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【作品読解】トマトとは、列車とは、ヒヨコとは、ワイルドスクリーンバロックとは、そして舞台少女の死とは。(『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』)

 勢いが止まらない、いや加速しつつある。

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(2021)は
2018年放映のTVシリーズから始まる流れの大きな結実だ。
 と同時に、エネルギーと存在感の原液を浴びせかけられるような
独自の映画体験を作り出す、巨大で異形の乗り物であった。

 自分をはじめ、Twitterのタイムラインでは本作のファンを示す
トマトのマークをつけた人間がその映画体験を熱っぽく語り続け、
ふせったーは『シン・エヴァ』以来の活況に湧いている。

 本作はきっと、自分にとって以上に、
誰かにとって重要な作品になるんじゃないかという予感があり、
なんとか多くの人に劇場で観てもらえないだろうかという、
今は妙な公共心さえ芽生えているのである。

 この記事では、ともあれ自分の本作の体験とその読解を、
とりあえず一旦書ききっておきたいと思う。
※10000字ほどありますが、改行や小見出しを使い、
 できるだけ読みやすくなるように工夫しました。

【予告編】

www.youtube.com

~以下からネタバレ~

1.ファーストインプレッションと作風

 本作前半では、主人公である愛城華恋の
幼少期~聖翔音楽学園入学までの経緯が詳細に明かされることになる。
 観始めて数十分くらいは、本作は華恋とひかりの関係性の深堀りを
やり直すのではないかと思っていたんだけども、
中盤から始まる歌劇のくだりをしばし観てから、認識を改めた。
 本作は、全員と全員の関係性に対して、
徹底的にスクラップ・アンド・ビルド
をやるつもりなんだと。

 5つの「ワイルドスクリーンバロック」は、
TV版でケリがついたと思われていた9人の関係性に対し、
まるで邪推のように「本当にそれでいいのか? 嘘をついていないか」と
ゼロベースで厳しく問い直すものだ。
 そして遂には全員が、かつての自分たちの関係性と舞台少女の「死」を目撃するに至る。

 キャラクターへの苛烈な仕打ちが容赦なく行われる本作だが、
しかしその展開には確たるロジックが感じられたため、
ことさら理不尽なものであるとは思わなかった。

 なぜなら本作の「レヴュー」とは、画面上では近接武器と舞台装置が入り乱れるものの、
その実態は相手と自分に対する批評・刺し合いだからだ。
 この、より強い声・より強い理路を通したものが勝つという意味では、
ある種「フリースタイルラップバトル」に近い世界観を感じた。

2.この記事の目的地

 なお、この記事では、天堂真矢と西條クロディーヌのレヴューについて語ることをゴールにしたいと思う。

 真矢クロのレヴューは、2人が舞台上で交わす関係性のロジックにせよ、
ゲーテの『ファウスト』を下敷きにして重層的に作られた展開にせよ、
映像上の快楽にせよ、本当に高い水準で結実している。
 しかし最も素晴らしいことは、
このシーケンスの演出や作画がキャラクター表現を高める方向に合理的に集約されているゆえに、
最終的に「ともかくこの2人が本当に好きすぎる」という状態にされてしまうことなのだ。

3.大場なな・天堂真矢を追うクロディーヌの構図

 ここでは少し、順を追って描写を読んでいこう。

 銀座の交差点にいきなり現れたキリンは「ワイルドスクリーンバロック」の開幕を告げる。
 新国立第一歌劇団の見学に際してまるで遠足気分&ファン気分の9人は、
まるでロボットアニメのように変形する電車により、学園外にも関わらず
「ワイルドスクリーンバロック」と呼ばれる奇妙な舞台のはじまり、
「皆殺しのレヴュー」へと、いつの間にか登壇させられている。

 突如として態度を変えた大場ななの凶行により、
天堂真矢以外の人間はなすすべもなく切り伏せられるが、
大場ななは奇妙なセリフを口にする。

「これはオーディションにあらず」
「オーディションじゃないって言ってるでしょ」
「まるで強いお酒を飲んだみたい」

 大場ななは戦いの中、学園でもなく、そして舞台でもない電車であるにも関わらず、
みんなに「セリフを言い、演じる」ことを強要し続けるのだ。
 ここでは、大場ななのセリフに唯一対応できた天堂真矢のことを、
クロディーヌが「どうしてあいつだけが…」と
いぶかしむ描写に注目しよう。

