日常から「ちゃんと」というワードを取り除くと、なんとなく余裕が感じられる

まえおき

自分は年をとってきたのか、以前にましてマイペースになってきている。

なんとなくではあるけど、なぜか半年前くらいから「ちゃんと○○して!」みたいな言葉を人から言われることに、ものすごく苛立ちを感じはじめた。

でも人から言われることに苛立っているということは、裏を返すと、自分が「ちゃんと○○して!」を無意識に発しているとすれば是正する必要があるということ。

そんなわけで、ここ半年は意識的に日常から「ちゃんと」っていう言葉を取り除くようにしていた。

「ちゃんと」はもともと多義語すぎる言葉

「ちゃんと」とか「きちんと」とか、それっぽい類義語も含め、結局その意味は文脈に大きく依存する。そして意味だけでなく程度も人によって大きく違う。

今こうしてブログに文章を書いているところに「もうちょっとちゃんと説明してもらわないとわからない」とコメントが付いたとしよう。私としては何をどの程度までしたら"ちゃんと"説明したことになるのだろうか?

といった具合に、(ブログにちゃんと説明しろって言うコメントは付ける人は流石に居ないと思うがw)「ちゃんと」という言葉を発する背景には、要求事項が整理されていないまま漠然と要求していることがある。

自分に対する「ちゃんと」と、相手に対する「ちゃんと」

「ちゃんと」はとても主観的で整理されていない状態なので、自身に対して「ちゃんとしなきゃ」という自戒をすることはあっても良いと思う。

しかしながら、人に対して「ちゃんと○○しなさい」「きちんと○○してよ」と要求するのはもっと冷静に考えないといけない。「なんでもいいから○○しなさい」「いいかんじに○○してよ」と同程度の要求をしているんだと意識すれば、おのずと具体的な指示内容に置き換わる。

  • 「ちゃんとソースコメントを書いてください」の代わりに「社内の誰が読んでも意味が分かる程度にコメント書いてください」なのか「コーディングルールなのでコメントは忘れずに書いてください」なのか。
  • 「きちんと設計して」の代わりに「3年後に自分が見て困らない設計にして」なのか「新入社員が見てすぐ理解できる粒度に設計して」なのか。

ようするに、依頼する側も「ちゃんと」することはどういう意味があってやらせていることなのかを言語化することになる。

数カ月間「ちゃんと」を封印してみると・・・

自分がここ半年くらい、いざ「ちゃんと」「きちんと」という言葉を意識的に封印してみると、最初は代わりとなる言葉が見つからなくて発言で詰まることも多かった。代わりの言葉が見つからず、無意識に「ちゃんと」って言ってしまったことも多々あった。

しかし最近は、自分のなかで「いまは○○が一番やりたいことなんだ」って思考を整理するのに少しずつ慣れてきて、「ちゃんと」してほしいって要求することは減ってきた。

  • 思考がまとまってない状態で思考回路もdumpしないまま、「ちゃんと」要求するのをやめる。
    • なにが一番やりたいことなのかを今一度考える
    • やりたいことがわからないときは、そういう思考回路をたどってきたのかを絵/図で書く

「ちゃんと」を意識的に封印することで、自分の思考回路や判断を他人がトレースできる形にすることが根本的に重要なことだということにも気づき始めた。

 

「ちゃんと○○して」の裏返しには「あなたがちゃんとしてくれないと、私が○○しないといけない...」みたいな意図が少なからず無意識にでも存在している。ようするにこれは判断が属人化しているし、精神的にも余裕がない状態だ。

いっぽう、「ちゃんと」を封印して、思考回路や判断・意図をトレースできるようにした状態というのは、「あなたが私の意図を汲み取ってくれることを期待しています、信頼しています」のように、属人化から少し開放され、精神的にやや余裕がある状態である。

 

そう、「ちゃんと」を封印すると、なんとなく余裕が生まれるのである(とても短絡的な結論www)

まとめ

「ちゃんと」って発言する背景には、自分の思考が整理されていないことがある。

「ちゃんと」を要求するんじゃなくて、思考回路や判断・意図を誰にでもトレースできる状態にして、今後も気楽にいこう。

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そういえば・・・

書き終えたところで、konifar氏が昔、なにか記事を書いてたなーって思い出した。

konifar-zatsu.hatenadiary.jp

あとでちゃんと読んで、ちゃんと理解しよう・・・(あっ!