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54歳になった。だからゴシゴシである。
誕生日には何らかをやってきた。今回は人生ゴシゴシとタイトルだけ決めていた。 明け方は1度まで下がったが、昼は陽がさし小春日和となった。エノアールには、野宿の方が一人だけ来ていた。 日々のテント暮らしの細々としたこと、近隣テントの愚痴などを話していた。15時すぎた頃に、まだ若くして急死された方の告別式の後に立ち寄ってくれた友人やその知人、古くからの友人や常連さんなどが来て、少し賑わってきた。ぼくは墨をすりつつ、話を聞いていた。 16時になり、ぼくはテーブルのわきに敷いたシートの上に座って、「今日は54歳の誕生日ということで人生ゴシゴシします」 「そうなんだー」という声。「ゴシゴシしたいことを考えておいてください」というと「ゴシゴシしたいことって?」 「たとえば、忘れたいこととか、消したいこととか」 ぼくは服を脱いで上半身裸になった。「54歳になって何やっているの!」というヤジ。 「ゴシゴシしたいことを背中に書いてください。寒いのでなるべく早く」 「頼んでない」という声。「あー、思いついた!」という声も。 ぼくは背中を向けて正座をしている。筆先が肌を滑るひんやりした感覚。一人ひとりが参拝するようにやってきて書く。その文字はぼくには見えない。 トイレに行っていた野宿の人が戻ってきたので趣旨を説明すると、「あるけど……書けない」と頭を抱えた。 古くからの友人にぼくの忘れたいことを代筆してもらった。「ムセイ」。 一通り書き終わったところで、愛用のボディタワシを取り出した。タワシには背中に届くように紐がついている。「ゴシゴシ」、背中をこすった。みんなも「ゴシゴシ」と声を上げる。「おちてきた」「混ざった感じ」。ゴシゴシ!ゴシゴシ!寒風(乾布)摩擦のようだ。ダメ押しで力を込めてゴシゴシした。踊りながらゴシゴシした。 「相変わらずの小川さんという感じだねぇ」 「自分が54歳になったら思い出すんだろうな」 「その時は伝統としてゴシゴシしてください」 「絶対やらない」 「でも楽しかったよ」 テーブルに戻って、それぞれ何を書いたか聞いた(詳しくは秘密)。それぞれの脳裏に浮かんだ、失敗や気にかかることは意外だったりもっともだったり。 「ぜんぜんゴシゴシされた気がしない」との感想も。 ゴシゴシし終えてぼくはなんだか落ち着いた気分になった。 お好み焼き(おいしかった)に刺さったローソクを吹き消して歌を歌って誕生日は終わった。 それから背中に残った墨をゴシゴシに銭湯に行った。湯船に入ったら、皮が剥けていたみたいでものすごく沁みた。 #
by isourou1
| 2024-12-21 11:57
| ホームレス文化
公園のトイレに行った。大のほうだ。トイレに行く時は、帰りに水を汲むため、4リットルの焼酎ボトルを手に提げている。
個室に入るなり、ポリエステル製の黒いポーチが小棚の上に置いてあるのが目に入った。 財布かもしれない。 個室の中なので都合がいい。用を足してから、ポーチを手にとって、チャックを開けてみた。万円札が入っている。折り畳まれていて数えなかったが10万くらいありそうだ。ポーチの見た目に比べて予想外の額。あとは、名刺や銀行カードや免許証。 さて、どうしよう。抜いてしまおうか。 その時、つい最近、夜中に新宿で財布を落としたが、そのまま拾われていて、助かったことを思い出した。ぼくはよく財布を落とすが、いつも拾われて見つかっている。 また、こんなことで捕まるのも面白くないとも思った。そして、知り合いの引っ越しを手伝ったばかりで現金が多少はあった。無一文だったらわからない。 このまま置いても、だれかに盗られるだろう。ぼくがサービスセンターに届けて、「野宿者が拾った」と相手に伝えてもらおう。野宿者の評判も少し良くなるだろう。いや、警察に届けて、一割もらおうか。それでも、でかい。 と、ここまでを一瞬で考えた時に、ドアの外で話す声が聞こえた。 「……トイレのどこに置いたか分かりますか?」 ぼくは、とっさに個室から出ながら、 「財布ならそこにありますよ」 と、スマホを耳に当てている、持ち主の関係者らしき人物に落ち着いた声で告げた。 その人は、「あ、ありました」とスマホに言って、焼酎ボトルを手にしたぼくを黙って見つめた。 #