 本作でのクロディーヌは、状況のメタ視が最も早い。
 双葉に新国立への入団を薦めたりと、バックストーリー上でもそうなのだが、
なぜ大場ななと天堂真矢だけが「ワイルドスクリーンバロック」を違和感なく受け止めたのかを
最初に理解するのはクロディーヌであった。

 新国立での見学は(おそらく)できなかったのだろう、
決起集会ではそれぞれが物思いにふけるなか、大場ななと天堂真矢は自然に振る舞っている。
 そんな天堂真矢の様子を見てクロディーヌはモノローグで
「(そうか、)だからあいつは…」と、なにかに気付いたように呟く。

 クロディーヌは、ここでやっと「ワイルドスクリーンバロック」が何であるのかに気が付くのである。
 この一連の描写は、真矢とクロディーヌのレヴューの直前、楽屋のシーンへの導線になっている。

4.ワイルドスクリーンバロックとはなにか

 そもそも「ワイルドスクリーンバロック」とはなにか。
 元ネタはSFの1ジャンル「ワイドスクリーン・バロック」であろう。
 ただ、ここでは字義にあまり深入りせず、あくまで作品内での役割に焦点を絞ろうと思う。
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まず「(学園外での野生(wild)の)ワイルドスクリーンバロック」とは、
それまでの「(学園内での秩序立った)オーディション」と対応する造語である。

 終盤までの展開を先取りしたうえで言ってしまえば、
「ワイルドスクリーンバロック」とは、それまで学園の舞台の上でしか行われてこなかった演劇を、
いわば「野外演劇」化し、学園外のあらゆる場所を舞台にするような仕組みだったということだ。

 もともとのSF用語「ワイドスクリーンバロック」は、時間や空間を自在に操る人間が多く登場するジャンルである。
 このジャンルが従来のSF小説の「スクリーン」すなわち舞台を、
時間と空間方面に向かって「wide」にしたのである。

 では「ワイルドスクリーンバロック」において、その舞台はどのような形で「wild」にされるのかといえば、
もちろんそれは舞台を「第四の壁」(舞台と客席との境界線)の側に向かって拡張するのである。

 ワイルドスクリーン化された舞台においては、舞台と客席の境目は限りなく曖昧(あいまい)になる。
 丸盆の上でなくてもいつでも舞台は現前しうるし、役者はいつでも観客へと格下げされうる。
 そういう危険な舞台が「ワイルドスクリーンバロック」だ。
 電車の中に「ワイルドスクリーンバロック」がいきなり登場したのも、それが理由である。

 ワイルドスクリーンバロックは、銀座に向かう電車の中、次のような問いかけから始まる。

「列車は必ず次の駅へーーー
 では舞台は?
 あなたたちは?」
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 この問いかけは、第一には愛城華恋へと切っ先を向けている。
 愛城華恋について考えることで、クロディーヌが何に気付いたのかもわかるだろう。

5.華恋はずっと列車に乗っていた

 華恋の過去の描写を追っていこう。

 中学時代の華恋は、ミスドで修学旅行の自由行動を計画する集まりから外れ、ボイトレに向かう。
 華恋のことを友人たちは、迷いのない、しっかりと将来のことを考えている人物だと評するが、
しかし、うち一人は感覚的にではあるが「本当にそうなのだろうか」と疑問を呈する。

 映像は列車に乗る華恋へと移り、華恋は東京タワーを見つめている。
 昔、ひかりと約束した東京タワーは、今は昔よりも遠くに見える。
 しかし華恋は信じている。
 この生活を続けていれば、自分はいずれひかりとの約束の運命の舞台へと至ると。

 それはまるで今乗っている列車が、華恋をボイトレ教室のある駅へと連れて行ってくれるように。
 華恋は明日も、ボイトレから児童劇団へ、児童劇団からダンス教室へと、
列車に揺られて自動的に次の駅に向かうように生活を続けていくだろう。

