教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 1月15日

小正月

 

1月1日の「大正月」に対して、1月15日を「小正月」と言います。
もともとは旧暦の1月15日で、その年の最初の満月の日です。

 

理研ビタミン株式会社のHPより引用します。

小正月ってなに?
日本では明治の初めまで、月の満ち欠けを基準として一年の長さを決めていました。小正月とは、旧暦の1月15日でその年の最初の満月の日です。正月を大正月(おおしょうがつ)と呼ぶのに対して、満月はめでたいものとして、この日を「小正月(こしょうがつ)」と呼び祝っていました。現在では、新暦の1月15日に祝う地域が多くなっています。

この日に行われる行事としては、「どんど焼き」が有名です。(地域により様々な呼び方があります。)  稲を刈り取ったあとの田んぼや神社などで、正月飾りの門松やしめ縄飾り、書初めなどを、大きな焚火になるように組んだ木や竹などの柱に結びつけ、14日の夜か15日の朝に願いを込めて燃やす火祭りです。その煙にのって、歳神様が山に帰るとされています。
この火で焼いた餅やだんごを食べ、その煙を浴びると、その年1年は無病息災で過ごせるそうです。

小正月の飾りとして、楢(なら)などの木の枝に餅やだんごを刺し、稲穂を表した「餅花」、米の粉で蚕の繭(まゆ)の形に作り、木の枝に刺した「繭玉(まゆだま)」があります。これらの飾りは、15日に小豆粥に入れて健康と厄除けを願って食べます。竹筒に入れて小豆粥をたいて、その年の豊凶を占う「粥占」の神事をする地域もあります。

小正月には、男子の「元服」が行われる日であったため、後の成人の日になりました。
また、「女正月」ともいわれ、正月の接客などで忙しかった女性をねぎらうために、地域によっては女性に代わって男性が家事をしたり、女性が実家に帰省する地域もありました。

 

「日本大百科全書(ニッポニカ)」より引用します。

小正月こしょうがつ
元旦(がんたん)正月に対して正月15日をいう。女正月ともいい、多くの行事の行われる日である。花正月といわれるように、14日に楊(やなぎ)やヌルデの木を切ってきてそれを削り、小さな花をつくり、粟穂稗穂(あわぼひえぼ)、稲の花などといって飾っておく。また物作りといって木の枝に餅(もち)や団子を刺して座敷に立て、豊作を祈願する。養蚕をやっている所では餅で繭玉(まゆだま)をつくって飾り木に成らせる。王朝時代には主水司(もいとりのつかさ)から七種粥(ななくさがゆ)を献上する儀があったが、民間では小豆粥(あずきがゆ)をたく。この粥をたく前に早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)を表す早中晩3本の竹筒を入れておき、炊き上がり後その中に入っている粥の多少によって作物のできを占っている(粥占(かゆうら))。ほかにこの「世の中ためし」という年穀の豊凶を占うものに、白米を敷いたお膳(ぜん)の上に早中晩の三つの餅をのせ、餅に着いた米粒の多少によってその年の稲のできを占う年占(としうら)の行事も行われる。

 小正月の行事には子供の活躍するものが多い。この日は道祖神を祀(まつ)り火焚(た)きをするのであるが、その前に子供たちは家々を回って門松(かどまつ)や正月の飾り物を集めていく。小正月の行事に子供たちの籠(こも)る正月小屋をつくる所が各地にある。子供たちはこの中に泊まって餅を焼いて食べ、鳥追いの歌をうたったりする。サイト小屋という地方が多いが、北陸地方から東北地方の南部では鳥小屋といっている。秋田県ではカマクラという雪小屋の行事が有名である。雪穴の中に水神様を祀っている。サエノカミの火焚きはトンド、サギチョウ、オンベなどのほか、信州ではサンクロウ、北九州ではホッケンギョウといっている。この火に当たると風邪をひかないといい、また習字の紙をくべてそれが高くあがると字が上手になるという。正月14日にヌルデの木などで祝い箸(ばし)とか祝い棒をつくる例が各地にある。ヨメタタキ棒などといって子供が新婦の尻(しり)をこれでたたく。子供ができるまじないという。

