考える為には、終末の時代、世界中の教会があらゆる獣的な教理、獣的な霊で席巻されるということを理解しなければなりません。その時代を預言して黙示録は以下の様に書いています。

”黙示録13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。”

世界中のキリスト教会においては、獣のしるしを受け、その名を持つもの以外、だれもメッセージも本の出版もできなくなるのです。結果、獣の食べ物、パン、教理、霊、水を喜んで受ける人は、大いに富み、不思議と奇跡を行い、たまものに富み、有名、有力になります。金持ちになるのです。
反対に獣の食べ物、パン、教理、霊、水を受けない人は何も食べるものがなく、飢えるようなるのです。貧乏になるのです。

貧乏人ラザロ、金持ちの食卓から落ちるもので飢えを満たしたいと願ったラザロの姿は、おかしな教理、おかしな霊を受けず、結果、獣化したキリスト教会で何一つまともに食べるものを与えられなくなったみことばに忠実なクリスチャンの姿をさすのです。金持ちとは終末の時代、獣化したキリスト教会において我が世の春を祝い、大いに獣の教理を食べ飽き、悪霊の水に飽き、獣の霊によるたまものに満ちたうれしい楽しいクリスチャンをさすのかもしれないのです。

逆に「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思」う貧乏人ラザロとは獣化したキリスト教会において何も食べるものはなく、逆に犬、異邦人からもカルト扱いされ、悪く言われるそんなクリスチャンの姿と思えます。彼が飢えるのは、決して獣化した食物を受けなかったからなのです。その意味でラザロは最後まで主に忠実である人々をあらわし、何でもかんでも食べる節操のない金持ちとは違います。

”22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。”

さて、この2人の死んだ後のことが書かれています。何故、この二人の死後のことが描かれているのでしょうか?その理由はこの2人のうち、どっちが得か損かを考える時、死後のことまで考えないと、正しく判断できないからなのです。どんなものごともそのゴールまで考慮しないと正しい判断、トータル的判断はできません。

たとえば、「ウサギと亀」の話で、そのスタートのことだけ見れば、絶対、ウサギが有利であり、勝者です。でも最後のあたりを見ると、ウサギがひと休みして寝ている間に亀がゴールする、最後の勝利者は亀であることがわかるのです。前半だけ見て、ウサギが勝ったと思う人は間違いなのです。さて、今さらながらの質問ですが、クリスチャンの勝利、勝ち負けはどの時点を見て判断すべきなのでしょうか?この世でたまものに満ちていると賞賛され、たくさん信者が来て、大教会だとか、その様な金持ちの前半部分だけでは、正しい判断はできません。

しかし、近視眼的なクリスチャンはその様な見えるところだけに注目しがちではありますが。
ここでは、後半部分、もしくは最終ゴールにおける状態が大事なのです。これらの2者、金持ち、ラザロの後半の立場は逆転し、何と金持ちは、「ハデスで苦しんでいる」のです。これは勝ちか負けか?全く負けており、最悪の結果です。さて、この様に聖書において金持ち、ラザロの話の結末ははっきりしており、金持ちはいずれ苦しむことになっているのです。

しかし、悲しいかな、この話から何らの教訓も学ばず、金持ち父さん、たまものおじさんをめざすリッチ指向のクリスチャンは多いのです。何故わざわざハデスのことが書いてあるのか?
それは、ものごとを今見えることのみで判断する人々、またその様なクリスチャンが多いからなのです。クリスチャンは信仰によるなんて建て前はともかく、何だかんだいっても皆結局は見えることのみに終始していくのでしょう。

キリスト教界全体でしるしと不思議のムーブメントが拍手喝采されるようになり、それらの器が大いにもてはやされ、誰も彼もがたまもの指向になった時、堅く聖書に立つのは難しいのです。聖書の昔からの教理に立つラザロ系の人々が時代おくれ、また非科学的、さらに原理主義者、異端者だとさえいわれ、ベルゼブル扱いされ、小数派になる時、誰でも見えるところをみやすいのです。

しかし、そのためにこそここに2人の結論、金持ちとラザロとの話の結末が既に描かれていることを知るべきなのです。今、どれほど、金持ちクリスチャン、霊の戦いクリスチャンが脚光を帯びていてもその結末は既に聖書に記されており、その結末とは、ハデスの苦しみなのだということを知るべきなのです。