 そう、そうなのだ。
 実は華恋は将来のことをしっかりと考えているわけではない。
 華恋は「ひかりと運命の舞台をする」ということがあのときに決まってしまっているから、
それ以外のことをする必要がないだけなのだ。

 この事態を、映画の公式サイトのイントロダクションは、次のように説明する。

「この戯曲で舞台のキラめきを浴びた二人の少女は、運命を交換しました。
『二人でスタァに』『舞台で待ってる』」

 ここで重要なのは「運命を交換した」ということだ。
 本作での運命とは、いわば列車の終着地までの切符である。
 つまり切符を交換するとは、自分自身のためではなく、
相手との約束のために生きるということ
なのだ。

「舞台で待ってる」に囚われたのは華恋だ。
 ひかりはきっと運命の舞台で待っているのだから、
そこに私は行かなければならないし、きっと行くだろう。
 しかし、ひかりはあの約束を覚えていてくれるだろうか。
 それが、華恋の恐怖である。

「二人でスタァに」に囚われたのはひかりだ。
 一緒に舞台を見たあのとき、ひかりは舞台のレベルの高さに打ちのめされ、
 舞台を諦めようとさえ思ったし、そこで舞台少女としての彼女は一度死んだのだ。
 しかし、華恋は自分を救ってくれた。

 華恋には隠れたスター性がある、気を抜いたら華恋のファンで満足してしまうだろう。
 でも華恋は「二人でスタァに、舞台に立とう」と言った。華恋は運命の舞台にきっと来るだろう。
 自分は果たして、華恋にふさわしい役者になれるだろうか。
 それが、ひかりの恐怖である。

6.自分の人生をかけて相手の約束のために生きなければならない恐怖

 二人は、自分がしなければならないことには、何ら迷うことがなかったろう。
 しかし、迷うことがないということ自体が恐怖なのである。
 なぜなら自分は相手と「運命を交換」したことにより、
自分自身が相手の終着地、ゴールになってしまったからだ。

 幼い日、ひかりの家族が華恋をあの「スタァライト」の舞台に迎えに来るシーンでは、
ドアの向こうは「星摘みの塔」の禍々しい赤色に輝いている。

 TV版において、華恋とひかりの約束の東京タワーは、
赤黒い光を放つ「星摘みの塔」の悲劇の論理を突き破るための武器になった。
 しかし本作では、二人の約束の東京タワーこそが、
二人をお互いがお互いの運命に閉じ込めるための
もうひとつの「星摘みの塔」へと読み替えられているのである。
*1

 二人は、あの約束以来、一度として自分の人生を生きたことがなかったろう。
 自分は相手の運命のゴール地点なのだから、必ずそこに行かなければならない。
 とはいえ、切符には既に目的地が記載されており、列車に乗っていれば次の駅、そしてまた次の駅と
必ず目的地に自動的に到着するはずなのである。

 ここで当然の疑問が出てくる。
 もし彼女らが自分の人生を生きていないのであれば、
それは、生きながらにして死んでいることと同じではないか?

7.舞台少女の死の瞬間

「ワイルドスクリーンバロック」の本編は、ギョッとする過激なシーンから幕を上げる。

 暗いトンネルの中を走る列車に、7人の死体が乗車している。
 まるで生きているかのようだが、その身体には生気がなく、確実に死んでいる。
 瞳には光が宿っているが、ゾンビのように焦点が合っていない。
 列車には生きており、かつ死んでいるような死体が乗車しているのである。

 大場ななは「皆殺しのレヴュー」の最後で
「(みんな、)もう死んでるよ」と言ったが、それはこのことを言っていた。
 自分の人生を生きず、自分の人生をまるで観客であるかのように観ているだけの人生など、
それは生きながらにして死んでいるのと同じだ。
 それはつまり「舞台少女としての死」に他ならない。

 序盤、彼女らはそれぞれの進路を先生に向かって堂々と述べていた。
 一見立派だが、それは本当にほんとうの真実だろうか。

 たとえば星見純那は「今は天堂真矢たちには敵わないが、それも今だけ。いずれは…」と口では言うが、
日本随一の劇団で場数を踏んでいくであろう天堂真矢に、
大学の座学で役者として追いつけるはずがない。
 しかし、それを最も理解しているのは星見純那本人である。*2
 これは自己欺瞞と言って良いだろう。