 小正月には若者が家々を訪れ、お祝いといって簡単な藁(わら)製品などを持って行って餅をもらってくる風習が全国各地にある。晩方に戸をたたいて訪れるのでホトホトとかコトコトとかトタタキとかいい、蓑笠(みのかさ)を着ているのでカセドリという土地もある。土佐ではカユツリといっている。訪問者は顔を隠しているが、水をかけられたりする。秋田県の男鹿(おが)半島のなまはげ、石川県能登(のと)半島のアマメハギ(アマミハギ)などは、青年が蓑を着て鬼の面をかぶり、家々を訪れ、怠け者はいないかといって家中を探し回る。ナマミもアマメも怠け者の足にできる火斑(ひだこ)のことで、それを剥(は)ぎ取って食うといって懲らすので、子供たちは恐れ、おとなしくなる。なお、なまはげやアマメハギは「来訪神:仮面・仮装の神々」を構成する行事の一つとして、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録されている。また小正月には果樹責めという行事がある。主人が斧(おの)を持って、柿(かき)の木などに、「成るか、成らぬか」といい、「成らねば切り倒すぞ」と脅す。すると子供が木の後ろに立って「成ります成ります」と答える。豊熟を期待する呪法(じゅほう)で、イギリスなどでもリンゴの木に対して行われている。

[大藤時彦]

 

 

きょうは何の日 1月12日

桜島の日

 

1941(大正3)年1月12日、「大正大噴火」と呼ばれる桜島の大噴火が起こりました。

 

鹿児島地方気象台のHPより引用します。

大正噴火の概要
◆大正噴火の前駆現象
 大正噴火では、噴火の約6か月前の1913年7月に、有村の谷合いにおいて二酸化炭素による酸欠で遭難事故が発生している。噴火発生の約1ヶ月前からは井戸水の枯渇がみられ、それぞれの噴火の3〜4時間前には海岸で熱湯噴出や井戸が沸騰したとの記録がある。

 井口ほか(2019)によると、地下水の渇水は噴火に先行する地盤の隆起に、熱湯噴出はマグマ貫入に伴う地下水の間隙水圧の増加による地下水位の上昇にそれぞれ起因すると考えられる。

 噴火の約30時間前から火山性地震(体に感じる地震を含む)が急増している。


◆大正噴火の特徴と被害
 1914年1月10日から地震、11日には体に感じる地震も含め頻発、12日08時30分頃、脇、有村など島の南海岸から熱湯噴出、10時05分頃、西側中腹(標高約350m)から噴火、約10分後には南東側中腹(標高約400m)からも噴火。黒煙・火山雷・空振など22時00分から翌13日01時00分にかけ特に顕著。13日20時00分頃から溶岩流出開始。西方の溶岩は横山村に達し約2週間後弱まる。南東方の溶岩は脇、有村、瀬戸を埋没し、1月29日に瀬戸海峡を閉塞。この噴火は強震を伴い、特に12日には有村及び鹿児島市で被害。地震、噴火による被害は村落埋没、全壊家屋120棟、死者58名、負傷者112名、農作物大被害等。降灰は仙台に達する。噴出物総量2.1×109㎥。

表 桜島 大正噴火の推移

 

年 月 日 時 噴火開始を起点とした時間 現象
1913 11月から12月頃     2か月前 桜島の一部集落で井戸水の水位が低下し始め、1か月前からは枯渇
1914 1月 10日   48時間前 地震が発生しはじめる
11日   24時間前 有感地震も含め頻発
12日 08時頃 2時間前 南岳の山頂と中腹から白煙が上昇
08時30分頃 1.5時間前 有村など島の南海岸から熱湯噴出
10時05分頃 0 西側中腹(標高約350m)から噴火
10時15分頃 10分後 南東側中腹(標高約400m)からも噴火
18時29分 8.5時間後 M7.1の強震が発生し、鹿児島市を中心に被害多発。この地震で小規模な津波が発生。
12日から13日 22時から13日1時頃 12時間後から15時間後 黒煙・火山雷・空振など特に顕著
13日 13日20時頃から2週間 34時間後 溶岩流出開始、西方の溶岩は海に達し沖合の烏島を飲み込み、約2週間後には流出が止まる。
29日   17日後 南東方の溶岩は脇、有村、瀬戸を埋没し、瀬戸海峡を閉塞、降灰は仙台に達する。