「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると」

ハデスやら地獄のことはあまり考えたくありませんが、しかし、実際にそこへ行ったらもっと大変なので私達は転ばぬ先の杖ということで、前もってこのことを考えておくべきと思われます。すくなくともこの箇所で、明らかに金持ちとハデスとが関係があることがわかるのです。
そう「富んでいる豊かになった」とうそぶく金持ち教会、ラオデキヤの末路、行く末とハデスの苦しみとは明らかに関係があるのです。

”24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』”

ここでは、金持ちの苦しみが炎であることが書かれています。炎の意味することは?かねてからいっているように火や炎は霊と関係しており、この金持ちの罪、問題のもとは、霊、悪霊のたまものを用いたことと関係があるのです。悪霊リバイバル、トロント、ペンサコーラリバイバルは明らかにこの金持ちと関係があります。

「水に浸して私の舌を冷やすように」

水はこの金持ちの舌を冷やし、助けます。しかしそれは与えられません。何故か?さっするにこの金持ちの罪は悪霊のリバイバルを受け入れたこと、そして水、聖霊を排除し、あろうことかその聖霊の器を悪霊よばわり、ベルゼブル扱いしたことと思われます。

「舌を冷やすように」

舌はことば、みことばと関係します。察するにこの金持ちの罪はまた、みことばを行わず、不法を行ったこと、そのことにあると推察できます。

”25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。”

金持ちは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪いものをうけました。これは、いわゆる艱難時代における2者の関係、状態をさします。ここではいわゆる艱難時代における2者、すなわち、ラオデキヤ、金持ち教会とフイラデルフイア、貧乏教会との対比が書かれていえるように思えます。この2者は非常に対照的であり、わかりやすい経過をたどります。以下の通りです。

<生きている間>
フイラデルフイア:悪いものを受ける
ラオデキヤ:良いものを受ける

<死んだ後>
フイラデルフイア:慰めを受ける
ラオデキヤ:苦しみもだえる

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この2者に関しては間違えようのない程、はっきりした未来が預言されています。我々は座り、じっくり考え正しく判断すべきなのです。どちらを選ぶべきなのか、どちらが賢明なのかを。私に関していわせてもらえるなら、考える迄なく、フイラデルフイアの道、すなわち、貧乏ラザロの道の方が正しいに決まっていますので、それを選びます。しかし、それととともに、私はこのことをも知っています。すなわち、この様にはっきりとみことばに示されていたとしても、しかし、なおかつ、金持ちの道、見える富の道を選ぶ人の多い、そのことをも知っているのです。

今さらいうまでもないのですが、しかし再度いいます。私達クリスチャンの成功、勝利、名声はこの今の世において決まるものではありません。しかし、後の世において決まるものなのです。今の世、後の世どちらにおいても勝利、名声、成功が得られればいいのですが、そうもいかない、どちらか一つしか選べないものなのです。その時、一体どちらを選ぶのか、その選択をはっきりと決めておくべきです。そうでないと結局惑わされる人が多くなるからです。

聖書の標準、基準、選択ははっきりしており、この世ではなく、後の世の名声を求めよと言うものです。主イエス自身、「私の国はこの世のものではない」と明言されています。主のこの世における最後は、名声もなく、逆に恥と非難と十字架で命を失うことでした。パウロ、ペテロ、ヨハネもこの世においては、同じ様な扱いを受けました。主イエス、パウロ、ペテロにつらなる線を歩もうと志す我々がこの世で大成功、大名声、大発展で終わるはずがないのです。もしそうなら、そんなことを望んでいる人は何か勘違いをしているのです。私達の最後は、この世においては、貧乏人ラザロで終わるというスタイルが望ましくはないが、しかし、聖書的には順当なところ、妥当な線なのでしょう。

「おまえは生きている間、良い物を受け」

金持ちの失敗、間違い、敗因は何だったのでしょう?彼の失敗は、この世のこと、生きている間のことしか考えていない、考慮していない、後の世を計算していなかったということです。しかし、世の中の未信者はともかく、私達は見えるこの世のことでなく、目に見えない、後の世を考慮すべきなのです。しかし、そうではあってもこれから、近視眼的なクリスチャン、この世のことしか見えないクリスチャンが増えて来るでしょう。