 星見純那以外も、大小あれ、そういう自己欺瞞や屈託を抱えたままに進路を決めようとしており、
 それは「自分の生きる場所を自分自身で見出し、かつ生きる存在である舞台少女」としての命を
自ら絶つものだったのだ。

 大場ななはそれが許せず、それならばいっそ自分で全員の舞台少女としての命を刈り取ってしまおうと、
ひとり「皆殺しのレヴュー」を始めるのである。

8.自己欺瞞の清算場所としてのワイルドスクリーンバロック

 「ワイルドスクリーンバロック」とは、
この自己欺瞞を精算するために用意された舞台であった。

 秩序立った学園内の舞台で「上掛けを落とされたら負け」というルールに基づき、
1位を決めるというかつてのオーディションは、今や完全に「終わっている」。

 それは、冒頭シーンで、大量の銀色のポジションゼロ*3が吹き出すシーンが示しているだろう。
 大量のポジションゼロのオブジェは東京タワーや星摘みの塔の残骸と渾然一体となり、
どれが本当の舞台であり、どれが本当のポジションゼロなのか、わからなくなってしまった。

「ワイルドスクリーンバロック」により、「舞台」は野性の酷薄さを帯びた。
 学園を出れば「学園で1位になる=ポジションゼロ(主役)」のような価値観は、全て崩れる。
 演劇をしている場所・時間だけではなく、
すべての場所・時間は自分の舞台となり、その中で自分のポジションゼロを見いださなければ、
彼女たちは、自分の人生であっても「自分の人生の観客に堕する=舞台少女として死ぬ」ことになるのである。

 ここからの「ワイルドスクリーンバロック」では、
彼女たちの勝敗は、上掛けを落とされるだけでは終わらない。
 なぜなら、このレヴューは自分だけの舞台、自分だけのポジションゼロを見つけるための場所だからだ。

 たとえば石動双葉は、いつか帰る場所としてのバイクを花柳香子に預けることが、
自分のポジションゼロであると気付いた。だからバイクのキーがポジションゼロの形をしている。

 たとえば大場ななと星見純那は、お互いへの甘やかな幻想を捨て、T字路で別れた。
 二人にとっては、印画紙に定着したような静止したイメージを捨て、
お互いの動的な人格を認め合った場所が、ポジションゼロであると気付いただろう。

9.真矢とクロディーヌの持つヒヨコ

 ここでやっと、天堂真矢と西條クロディーヌの話ができるかもしれない。

 天堂真矢は「皆殺しのレヴュー」で既に「ワイルドスクリーンバロック」の論理を心得ていた。
 つまり、学園を卒業したあとは、学園の論理は通用しない。
 あらゆる瞬間が自分の舞台であり、そこでの振る舞いを試される。
 その中で、自分の振る舞いを自分から選び取っていかなければ、
舞台人としては終わってしまうだろうと。

 しかし、天堂真矢は異常な決心をしていた。
 つまり自分自身を「空っぽ」にすることで、あらゆる舞台と役に対応できる自分になるはずだ……と。

 西條クロディーヌはそれが気に食わなかった。
 世界の広さを気付かせ、自分が食い下がり、競ったはずの相手が、
まるで演劇ロボットのような存在だったなんて、そんなことは認められない。

 レヴューシーンの直前、真矢とクロディーヌは楽屋で「アニマル将棋」を指している。
 真矢はクロディーヌの持つ、ヒヨコのコマのかわいさを思うあまり、クロディーヌに完敗する。
 舞台の外での真矢は、そういうクロディーヌへの率直な愛慕さえ見せるのだ。
 ここにおいては、ヒヨコはクロディーヌのパーソナリティや感情そのものを表しているといえる。*4

 しかし舞台での真矢は、感情をむき出しにする自分を「なんて醜い姿」と恥じる。
 なぜなら、そういう感情は自分の「空っぽ」には不要のものであり、
完璧な演劇人という理想像に傷をつけるものだからだ。