by isourou1
| 2024-07-31 19:14
| ホームレス文化
※昨年10月に書いた原稿です
今朝(といっても10時半ころに)、布団の中のぼくに電話がかかってきた。元テント村のHさんだ。 まだ寝ていた? 別に用事はないんだけど。 久しぶりの声だ。 今年は花見やったの?連絡ないからどうなったのかと思って。 (花見か、それ半年前の話だよ)と思いつつ、うーん、今年もやらなかったよ、と答えると、一般はやっていたんだろ、と言う。寝ぼけた頭ではやらなかった理由をすぐには思い出せなかったが、うーんやっても人が来るか分からなかったしね、と言う。実際、花見のことを気にかけていたのは、ケンさんとHさんくらいだった。 4ヶ月ウツで寝ていたんだよ、とHさん。連れが飯つくってくれたからどうにかなったけど、一人だったら死んでいたかもしれない、なんにもする気がしなくて家の外に出なかったよ。 それから、Hさんにテント村住人の近況を聞かれた。最近入院したケンさんの話をすると、そうかケンさんもあっちに行ったか、と言うので、まだ生きているんだよ、と返すと、これから施設に行くことになるんだろ、産まれる時と死ぬ時は一人だからな、と言った。それから、 エノアールはやっているんだろ、そのうち遊びに行くよ、と電話が切れた。 今日の午後、Iさんとドカコさんの面会に行った。ぼくがドカコさんに会うのは、実に5年ぶりだ。ドカコさんの入院生活も2年になろうとしている。ベットの3分の2ほどでちょこんと収まっているドカコさんは、以前より幾分やせたとは言え、ドカコさんのままで、ぼくは胸をなでおろした。ドカコさんが口を開けば、清潔だけど無機質な大部屋のベットの上にもドカコワールドが立ち上がるのだ。Iさんも病室の雰囲気は気になったらしく、こんどドカちゃん人形を持ってくるから飾ろうよ、と言っていた。ドカちゃん人形とはドカコさんが布や紙でパッチワークして制作していた作品のことである。 ドカコさんらしかったのは、テーブルの上に、トルストイ「くつやのマルチン」が載っていたことだ。ドカコさんと話しながらページをめくってみた。貧しい靴屋にキリストから明日訪れるとの託言がある。翌日、ワクワクしながらキリストを待つ靴屋だったが来臨はなかった。雪かきしている老人にコーヒーを入れたり、赤ん坊を抱いている薄着の婦人にセーターを上げたり、老婦人からりんごを奪った少年と老婦人の仲介をしたり、という平凡な一日にすぎなかった。その夜、それらの人たちは私だったのだというキリストの声が聞こえる。わたしは貧しい人と共にいるという聖書の言葉で絵本は締めくくられていた。子どもの頃、ドカコさんは、老人であるマルチンを演じたことがあるのだという。 そして、話はやはりテント村のことになった。テント村の出来事が、色鮮やかにドカコさんの眼前に映し出されているのが分かって、ぼくは驚きとともに胸が暖かくなるのを覚えた。加藤さん、小山さん、ウノさん、今となっては懐かしい名前が次々と出てくる。ドカコさんが、テント村でもっとも思い出すのは意外にもケンさんらしく、入院していると聞いてずいぶんと心配していた。 面会の制限時間は10分だったのだが、40分ほどは話したところで、看護師がそろそろです、と言いに来た。ドカコさんは、もう終わりなの?。年内にまた来ます、と言うと、それまで生きているか分からないわよ。ぼくが、面会の予約がなかなかできないと言うと、じゃあ糸電話で、とドカコさん。色んな人と糸電話で話しているようなのだ。それで、色んなことをはっきりと覚えているのかなと思った。ぼくたちも、糸電話で!、と言って帰った。 夕飯の買い物に近くのスーバーに出かけた。その行きがけに、テント村のTさんが大きなブラスチックの衣装ケースを抱えて歩いているのに出会った。「いいのを拾ったね!」と言うとエヘヘと笑った。この手のフタ付きのケースはテント生活には必須なのだ。落ちてないかとぼくもいつも気にしている。 スーバーでは猫のエサを買っている、元テント村のSさんに数年ぶりに出会った。隣のテントだった人だ。まだ、あっちにいるの?とSさん。