俺、やっぱ夢諦めらんねぇよ。

VTuberを引退して約1年半が経ちました。

それで何をしてるかというと、前名義でバーチャル一般人を名乗り、たまに配信をする日々。

これはただ配信が日常だったからそれを取り戻そうとしてるのか、昔のように配信で上にあがりたいのか。

多分恐らく、恐らくだけど心の底では後者なのだろう。

もう年齢も23。なんとか一個下の世代より早く就職することが出来たがやはり自分は心のどこかで夢を見続けているんだと思う。

 

大事な人に言われた。

「芸能や人気商売の世界は、本当にひと握りの人しか成功しない」「そんなリスキーな生き方はやめて欲しい」と。

でも今までの4年間、わたしはそんなリスキーな生き方で満足していた。というより、それが望むべき姿だった。何者かになりたいという熱意、それを行動に移せる、それが生きる意味になっていた。

今は現実を考える大事な時期だし、今すぐに復帰とか、転生とか、そういうことは考えてない。

ただ、現実を堅実に歩めるようになったら、自分の体が現実に馴染んだら、またそういう夢の世界になんとかして戻りたい、と強く思うのだ。

 

承認欲求の塊だと自負している。配信というものでそれを満たしていた。一時的に満たしきって、界隈を引退したはいいが、満たされたものは徐々にすり減っていく。

辛い現実の、そんな日常の中で心に溜まった満たされていたはずの欲求はどんどん無くなっていく。

なぜならわたしの心の瓶は、ひび割れているからだ。

幸せ、愛、色んな欲望。どれをとってもわたしは満たされてもすぐに足りなくなる。人生ずっとそれの繰り返しだ。

お金や人からの承認や数字、愛でそれぞれカテゴリ分けされた瓶を埋めてはひびからすり抜けていく。

また足りなくなる、また空っぽになる。だからまた満たしたくなる。それが23年続いていく。

年々そのひびは、埋まっているカテゴリもあればさらに壊れていくカテゴリもあって。

愛の満たし方は、恋人がいることもあり満たされやすくなった。以前よりも虚空感はなくなった。

ただ問題なのは、数字や承認に関するひびがどんどん深まっているような気がするのだ。

 

わたしは、いつになったら自分で自分を満たせるようになるのだろうか。

わたしは、いつになったら自分の人生を生きられるのか。

ずっとずっと"わたし"以外の人格を作り、それで人気をある程度獲得して、虚しくなる。

周りが望んでいるのは、"わたし"ではなく、作り上げた人格なのだと。

わたしが作った人格なのだから、わたし自身と言ったっていいと思う。けど、けど何かが違うのだ。

人格を作りあげ、だんだん乖離する。それか、人格にわたしが近付いていって理想からかけ離れていくからその人格を壊す。

その繰り返し。

 

虚しいね、わたしは何を求めているんだろうと常々思っています。

 

いつかそんなわたしが、わたしを救えるような日をずっと願って今日も生きていきます

人とのコミュニケーションが辞められない病気

古からこれをこじらせている。

 

1番最初は10歳の頃、3DSをWiFiに繋ぎうごメモを始めその後チャットサイトに入り浸る日々が始まった。

空き時間はチャットサイトの常連部屋に行き、大体そこには誰かがいるので今日は何があっただとか昨日のアニメを見たかとかそんな感じの日常会話をしたりしてた。

いわゆるイツメンオリキャラ創作もやってたし、オリキャラなりチャもしてた。苦しい……

 

いつも使ってたチャットサイトの閉鎖を受けて、仲いい人たちと一緒にTwitterに移動した。Twitterでは人、人人々、無限の人がいた。

そのうち既存の仲いい人たちだけじゃなくて、新しく人脈も作って学校に行ってない時はずーっとTwitterをしていた。ツイ廃。

 

あとは中学生頃からツイキャスを初めて、今はなき誰コラで人脈をどんどん増やし声でのコミュニケーションにもどっぷりハマっていった。

Skypeでフォロワーと夜遅くまで通話をし、ゲームをし、次の日の学校をサボるなどした。

 