 かつてのオーディションで真矢が作り出した舞台装置「鳥バード2018」には、
その頂上に金色で丸みを帯びた鳥が輝いていたはずだった。
 しかし、今の真矢が作り出した舞台装置には、
鋼線で逆さに宙吊りにされた、がらんどうのブリキの鳥しかいない。

 真矢とクロディーヌのレヴューは、
自身の感情を「醜い」と断ずる真矢と、
真矢の隠したがる感情を「美しい・かわいい」と信じるクロディーヌの戦いとなる。

 ゲーテの『ファウスト』を下敷きにレヴューは進む。
 クロディーヌ演じる悪魔は「鳥バード2018」の金色の鳥、
つまり「アニマル将棋」で、真矢によって非合理にも死守されたクロディーヌのヒヨコのような、
真矢の自己愛そのものを盗んでみせると約束し、真矢と賭けをする。*5

 最終的に、クロディーヌの姿を額縁越しに鏡合わせのように眺めた真矢が
「クロディーヌ、お前は美しい」と、『ファウスト』の有名なセリフになぞらえて
クロディーヌと自分自身の感情そのものを認めるセリフを吐き、観念することでレヴューの幕は降りる。
 炎の中で鈍色のブリキの鳥が溶け、まるで涙を浮かべているようなカットは、
次のカットの真矢の涙につながっていく。*6

 真矢はクロディーヌに「私だけがあんたをむき出しにする!」ことを認めた。
 契約書にはポジションゼロの形の焼印が押され、そして賭けは清算される。

 さて、二人はそのあとどうなったのか。
 実は、エンディング映像に答えがある。

 真矢が殺そうとして殺せなかった、天堂真矢自身の感情は、
エンディング映像でフランスにいるクロディーヌの部屋の窓辺に、
黄色くてかわいらしい、ヒヨコの形をして座っている。

 西條クロディーヌは確かに賭けに勝ったのである。*7

10.トマトとはなんだったのか

 さて、このセクションでは、ラストに向けて、トマトとはなんだったのかを考えよう。

 本編では、トマトはいろいろなシーンに登場する。
 まず、本作はトマトが潰されるカットがファーストカットにあたる。
 また「皆殺しのレヴュー」で並走する車両から浴びせかけられ、香子が「甘い」と言った血のような液体も、
おそらくトマトジュースだったのであろう。
 更に、ラストで「アタシ再生産」される前の華恋の死体に、子供の華恋が手渡すのもトマトだ。

 つまりトマトは「舞台少女の死」が関係する場所で登場しているように見える。
 そして舞台少女の死とは、上で述べてきたように、
必ず次の駅へ向かう列車にぼんやりと乗り続け、
自分の人生をあたかも観客のように、
当事者性を欠いたかたちで眺めるような自分になってしまうことである。

 たとえば幼少期のひかりは「スタァライト」を見た際、終盤で本人が語るように
「スタァのキラめきに届きそうになくて怖かった」と思った瞬間、
役者ではなく、観客席へと退くことを選んでしまった。

 つまりひかりは、あの時に一度、舞台少女としての死を経験している。
 ここで潰れたトマトが、イギリスから「ワイルドスクリーンバロック」に参戦する
ひかりが通る駅に描かれていた、剣で潰されたトマトだったのかもしれない。*8

 また、華恋がひかりと対面するシーンでは、
運命の舞台が終わり自分が空っぽになってしまう予感から、
華恋が画面のこちら側を向き、「観客」の存在を感じるシーンがある。

 これは、映画を観ている我々を華恋が感覚するのと同時に、
舞台少女としての華恋と「舞台少女として死に、観客へと戻った自分自身」とが、
実は薄皮一枚でしか隔てられていないことを感じるシーンでもある。

 この直前に、大きな布が引き上げられるカットがあるが、
舞台と客席とを隔てる緞帳のメタファーであろう。
 運命の舞台を終わらせることへの恐怖から、
華恋もやはりここで一度舞台少女として死ぬことになるが、
やはりここでもトマトは中身を撒き散らして潰れるのである。