やはり、話はテント村の近況だ。絵かきさんのことや一昨年亡くなったYさんのこと。また、渋谷の街で倒れて急死したと言われている人のこと。この人は、公園近くの都道に荷物を置いていて(住んでいたようでもあった)よくテント村に遊びに来ていた。テント村を離れても、どっかから情報は入っくるようだ。みんな死んでいくなぁ、とSさん。 スーバーからの帰り道では、台車を押して歩いてるMさんと挨拶をした。 今日はなんたかテント村関係者とよく会う。 そして、ぼくたちがバラバラにされてきたということにも思い当たった。テント村という1箇所(いや、それはテント村だけではなく炊き出しの場であったり、もっとピンボイントでエノアールであったり、つまりは野宿という交差点の多い時空)に集っている人たちが、病院に施設にアパートに分散されてきた。そこにおいても、その人の個性を発揮できなくもないだろうが、それは閉じた空間に埋没される傾向にある。そして、なにより、変人(とあえて言うが)が集うことによってうまれる相乗効果に欠けている。開かれた空間に集うことによって存在を顕在化すること、それが野宿の効用なのである。もちろん、身を隠せること、不本意にさらされないことも大事だから、それが両立しうる繊細さが必要だろう。 ここまで考えて、集うことに対して冷めつつあった最近の自分に少し喝を入れる気持ちになった。 #
by isourou1
| 2024-04-15 22:20
| ホームレス文化
声をかけるのは難しい。相手が見知らぬ人であれば、なおさらだ。
JR高架下に寝ている男性がいた。1月頃は段ボールに毛布を1、2枚敷いているだけだったが、そのうち、少し厚手の寝袋になった。 すぐ近くにある公園で毎週寄り合いをしているので、たまに歩いている姿を見かけた。やせているが背が高く、おそらく同世代か、もう少し若かった。その公園でテントを張っている人から不安の声も聞かれた。高架下の男性が昼間に公園にいるというのである。野宿者だからといって他の野宿者を警戒しないわけではない。むしろ、同じ生活領域にいるので敏感になる。 その高架下の寝床がきれいになくなった。 「排除されたのかもしれない」と言う人もいた。「何でもっと話しかけようとしなかったのか」となじられもした。ぼくとしても、寝床にビラを置いたり、食べ物を用意したりしたことはあった。しかし、寝床にいないことも多かったし、いても寝袋にくるまっていた。一度、公園の前に佇んでいる時があって、声をかけようか、ちょっと考えた。しかし、なんとなく不穏な顔つきで周囲を見ているようだったので、なんて言ったらいいのか分からず気後れした。 見知らぬ人に声をかけて、思い通りの交流になる場合は限られるだろう。こちらが何者か分からないと怪しまれるからだ。支援者のような感じで声をかけることは、それを幾分なりとも緩和する。支援という目的は不自然ではないからだ。しかし、急迫しているならともかく、別にそういう関係をつくりたいわけではない。そして、野宿者は野宿者に声をかけることはあまりしない。 そういうことを考えていた時、ぼくの頭に浮かんだのはセキさんの姿だった。 セキさんは、昔のテント村で近くのテントに住んでた人で、とにかく、この界隈を歩き回っては話をしているため、誰よりも情報通であった。そして、それを秘かに自負しているようでもあり、野宿界の「世間師」というべき人だった。3000円アパートに入ってからも、しばしばテント村に遊びに来ていた。セキさんは一カ所で長くは腰を落ち着けたりしない。エノアールに来ても、長くて30分くらいで切り上げる。賑やかしのように冗談を言って笑って立ち去る。基本的には明るい調子だが、人間観察はきっちりしている。 セキさんの名言で覚えているのは、公園の管理事務所(現・サービスセンター)が焚き火を禁止して、職員が水をかけたりしていた頃、セキさんは「バカとけんかするには、こっちもバカにならないといけない」と言った。時と場合によっては、相手よりさらに低次元なことを言わないと喧嘩には勝てない、というのは真実味がある。 セキさんは墨も入っていたから、かつてはそういう世界にいたのかもしれない。ぼくが知っているセキさんの仕事は、カジノかなにかの看板持だった。