10時25分頃の状況

きょうは何の日 1月9日

風邪の日

 

寛政7年1月9日(旧暦。西暦では1795年2月27日)、横綱・谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)が流感で35連勝のまま44歳で亡くなりました。

 

江戸時代の後期にかけて、仙台の豪農に生まれた谷風は、大関昇進直前から4年間無敗という戦歴を誇り、63連勝の記録を打ち立てた強豪力士です。現在行われている「弓取り式」を上覧相撲で初めて行うなど、歴史に名を残す人気と実力を兼ね備えた力士でした。

 

「大樹生命」のHPより引用します。

「風邪を正しく理解しよう」

2018.01.01

1月9日は「風邪の日」。1795年(寛政7年)のこの日に、当時63連勝という大記録を持っていた横綱の谷風梶之助がインフルエンザで亡くなったことが由来です。
風邪と一口に言っても、原因も症状も様々。
今回は、風邪のイロハについてお伝えします。風邪を正しく理解することで、予防や治療に役立てることができます。

■風邪という病名はない?!

病院で医師から「風邪ですね」と告げられた経験がある人は多いことでしょう。しかし、実は「風邪」という病名は存在しないというのをご存知ですか? 風邪の正式な呼び名は「風邪症候群」。ほかに、「感冒」や「急性上気道炎」と呼ばれることも。
この「急性上気道炎」という呼び名は、風邪の症状をよく言い表しています。
気道は、上気道(鼻腔・咽頭・喉頭)と、下気道(気管・気管支・肺)に分けられます。この上気道に炎症が起こっている状態が、いわゆる風邪なのです。上気道に炎症があると、鼻炎(鼻水や鼻づまり)や喉頭炎(喉の痛みや痰、咳)、発熱などの症状が現れます。
ちなみに、炎症が下気道に及ぶと、気管支炎や肺炎と診断されます。
では、上気道に炎症を起こす原因というのは何なのでしょうか?

■風邪症候群の病原は?

ほとんどの風邪症候群は様々なウイルスの感染によって引き起こされます。
ウイルス以外では、各種細菌、クラミジア、マイコプラズマなどの感染によっても起こります。
また、寒さや空気の乾燥、化学物質の吸入やアレルギーなどの非感染性因子によって引き起こされるケースもあります。

表:風邪の病原まとめ

■風邪症候群に効く薬はない?

医師や看護師、薬剤師などの医療従事者は、風邪薬を飲まないという人が多いです。それは、風邪症候群に効く薬がないということを知っているからでしょう。風邪症候群と診断されて、病院で処方されることの多い抗生物質は、細菌にしか効果がありません。風邪症候群の原因の大半を占めるウイルスに効く薬はほとんどないのです。
しかし、ウイルスがきっかけで起こる諸症状を軽くする薬ならあります。
たとえば、鼻水や鼻づまりに対しては抗ヒスタミン剤が処方され、また、喉の痛みには消炎鎮痛剤、そして、発熱や頭痛、関節痛などには解熱鎮痛剤が処方されるというように、症状に応じた処方の余地はあります。
市販の総合感冒薬は、これらの成分が総合的に配合された薬です。この薬は風邪症候群の原因(ウイルス)に効くのではなく、風邪症候群の諸症状に効くのです。

確かに、風邪症候群の諸症状は辛いもの。咳や鼻水、発熱などの症状は、仕事や家事に差し障るため、薬で抑えたくなるのも当然です。
しかし、症状を抑えることは、風邪症候群を治すという点においては逆効果となってしまうことがあります。
鼻水や咳は、体内のウイルスを排出してくれます。また、熱を上げることで、ウイルスを弱体化させてくれます。いずれも、人間の持つ自然治癒力です。自己判断で咳止めや解熱剤を安易に使うのはやめた方がよいでしょう。

■風邪症候群の治療法は?