齢23になった今でも、精神の調子が悪いと通話を求めるモンスターになる。安定している時は文字の放流(つまりツイート)だけでコミュニケーション欲求が落ち着くのだが……

誰かとの通話をしたいしたいしたい‼️となっている時は大抵ほかの日常生活にやる気が起きず、結構苦痛な日々であることが多い。

 

良く考えなくても、わたしの中での日常の配信もコミュニケーションお化けが暴れているに違いない。

なるべく多くの人と喋りたい、みたいな気持ちがあるから単体:複数のコミュニケーションができる配信が好きなのだろうか。

昔から配信するモチベはチヤホヤされたい!構われたい!とかではなかった。ここ、超てんちゃんとの違いね。

なんかとにかく脳内でぐるぐる回る思考をアウトプットしたかっただけなのだ。

独り言は、1人の時にとても多くなる。実家暮らしゆえに基本は周りに家族がいるため会話をしているが、自分の部屋やパソコンの前に座った途端に死ぬほど1人で喋っている。

パソコンの前に座ってる時はだいたい配信してるか通話してるかどちらかなので、アレですが……

 

あとはお風呂での独り言が激しい。なぜなら、お風呂は自分から発する音しか聞こえなくなるからだ。

基本的に静寂、聞こえるとしてシャワーの水音。

それら全てを自分が発している。苦痛だ。

しかも大抵のお風呂の壁というのは白い。

白い部屋はなにか拷問かなんかに使われてたんじゃないっけ?

なんだか白く明るくて、静かで、他者からの干渉がなくて、自分だけの空間なのが辛い。

無理やり自分に向き合わされてる気分になる。

それが原因で思考が加速したりバイアスが掛かったり単純に病んだりもします。なのでお風呂は嫌いです。

実家にいる時は独り言を言いながら50分シャワーを浴びるか、ただ無言で何も考えないようにしながら20分であがるかどちらか。

彼氏の家にいる時は一緒に入ってれば喋ることができるし、自分だけの環境にならないからそこまで苦痛じゃないんだけどなあ。

 

とにかく、喋る、交流する、というのは他人以上にわたしにとって必要なことである。

ただ、そのせいで自己開示を無駄にしてしまったり他人にそれを強いてしまったり、デメリットも多い。

他人に素直に感情を伝えられるが故に、色んな人を巻き込んでしまったこともある。(それはお前らも悪いだろ)

 

人とのコミュニケーションは人生において大事だが、必要以上に摂取しないと落ち着けない今の自分はおそらく安定していないのだろう。

何事も適度であることが大事だし、それを守れるようになったなら、きっとそれが成長なのだろう。

ない、愛

求めてる愛はきっとこの世には無いのだろう。

 

どんな愛を求めてるか?

いつも温かく見守ってくれて、応援してくれて、背中を押してくれて、大事にしてくれて、守ってくれる、優しい存在。そんなもの。

そんなもの、どこにもない事にこの年齢になって薄々勘づいてきている。

 

現実を共にしようとすればする度、夢は夢になっていく。目指していた夢は、夢物語になっていく。

何より、自分には才能も努力もない。何もないただ何者かに憧れるハリボテである。

努力すら出来ない自分に、本来なら夢を見る余裕すらないはずだ。

 

自分が、努力だと思ってなかったことが努力であったらしい。それが、中途半端な成功体験を産んだ。

何より誇らしかったし、もっともっと世界にわたしを見て欲しかった。愛しかった、あの存在が、世界が、時間が、失った今更に輝いて見える。

上を目指しすぎた、現状に満足し無さすぎた、上を目指すことは一概にいいことだけではないことを知った。

ずっと抱いていた、何者かになりたいという夢。もうきっと、二度と叶わない。それこそ、悪魔と取引でもしなければ見ることすら出来ないのだろう。

愛しかった、大事だった、大切だった、いじらしく可愛かった。

それは、手放されるべき時に手放されたと思う。

 

仮初の愛に溺れて、本来の愛はそんなに生ぬるいものでは無いことに気がついた。

あの時向けられていた愛は、間違いなくただ搾取し消費してくる人間たちの感情だった。

それに生かされていたのだ、文句はない。あるが、言う筋合いもない。

 