 だが、疑問は残る。
 では、もしトマトが「舞台少女としての命」だったのとしたら、
キリンが残したトマトはなんだったのだろうか。
 TV版で悪役だったキリンは、中盤に野菜の塊に変わったあと
「私にもあったのですね、舞台に火を灯すという役が…」と言い、
トマトだけを残して燃え落ちる。
 ここでキリンが残したトマトは、東京タワーのシーンでひかりに丸かじりされているものだ。

11.舞台のキラめきへの憧れ

 これらの描写を整理すると、
トマトとは「(観客・舞台少女共通の)舞台に立つことへの憧れ」
もしくは「舞台のキラめきへの憧れ」だったのではないか。

 だから「舞台少女の死」においては、
舞台に立つことへの憧れが諦めによって絶たれるとき、トマトは潰れる。
 そして観客からすれば、キラキラしている舞台は我々をどうしても引きつけるし、
ただ自分が望んだとしても舞台には上がれないからこそ、舞台は輝いている。

 こう考えるとキリンももしかしたら、
死んだ舞台少女たちの集合的無意識のような存在だったのかもしれない。

 では舞台少女とは、観客の憧れを食らうヴァンパイアのような存在なのだろうか、といえば、それは違う。
 舞台少女はそれらを選別することなく、何もかもを燃やし尽くす存在だからだ。

 ラストで華恋が舞台少女として死んだあと「アタシ再生産」によって生まれ変わるとき、
電車にはいろいろなものが映し出される。
 かつての華恋自身、家族と一緒に暮らす幸せ、友達との年相応の学生生活…。
 そういうものを全部一緒くたにして、自分自身とともにためらいなく火にくべる、それが舞台少女なのだ。

 TV版では華恋が自分自身をくべていた溶鉱炉、その温度は1500℃*9である一方、
ロケットエンジンの燃焼温度は3000℃に達する。
 前に進むためのロケットエンジンの業火は、ひかりと華恋をお互いの人生に縛った手紙を消し炭にする。

 あらゆるものを灰にして、その中から新しい生を、新しい舞台に見出すのが舞台少女である。
 舞台少女はその多忙さから、普通の人生を捨てている。
 彼女らは普通の人生を形作る様々なものを、すべて燃やして糧にすることで芸能活動に邁進する。
また彼女らは、我々の舞台のキラめきへの憧れを受ける(トマトをかじる)ことで、
あのように舞台で輝いているともいえるのだ。*10

 舞台少女はいつも飢え、乾き、自分自身の生活と観客の憧れという
みずみずしい心臓のようなトマトを貪り食いながら、しかし燦然と輝いている。
 それは一見、非常に野性的な酷薄さと危険に満ちているけれども、
それでも舞台少女や我々観客は、舞台のキラめきに憧れずにはいられないのである。

12.「ここが舞台だ」。そして、

 学園の外では、すべてが舞台の上である。
 そこでは役者と観客の境目は非常に曖昧であり、油断すればすぐにでも舞台から引きずり降ろされるだろう。

 学園の外に向かう前に、自分だけの舞台と確固たるポジションゼロを見出すための場、舞台が
「ワイルドスクリーンバロック」であり、
そしてそれが、彼女たちの「オーディション」と「聖翔音楽学園」からの卒業だった。
 本編は、それらの象徴である上掛けを9人が空に向かって手放すカットで終わる。

 本作は型破りにも、レヴュー世界から現実世界に戻ることなく、エンディング映像に入っていく。
 脚本が出来ていない状態の第101回聖翔祭がどうなったかについても触れられない。

 しかし、僕らが心配することはないだろう。

 彼女たちはもう、自分たちがもう舞台の上に立っていることを知っているし、
その舞台のポジションゼロが、すなわち自分の人生の基準点がどこにあるのかについても知っているはずだ。

 なぜなら、彼女たちは生きる場所を自ら決め、そこに絶えず自分の舞台を見出すさせることで、
日々を生まれ変わり続けることができる「舞台少女」として生きることを、
彼女たち自身の意志で選び取ったのだから。