風邪症候群の治療法は、保湿と栄養と安静に尽きます。つまり、人間の持つ自然治癒力を助けるという方法です。

①保湿

喉が乾燥していると、ウイルスが活性化しやすくなります。また、喉の痛みや咳は乾燥で悪化します。
喉の乾燥を防ぐために有効なのがマスク。マスクを装着することで、吐いた息のスチーム効果で喉の湿度が保たれます。
マスクと合わせて、こまめに水分補給することも大事です。

Vol32「インフルエンザ予防のカギは◯◯の湿度」も合わせて読んでみてください。

②栄養

風邪症候群のときの食事で真っ先に思い浮かぶのが「卵がゆ」。
お粥は、食欲がないときでも食べやすく、消化に良いです。そこへ、タンパク質やビタミン類が豊富な卵を加えると、栄養価がグッと高まります。免疫力を高めてくれる必須アミノ酸がバランス良く含まれている卵は、風邪で弱った身体にぴったりの栄養といえるでしょう。

③安静

保湿に心がけ、栄養を摂っていても、仕事や家事で身体を動かしていては風邪症候群の治癒は遅れます。風邪症候群の一番の薬は身体を休ませることです。
とは言いつつも、この安静が最も難しいということは私自身よく解っています。特に、仕事を休むことによる損失を考えると、ついつい無理をしてしまいがち。

■風邪症候群による経済的損失

少し古いデータですが、ライオン株式会社「現代人のかぜとの付き合い方に関する実態調査」(2011年)によると、人が風邪症候群にかかったとき、損したと思う平均金額は21,720円とのこと。損失額の設定理由としては、「会社を休んだ日の日給」、「体調不良による仕事や家事の効率低下」、「薬の購入代とその手間」などが挙げられています。
風邪症候群による経済的損失は大きいようですが、症状が軽いうちに、安静・保湿・栄養を心がければ、会社を休む日数が短くて済みます。無駄な診察や投薬を避けることで医療費が削減されます。
風邪を正しく理解し、体調の悪化も経済的損失も最小限に抑えましょう。

 

きょうは何の日 1月6日

ケーキの日

 

1879(明治12)年1月6日、上野の風月堂が日本で初めてケーキの宣伝を「東京日日新聞」に掲載したと言われています。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

ケーキの日(1月6日 記念日)
1879年(明治12年)のこの日、東京・上野の風月堂が日本初のケーキの宣伝をしたとされる。

東京日日新聞に掲載された広告の内容は、「文化は日々開けていき、すべてのものが西洋風になってきていますが、ただ「西洋菓子(ケーキ)」をつくっている人はいません。そこで当店では外国から職人を雇ってケーキをつくり、博覧会へ出品したところ大好評でした。ぜひご賞味ください」というものだった。

この1月6日の「ケーキの日」は、記念日に関する複数の書籍にて確認することができるが、制定した団体や目的についての情報はなく定かではない。

関連する記念日として、カレンダーで22日の真上には15日があり、ショートケーキの上には苺(イチゴ)がのっていることから毎月22日は「ショートケーキの日」となっている。

その他、6月6日は「ロールケーキの日」、7月12日は「デコレーションケーキの日」、毎月6日は「手巻きロールケーキの日」、毎月8日は「ホールケーキの日」、毎月10日は「パンケーキの日」、毎月15日は「いちごの日」となっている。

ケーキについて
ケーキ(cake)とは、洋菓子の一種で、日本では一般的にスポンジケーキにクリームを塗り果物をのせたものを指す。その他、クリームや果物をのせないチーズケーキやレアチーズケーキ、フルーツケーキなどもある。

多くの場合、小麦粉に砂糖・卵・油脂類・牛乳・香料などを混ぜて焼いて作られる。ケーキの種類には、ショートケーキやチョコレートケーキ(ガトーショコラ)、バターケーキ、シフォンケーキ、ロールケーキ、モンブラン、パンケーキなどがある。

日本では、円形ケーキのサイズを「号」という単位で表示している。この「号」はケーキ本体の直径を表しているが、これは日本で過去に計量単位として使用されていた「尺貫法」から由来するものである。