この世でたまものを受けること、この世で名声を得ること、聖書に忠実になるよりは、この世で非難されないことを選ぶクリスチャンが増えてくるでしょう。またエキュメニカルすなわち、この世的なことを選ぶクリスチャンが増えてくるでしょう。

"26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』"

金持ちとラザロとの間には大きな淵があり、金持ちは決して、向こうへ行くことはできませんでした。もう後悔は遅いのです。そんなわけで、この様な日が待っているので、私達は今の世のことばかりでなく、後の世のことを考えるべきです。何故なら、私達のこの世における時は少なく、後の世は長いからです。ほんの短いこの世における月日の間に私達は行くべきところへいくよう備えなければならないのです。

普通の教会時代でもそうでしょうが、まして私達は多くの者がふるわれ、よりわけられ、試みの中で振り落とされると明確に預言されている、終わりの時代に入りつつあるのです。何はともあれ、備えは必要ではないでしょうか。老後の備えもあり、土地もあり、家も貯金もあるかもしれませんが、さらに大事な備え、後の日に備えるべきなのです。ある人々は、もうこの世のテレビも見ず、音楽も聞かず、映画も見ず、しかし、熱心に来るべき日に備えています。過ぎ去るべき世とは交わらなくなったのです。極端な人々と思う人もいるかもしれませんが、今はもうその様な時代なのかもしれません。耳のある人は聞いてください。

”27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』”

ここで金持ちは自分の兄弟について語っています。ここで注目すべきは、兄弟が5人であること、そしてここに書かれている金持ち、ラザロを足すなら、合計7人の登場人物がいるということです。7は教会の数であり、このことは教会に関するたとえと理解できます。他にも以下の様に7の数がよく聖書に出てきますが、どれも教会をさす数と思われます。

”マタイの福音書 22:28 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」”

”使徒の働き 19:14 そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。”

似たような例としてサマリヤの女の話があります。彼女はかつて5人の夫があり、今一人の夫でない男と一緒におり、さらにもう一人の男、イエスキリストに会って話しているわけです。ここにも7人の登場人物があります。彼女、サマリヤで代表されるローマカソリックの人々が終わりの日に真の夫、イエスキリストに巡りあうことが予表されるのです。

ラザロの話に戻るなら、7人の登場人物のうち、7人目すなわち、最後の金持ちは明らかに裁きと直結しています。これは前にも書いた最後の教会、富んでいる、豊かになったという金持ち教会ラオデキヤの予表です。この教会は特別な教会であり、裁きと直結しているのです。これはあたかも一週間7日の中で7番目の日、安息日だけは他の日と区別され、冒涜や行いと関係しているのと似ています。そして、金持ちと対照的な人物、ラザロは金持ち教会、ラオデキヤと同じ時代にあらわれるフイラデルフイアの予表です。そして、金持ちにこんなところへ来るなと警告する5人の兄弟とは、あとの残りの5つの教会のことでしょう。

”29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』”

金持ちは残った5人の兄弟への警告として、ラザロが生き返って警告することをいいますが、しかし、アブラハムの答えは、彼ら5人の兄弟は、「モーセと預言者」に聞くべきとの答えです。これが聖書の標準です。モーセはみことば、聖書のことでしょうし、預言者はそのみことばに沿って語る働き人のことでしょうか。
これらはどこの教会にも与えられており、彼らはこれに聞くべきなのです。それ以上の特別な警告はどこにも与えられないのです。

”30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”

ここで金持ちは死人の中から、誰かが行けば、彼らは悔い改めるといいます。金持ちは繰り返しますが、ラオデキヤの予表です。ですから、ラオデキヤの時、復活が起こるのかもしれません。黙示録の時、すなわち、ラオデキヤの時代に復活が起きることが聖書に記されています。
以下の通りです。

”黙示録11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。”

この日、明らかに復活があり、彼らの敵もそれを見るのですが、どうも悔い改めるようには思えません。残念ながら、『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』とのことばが成就してしまうのでしょう。繰り返しますが、ラザロは貧乏人の名前ですが、それはまた復活した人の名前でもあり、フイラデルフイアの中で復活があることが想像できるのです。

 

終末における主のみこころを行いましょう。

 

ー以上 ー

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