本来の愛はもっと厳しく、本質をついてくる。そう信じることしか出来ない。

わたしが信じている本来の愛がもし愛じゃないなら、その時は本当にこの人生を、人格ではなくわたし本人の人生を放り投げていいと思う。

理想の愛も、欲しい愛もこの世にはなくて、一生満たされないままだけど。

 

だからこそいま、許容できる愛を出来るだけ多く、損なわず、享受していたいだけなのだ。

愛されている自覚

自慢じゃないが、いや、やっぱり自慢かも。

私は人並み以上に愛されていると感じている。

 

家庭環境は悪くないし、友人もそこそこいる。なにより、特別にしてくれるパートナーがいる。

あまり自分を下に見られたみたいな、軽く見られたみたいな経験はどうでもいい同級生や男からだけで自意識だけだったらそこまで傷ついてないと思う。

 

さて、周りにボケ男に引っかかって可哀想な女の子がそこそこいる中でそれを反面教師にし、また彼女たちにわたしから言えること。それはただ一つで

自分を愛してあげて、受け入れてあげて欲しいこと。

人間だから自分の嫌なところが目に付くと思う、愛されなかったから愛し方が分からないとかもあると思う。

でも大事にされるためには自分を大事にすることが必要不可欠である。

なぜなら、そういうボケ男たちは分かるのだ。自分を大事にできない女の子のことを。

それを見越して利用してこようとする。

そのため、跳ね除けるためにも女の子は自分を大事にしてあげて欲しい。

 

でもそんなボケ男が好きなんです!!という一途でいじらしい女の子もいるだろう。

それでも尚自分を大事にするべきだ。

自分からの、自分への扱いが変われば周りに与える印象も変わってくる。

自分を大事にしている人間というのは、他人から雑に扱われることを良しとしない。そういう扱いを受けた途端冷めるし好感度も下がる。

だから、ボケ男が好き!離れたくない!という子は自分を1回大事にしてみて欲しい。それで、ボケ男が治ることもあるし、はたまた雑に扱われ続けて冷めるかのどちらかだと思う。

 

当事者として女性目線で書いているが、これは男性も概ね変わらないと思う。

自分のことも幸せに出来ない奴が、誰かを幸せになんてできないし、誰かから救ってもらえることもない。厳しいことだがそれが現実だとわたしは思う。

 

これに気がつくのがもう少し早ければ多分自分ももう少し生きやすかったのかもしれないなぁと、少しの後悔を抱えながら、今の幸せを壊さないように、大事に大切に育んでいきたいと思う。

音楽は救いである

スマートフォンを持つ前から、3DSでニコニコ動画やレコチョクで暇さえあればずっと音楽を聴いていた。

誰かの歌声を聞いてないと気が狂うからだ。

大人になった今でも変わらなくて、1人で外に出る時は必ずイヤホンをして音楽を聴いている。

 

昔も今も、外の音が怖い。誰かの話し声、足音、車の音、風の音すらも怖い。イヤホン無しでは耐えられないほどの苦痛。

そんなわたしを救ってくれている音楽には本当に感謝しかない。

いつから音楽に逃げるようになったんだろう。

メロディや歌詞、楽器に耳を傾ければ無駄な事を考えなくて済む。被害妄想が膨らむこともない。安寧の時間だ。

今も眠れなくて、音楽に逃げている。今は、トゲナシトゲアリの楽曲を聞いている。

 

https://music.apple.com/jp/album/%E5%BF%83%E8%B1%A1%E7%9A%84%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%AB-beni-shouga/1742492269?i=1742492274

昔から聞いていた打ち込み音楽。なんとなく棒読み気味な歌声。大好きなVOCALOID音楽を彷彿とさせる。トゲトゲがあげている楽曲の中でこれが一番好きだ。ほかのロックな曲も好きだけど、こういう曲が私は好きだ。

なんとなく鬱々としている歌詞をポップなメロディやぽわぽわした音楽で誤魔化しているような曲が好きだ。

 