1号は直径1寸(約3cm)を意味し、1号大きくなるごとに3cmずつ直径が長くなる。その大きさは、4号:12cm、5号:15cm、6号:18cm、7号:21cm、8号:24cmとなっている。

 

きょうは何の日 1月3日

ジョン万次郎帰国の日

 

嘉永4年1月3日(1851年2月3日)、ジョン万次郎(中濱萬次郎)が沖縄本島南西端の喜屋武岬の沖合でサラ・ボイド号からアドベンチャラー号を降ろし、大度浜海岸に上陸し日本への帰国を果たしました。

中浜万次郎/1880年(明治13年)頃の写真。

 

ジョン万次郎の生涯について、高知県土佐清水市のHPより引用します。

ジョン万次郎の生涯
170余年前、21世紀への道を踏み出した土佐の男がいた。日本人として初めて米国大陸に上陸した人物、ジョン万次郎について紹介しています。


異国との出会い
 1827年、万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、2男3女の次男として生まれました。
 1841年1月、万次郎14歳の時、その年の初漁で、仲間4人とともに長さ8メートルの小舟に乗って漁に出ますが、3日後にシケに遭い、漂流。さらに6日後、土佐清水市から海上760キロ南の太平洋の孤島、鳥島に漂着します。そこで約半年間の過酷な無人島生活を送り、143日後、海亀の卵を食料にするためにこの島にやってきたアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって発見され、助けられますが、ここから物語は思わぬ方向に展開していくのです。
 当時の日本は鎖国の時代で、外国船は日本に近づくことさえ難しく、万次郎たちは日本に帰ることができませんでした。たとえ帰国したとしても、外国人と接触したということだけで命の保証もありません。 実際に、1837年に漂流者を助けて浦賀に入港しようとしたアメリカのモリソン号が撃退されるという事件があったばかりでした。
 この船のウイリアム・H・ホイットフィールド船長(当時36歳)は、5人の漂流者たちを安全なハワイへと連れて行きますが、万次郎はここで1人アメリカへ渡る決心をするのでした。万次郎の申し出を船長は快く了解し、仲間4人をハワイに残して帰途につきます。万次郎の鋭い観察力と前向きな行動力は船長らに認められ、早速、ジョン・ハウランド号からとった「ジョン・マン」という愛称をつけられました。
 1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港。万次郎は日本人として初めてアメリカ本土の土を踏んだのでした。

アメリカの暮らし
 万次郎の訪れたアメリカは西部開拓の時代でした。 ホイットフィールド船長は、誠実でたくましく働き者のジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰って、英語、数学、測量、航海術、造船技術などの教育を受けさせます。日本人留学生第1号の誕生です。
 やがて、学校を卒業した万次郎は、捕鯨船に乗って7つの海を航海します。二度目の航海を経てフェアヘーブンに寄港した万次郎を待っていたのは、カリフォルニアに起こったゴールドラッシュでした。 万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようと西部に向かい、600ドルを稼ぐと、直ちに漂流仲間のいるハワイへと向かいました。
 1851年2月、2人の仲間とともに万次郎は琉球(沖縄県)に上陸しました。漂流から10年後のことでした。約半年の間、琉球に止められた後、薩摩、長崎へと護送されて取り調べを受け、翌年の夏ようやく土佐へ帰ることができました。

帰国後の出世
 高知に帰った万次郎は、土佐藩より最下級とはいえ士分として取り立てられ、身分制度の特に厳しかったこの時代に、異例の出世を果たすことになります。 激動のこの時代、幕府も各藩も西欧の情報を必要としていたのでしょう。この時、万次郎は名字帯刀を許され、出身地の中浜をとって中浜万次郎を名のることになったのでした。
 アメリカのペリー提督が黒船を率いて現れたのは、1853年6月、万次郎の帰国から2年後のことでした。幕末動乱の時代の始まりです。幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せます。 万次郎は、開国への思いを込めて老中らの前でアメリカの事情について語りますが、有能さゆえに、水戸藩など保守的な藩からはアメリカのスパイではないかと恐れられ、ペリーの第2回目の来航時の通訳のメンバーからはずされるなど、活躍の場を失うこともありました。