 天堂真矢と西條クロディーヌのレヴューの直前、
舞台少女として朽ちていく自分を拒否したいと言って勝負を挑むクロディーヌに、
真矢は「舞台へようこそ」と言った。

 あんなに危険なのに、眩しいほどにキラめくから、舞台は舞台少女を誘う。
 舞台は彼女たちを殺すかもしれない。
 しかし舞台は、舞台にあがろうとするものを、いつでも歓迎している。

 「ここが舞台だ」。そして「舞台へようこそ」。

13.本作のパンフレットは超重要である(パンフのネタバレをします)

 最後に、パンフレットに書かれた、本編に関わる非常に大事な部分について話して終わりとなる。

 パンフレットには、本編のカットが全く使われていないのだが、
しかし本編ラスト~エンディング映像のあいだにしか
発生しないはずの出来事
が、さりげなく書かれていることに気付いただろうか。

 本作では、脚本担当の雨宮詩音が最終章を書けず、決起集会でみんなに詫びるシーンが存在する。
 彼女も、それまでの自分を廃して新たな自分になるという「ワイルドスクリーンバロック」に
苦しんでいたひとりでもあるわけだが、彼女が書いていた脚本は未完だった。

 第101回聖翔祭で彼女たちの聖翔祭は終わるが、
彼女があのとき書きながらも完結させることができなかった部分も、やはり脚本の101ページ目である。
 実のところ本作とは「101」の終わりにどんなセリフを書けば良いのかに悩む話だったわけだ。

 パンフレットには、各キャラ分の脚本の100~101ページ目の写真が掲載されており、
そこには各キャラがフローラを演じた場合の書き込みがされているのだが、
最後のフローラのセリフは、それぞれによってペンで新しいセリフが書き込みされている。

 そのセリフの内容は「ワイルドスクリーンバロック」を経てからでないと
それぞれ書くことができない内容は含まれているセリフ
であるため、
おそらくレヴュー世界から帰還したそれぞれが、自分ならこのように終わらせるという体で、
セリフを書き換えたという設定であろう。
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 第99回ではクロディーヌが、第100回では華恋が演じたヒロイン フローラだが、
第101回では誰が演じたのか、それが明かされることはこれからもないはずだ。
 しかし誰が演じたとしても不思議ではない。

 パンフレットに掲載された台本の書き込みは、
キャラクターそれぞれが僕ら観客に向けて書いてくれた、最後の手紙であり、
そして明らかに「本編の一部」である。

 パンフレットに「本編の一部」が掲載されているというのは、
一般的には禁じ手かもしれない。
 でも、ぜひ彼女らからのメッセージを受け取って欲しいと思う。
 ぜひ買ってください…。

 本日は以上です。

*1:東京タワーが大きなパンアップで映るのは2度あるが、どちらのカットでも、東京タワーの上には「星摘みの塔」の赤い二つ星が輝いている。その二つ星がその2カットのあいだで動いているように見えることにも意味があるように見えるが、それは一旦ここでは触れない。冒頭シーンでも「星摘みの塔」の上に、赤いあやとりの紐で作られた東京タワーが引っかかっており、同一化されている。

*2:そして2番めに理解しているのは大場ななである

*3:ステンレス板が溶接された部分だけ少しだけサビている描写が細かい

*4:寮のクロディーヌの洗濯機の上には、ヒヨコのオブジェが乗っていることを思い出そう。

*5:なお、レヴュー中の「あんた、今までで一番かわいいわ!」「私はいつだってかわいい!」は、本作で最高にアガる応酬である。

*6:このカットワークは、真矢の感情が戻ったことを示唆しているように見える。

*7:僕は毎回ここで泣いている。

*8:ひかりにとって、自分はスタァに届かないのではないか、という尽きせぬ恐怖こそがひかりの武器である短剣であり、それはダモクレスの剣(王は頭上にいつも糸で吊った剣を垂らされているような危険を伴うという故事)のように、いつでも落ちてきて自分を殺すであろうということを示しているのかもしれない。(ひかりの短剣は冒頭シーンで、ひかりの頭の上で揺れている。)

*9:鉄の場合、その融点

*10:ラストにトマトはひかりから華恋に手渡されたトマトについて、古川監督はパンフレットで「観客から渡されたものでもある」と述べているのだけど、それはこういうことだろう。