看板持はテント村でも何人かやっていた。街にずっと立っているので、人間観察ができそうだ。また、同じところにいるから、いろんな人が立ち寄る。セキさんは、人から請われればお金を貸していた(返ってこないと苦笑していた)。街で会うと、ジュース飲む?といつも聞いてきた。面倒見が良かったが、親分風を吹かせるわけでもなくあっさりしていた。 公園にテントを張る前には、セキさんは区役所まわりのダンボールハウスで寝ていたらしく、そのころが一番楽しかったとよく言っていた。壁が薄くて、と、その理由を説明していた。ちなみに、セキさんは泥酔してあちこちで転がっているので有名だったらしいが、ある時から酒を全く止めたと言っていた。アルコール依存を自力で克服した人というのもあまり聞いたことがない。「生きているのが冗談みたいなもの」が口癖だったが、10年前くらいに部屋の中で亡くなっているのを看板持の同僚が発見した。 さて、セキさんのように声がけが出来るだろうか? 何となく楽しそうに、でもどこか親身に、さっきまでの会話の続きのように。 #
by isourou1
| 2024-04-09 13:51
| ホームレス文化
※昨年末に書いた文章です。 ついに、Kさんに面会できる日がやってきた。 6月にトイレで倒れてから半年が経過した。その間、Kさんからは、生き地獄だ、公園に帰りたい、助けて欲しい、という悲鳴のようなハガキがたまに届いていた。リハビリ病院や福祉事務所とやりとりをしていたが、個人情報保護をたてにされて、肝心なことは何も分からなかった(病院は、手紙を本人に渡したかを答えず、言わない理由すら答えなかった。忙しいと一度も面会に行かなかったCW(ケースワーカー)も、ぼくには応答しませんと言い出す始末だった)。未だにコロナを理由に面会を禁止し、公衆電話もない、外部との交流が遮断されたリハビリ病院で、何が行われているのか、疑心暗鬼になる要因はいろいろあった。そういうもどかしい思いを抱えている中、Kさんから電話があった。 「もしもし、Kです」。懐かしい声だ。病院の隣市にある老人ホームに移ったところだという。サプライズだと午前3時に職員がやってきて、荷物をまとめさせられ移動することになったのだという。Kさんは、嫌がらせだよ、と言っていたが、たしかに意味不明だ。 病院では、配食の有無で言い争いになり認知症扱いされて、毎日けんかしていたとのこと。「看護士、全員敵」とKさん。リハビリの先生は良くしてくれて明るい気持になったらしいが、院内感染でKさんもコロナに罹患して、最近はリハビリも出来なかったという。病院を出られるのならどこでもいいから移動したとも言っていた。取り次いでくれた管理人に面会できることを確認し、Kさんには、ちかぢか訪問すると伝えた。 テント村から電車を乗り継いで1時間。さらに、そこからバスで30分。交通量の多い街道から脇道に入ると、畑が点在する住宅地。典型的な郊外の風景だ。老人ホームは3階建てのため、わりにすぐに見つかった。ホーム前はガラガラの駐車場が広がり、全体として殺風景な佇まい。入口のドアには、コロナのため面会禁止の張り紙があったが、テント村のIさんと入ると、管理人がKさんの部屋番号を教えてくれた。 手狭な個室のほとんどを占めているベットの上にKさんが座っていた。全体として白っぽい空間。Kさんも漂白されたようで衰弱して見えた。身長は4センチ、体重は22キロ減って40キロ前半しかないという。脳出血の麻痺は残っていて、少し話しづらそうだ。病院側と揉めた時、一日1キロでも一ヶ月も歩けば公園まで帰り着くだろうと思ったが、病院にお金を管理されていて、これでは闘えないとつくづく思ったそうだ。Kさんは、公園に帰りたい、公園で死にたい、と何度も言った。 老人ホームの食事も足りないらしく、食べ物のことで頭がいっぱいらしい。好きなものを好きなだけ食べたいという切実な願望。<やよい軒>のハンバーグ定食のハンバーグを四等分して、その一片につきご飯1杯、計4杯たべたいと言っていた(やよい軒は、ごはんお代わり自由)。 ピーナッツや食パンを買いたいと言うので、コンビニまで行くことになった。入居10日目のKさんだが、今までホームの外に出たことがなく、外出していいかどうかも知らなかった。