 

日本開国
 その後の万次郎は、翻訳、造船、航海、測量、捕鯨などを主な仕事として勤めますが、1860年、万次郎33歳の時、再び活躍のチャンスがやってきました。 幕府は「日米修好通商条約」批准のために初の公式海外使節団をアメリカに送ることになり、この時、万次郎は随行艦「咸臨丸」に乗って通訳として、また事実上の船長として活躍したのです。 咸臨丸の太平洋横断は鎖国の終わりを告げる出来事であり、船上には他に、歴史上重要な人物である勝海舟と福沢諭吉の姿がありました。
 帰国後も万次郎は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航とめまぐるしく働き続け、71歳でその生涯を閉じました。

万次郎の功績
 万次郎は、近代日本の夜明けともいえる時代に、日米の架け橋となる幾多の業績を残しました。 これほどの人物が、なぜこれまで歴史の中に埋もれてしまっていたのかは謎ですが、万次郎の功績は、日本よりも逆にアメリカで高く評価されていました。 アメリカの第30代大統領のクーリッジは、「万次郎の帰国はアメリカが最初に大使を日本に送ったに等しい」と語り、アメリカ建国200年の時、ワシントンのスミソニアン研究所が催した『海外からの米国訪問者展』では、わずか29人の中に、『アメリカ見聞録』を著したイギリスのチャールズ・ディケンズらと並んで万次郎が選ばれているのです。
 坂本龍馬の外国に対する開眼も万次郎の体験を伝え聞いたことによるものでした。 ペリーが来航した翌年に土佐に帰った龍馬は、蘭学に詳しい土佐を代表する絵師・河田小龍から学んだ万次郎のアメリカでの生活事情や民主主義を元に近代的な国造りを目指したと言われています。
 万次郎はほかにも板垣退助・中江兆民・岩崎弥太郎などに多大な影響を与えたとされており、彼の評価は国際化時代を迎えた今、その波乱に満ちた生涯とともに、いっそう高まりつつあります。 時代は再び万次郎を求めているのかも知れません。
 ジョン万次郎は現在、銅像となって足摺岬の入口に立ち、遠く第2の故郷アメリカ「フェアヘーブン」を見つめながら、今もなお浪漫航海を続けています。

 

きょうは何の日 12月30日

地下鉄開業の日

 

1927(昭和2)年12月30日、上野~浅草間(2.2km)に日本初の地下鉄(現:東京メトロ銀座線)が開業しました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

地下鉄記念日(12月30日 記念日)
1927年(昭和2年)のこの日、上野~浅草間(2.2km)に日本初の地下鉄(現:東京メトロ銀座線)が開業した。「地下鉄開業の日」ともされる。

1925年(大正14年)9月の工事開始から2年3ヵ月で完成した。所要時間は4分50秒、運賃は10銭だった。開業日には、物珍しさもあって、1日で10万人に近い人が乗車したという。

この日本初の地下鉄はロンドンの地下鉄に感心した早川徳次(はやかわ のりつぐ、1881~1942年)が、東京にもと尽力し、ようやく実現させたものだった。ウィングが回転して通過できる自動改札機、間接照明と新しい事ずくめであった。日本に地下鉄を紹介・導入した早川は日本において「地下鉄の父」と呼ばれる。

開業当時の1000形

現在の銀座線は、東京都台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅間を結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線。鉄道要覧における名称は「3号線銀座線」である。路線名は繁華街の「銀座」に由来する。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「オレンジ」、路線記号は「G」となっている。

 

日本地下鉄協会のHPより引用します。

日本で初めて地下鉄が誕生したのはいつ?
答え 1927年(昭和2年)12月30日です。
日本で最初の地下鉄は、1927年(昭和2年)の暮れ、上野~浅草間2.2kmをつなぐ路線で産声をあげました。アジアでも初めての地下鉄であり、「東洋唯一の地下鉄道」として話題を集め連日超満員。地下駅から地上にまで行列が延び、電車に乗るまでに1時間以上もかかったといわれています。

開業当時の新聞記事(提供:地下鉄博物館)

 

開業告知ポスター(提供:地下鉄博物館)