この施設は<住宅型有料老人ホーム>なので、外出・外泊など自由なはずだ。 12月にしては暖かい日差しの中、徒歩10分くらいの場所にあるはずのコンビニへ、3人で向かう。Kさんは杖をついている。住宅地を抜けて街道に出る。体がふらふらと危なっかしいKさんの脇を大型トラックが走り抜ける。膝くらいの高さのブロック塀で休憩。何やら鼻歌まじりに自転車でやってきたおじさんが、ぼくらの前で停まって、やぶから棒に「柿くえば 鐘が鳴るなり 東大寺だっけ?」と話しかけてくる。「たぶん法隆寺じゃないですか」と答える。 ようやくコンビニに到着。店の前にある公衆電話を確認する。Kさんは視力も弱いらしく、目の前にある電話が分からなかった。「何かあればここから掛ける」とKさん。Kさんは食パンとピーナッツ、いちむらさんはチキンナゲットなどを購入。 コンビニを出たところで、「手を貸してください」とKさんに頼まれる。介助を受け慣れていることを感じる。手をつないで歩いたが、Kさんの歩幅はだんだん狭くなり、上体が後ろにそって、倒れかかった。それ以上、動けなくなった。そこで、いちむらさんが、急いでKさんの部屋まで歩行器を取りに戻った。 歩行器を使うと、ウソのようにKさんはスムーズに進んだ。「まじめに練習したから」とKさん。無事帰宅するなり、袋から取り出したチキンを顔の前にさげて、むしゃぶりついた。ぼくらと話ながら、だんだんと上体が後ろに倒れ、仰向けになっている状態で、ピーナッツを口に放り込み食パンを噛み締めた。その時、部屋がノックされた。Kさんは、あわてて買ってきたものを袋にしまって、ぼくがプレゼントとしたソーセージ(公園にいる頃の主菜)を引き出しに隠した。そんな必要はないはずだが、半年間の病院生活の感覚が抜けないのだろう。 ノックは、福祉事務所から施設へと入金があったからKさんに確認をしてほしい、という用件だった。ぼくも付き添って階下に降りた。施設を運営している法人の責任者と管理人が食堂のテーブルに座っていた。施設の取り分を除いた、Kさんのお小遣い(生活扶助費から食費や管理費、光熱費を除いた額)は、わずか月数千円で、貧困ビジネスの無料低額宿泊所より少ない。宿泊所よりも入居者に手厚い対応をしているのかもしれないが、これでは生活範囲は老人ホームにほぼ限定されるだろう。ぼくが外出や外泊のことを尋ねると、責任者は基本的には自由ですと言いながらも、入所者が行方不明になっても探すだけの人手がない、そのためすぐに警察に捜索願をだすと語って、抑制したいという本音を滲ませた。ただ、二人ともオープンな感じで嫌な印象をぼくは受けなかった。 部屋に戻ると、Kさんは、ぼくの誕生日に2人にやってほしいコントがあるんだよね、と話しだした。 テント村に関西から遊びに来る、しかも、だいたいヒッチハイクでやってくる女性にインスパイアされた内容だった。 ーーーハイティーンのIさんが、<東京まで>と書かれたダンボールを掲げて、人っけのない路肩に立っている。それを見てトラックが停まる。運転手は中年のぼく。ヒッチハイカーは、あまり乗りたくないと思う。そのうちに運転手が、オレのトラックに乗れないのかと切れる。ヒッチハイカーが怖くなって、警察を呼ぶわよと言うと、それは困ると、運転手は急にトーンダウン。なぜ?と聞くと、免許証を持っていないんだ。あんた、免許なしでトラックに乗っているの?と驚くヒッチハイカー、、、というコント。面白そうだね、とぼく。Kさんの持ち味が失われてないことにうれしくなった。 Iさんが、お正月にエノアールに来たら、と誘うと、まだ早い、とKさん。公園に帰ったら、もう施設に戻りたくなくなると思っているでしょ、とぼく。遊びにくるだけだよ、寒いうちは施設にいた方がいいよ、とIさん。 そうこう話しているうちに、Kさんは外泊して公園にやってくる気になった。「正月に人間らしい食事をさせてください」と、この日一番の晴れやかな顔をしてKさんが言った。
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by isourou1
| 2024-04-09 13:24
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