 

開業当時に使用されていた自動改札機(提供:地下鉄博物館)

 

開業当時の様子(提供:地下鉄博物館)

 


地下鉄誕生の背景
そもそもなぜ地下鉄をつくる必要があったのでしょうか。 当時の地上の写真を見てみましょう。路面電車が何本も行き交っています。この路面電車が、当時の人々の生活を支える重要な交通機関でした。また自動車の数も、急速に増えはじめた時代です。次第に道路は混み合い、渋滞も起きるようになっていました。

当時の上野駅付近風景(提供:地下鉄博物館) 

 


日本初の地下鉄誕生 そして銀座線開通へ
早川徳次(1881年~1942年)(提供:地下鉄博物館)


こうした状況を解消すべく、地下鉄誕生に向けて邁進したのが、“地下鉄の父”と呼ばれる「早川徳次(のりつぐ)」です。
1914年(大正3年)、鉄道の調査研究のためにロンドンを訪れた早川は、網の目のように地下を走る地下鉄に驚嘆し、首都東京のさらなる発展のために地下鉄開業を決意。そうして完成したのが上野~浅草間の地下鉄でした。


その後、渋谷~新橋間(6.3km)が別会社によって開通。1940年(昭和15年)には渋谷と浅草を1本で結ぶ路線が完成し、現在の東京メトロ「銀座線」になりました。

 

 

きょうは何の日 12月27日

ピーターパンの日

 

1904(明治37)年12月27日、イギリスの劇作家ジェームス・バリー(James Barrie、1860~1937年)の童話劇『ピーターパン』(Peter Pan)がロンドンで初演されました。

 

「雑学ネタ帳」より引用します。

原作は『小さな白い鳥』(The Little White Bird)というタイトルで、その後、何回か筆が加えられ、1904年に『ピーターパン』として上映された。

『ピーターパン』は、大人にならない永遠の子どもたちがおとぎの国・ネバーランドで楽しい冒険を繰り広げる物語。その後、ニューヨークでも上演され大ヒット。1953年(昭和28年)に、ウォルト・ディズニーのアニメーション映画にも登場した。

ピーター・パンは、ロンドンのケンジントン公園で乳母車から落ちたところをベビーシッターに見つけられず、迷子となったことから年を取らなくなった。その後、海賊のフック船長やインディアンのタイガーリリーが住む異世界・ネバーランドに移り住み、妖精・ティンカーベルと共に冒険の日々を送る。

ネバーランドにはピーターと同じように親とはぐれた迷子の子どもたち(ロストボーイズ)がおり、ピーターは彼らのリーダー的な存在である。

 

「Wikipedia」より引用します。

1904年に発表された戯曲『ピーター・パン:大人にならない少年』(Peter Pan; or, the Boy Who Wouldn't Grow Up)、1911年に発表された小説『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy)はイギリス・スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの作品。空を飛ぶことができる少年ピーター・パンが架空の国ネバーランドで冒険する物語である。

タイトルロールである主人公ピーター・パンの初出は小説『小さな白い鳥』(The Little White Bird 1902)。そこからピーター・パンを描いている部分を抜き出し、May Byronが再話したものが『ケンジントン公園のピーター・パン』(Peter Pan in Kensington Gardens)で、1906年に出版された。

『ピーター・パンとウェンディ』(Peter Pan and Wendy)という類似の題の小説があるが、これは『ピーターとウェンディ』をMay Byronが再話したもので、1915年に出版された。この他の初期の再話はDaniel O'Connorの『ピーター・パンの物語』(The Story of Peter Pan)がある。これは戯曲『ピーター・パン:大人にならない少年』をDaniel O'Connorが小説化したもので、1907年にThe Peter Pan Keepsakeとして劇場で販売。のちにThe Peter Pan Picture Bookと改題したものが出版された。

戯曲は何度も手直しされ、1928年に台本『ピーター・パン:大人にならない少年』(Peter Pan; or The Boy Who Would Not Grow Up)が出版された。

ピーターとウェンディ

ファイル:Peter pan 1911 pipes.jpg

F・D・ベッドフォードによる初版の挿絵

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