でもそれ以外にも、直接的に生きづらさや苦しみを吐き出している楽曲も大好きだ。

https://music.apple.com/jp/album/%E3%81%AF%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%99/1387395479?i=1387396221

mao sasagawaの曲は基本的に全部好きだが、この世界を見下しているのに圧倒的に羨んでいるような歌詞が、好きだ。

言葉もどうしようもなく好きなので、音楽は歌詞で聞きがちだ。

この曲の「誰かよりもちょっと 幸せになりたいの」という歌詞が大好きだ。

わたしの気持ちを代弁してくれているような、そんな気持ちになる。

ちょっとでよかった、ちょっとで満足できるはずなのにそこにすら手が届かない。そんな苦痛をはきだしている。初音ミクの苦しそうな歌わせ方も大好きだ。

 

愛しい音楽たち、辛い時に心に寄り添ってくれる音楽たち。言語化できない気持ちを代わりに歌ってくれる歌姫。大好きだ。

 

あと辛い時によく聞く曲がある。

https://music.apple.com/jp/album/shout-out/1552868646?i=1552868647

世界で一番好きなユニット、8/pLanet!!の楽曲。

これはコロナ禍の最中に発表された久々の新曲で、狂喜乱舞したことを覚えている。

「僕らいつもここでずっと 叫び声を上げて」

彼女たちの歌う叫び声と自分の叫び声は違うものだと思うが、どうしても愛おしくいじらしい。

彼女達の全員曲は、どこか自分たちを無理やり鼓舞しているような印象を受ける(これは穿った見方だと思う)

そんな隠れた苦しみと、そんな中でも前を向いて進んでいくという強い意志が、自分には眩しすぎるぐらいだ。

 

なんだかただ好きな曲を紹介するだけのブログになってしまった……別にいいんだけど。

 

愛してるよ、音楽。離れていっても文句は言わないし、寄り添って欲しい時は寄り添ってくれる。

都合よく消費しているだけという自覚はある。ただそれでも、これから先ずっと音楽から離れることは出来ないんだろうな。と思う。

 

叶うなら、音楽と一蓮托生でずっと生きていきたい。

自分は誇張なく不要な人間である

強いタイトルを付けてしまったが、これが素直な今の気持ちだ。

 

双極性障害で境界知能。発達の病名は必要としてないので確定していないがWAISではお前ほぼ黒wと言われている人間という生物の中での劣等種。

 

今回は別に働けなくて社会に貢献出来ないから苦しい、とか周りの人間の理解がなくて苦しい、とかではなく単純な事実としてそう解釈しただけだ。

 

精神疾患←アウト。手帳持ち

境界知能←認識が少ないし余計にアウト。ちなみにわたしはIQがあと4低ければ知的障害者です。

発達←バリ、ギリ、ムリとかあるけどどれにしてもアウト寄り

みたいなそういう話。

自助会などで前向きに生きていきましょう!みたいな会話が行われているらしいが、冷静にそんなこと無理じゃね?という意見だ。

これを健常者が発言していたら差別的なのだろうが、当事者が発言する分にはあまり問題がないように感じたため、つらつら書き連ねている。

 

高校生の頃から心療内科に通い、若年性鬱→気分変調症→双極性障害の診断がつき、自立支援を手に入れ障害者手帳を手に入れ……

手帳を手に入れる前に主治医からWAIS受けてきな〜と言われ受けてきたが、その内容は実にシンプルで難解なものだった……

見本の形に直すパズル、言われた数字を言われた順に逆に答えていくもの、ひとつの単語を別の言葉を使って説明するもの、簡単な計算問題……他にもいろいろ。

これだけ見たらそんなに難しくないと感じるだろう。実際、自分だってこの検査がこんなに難解であると予想していなかった。

出される教材?テストに使用したものもデザインがシンプルでわかりやすく、小学校の教材のようだった。

ただ、これがこんなにも出来ないものなのか……!とびっくりしたし後日帰ってきた結果にはかなりボロくそ言われていた。

 

精神疾患になった理由、まだわかる。昔からの希死念慮に自責的思考に無駄な完璧主義。周りには無限に考えすぎだと言われていたがそれも何かを加速させていたのだろう。

ただわたしは、こんな簡単な問題(つまりWAIS)がこんなにも解けないのか……?と検査中はもうめちゃめちゃに不安だった。

結果ではあなたは健常者と知的障害者の中間の境界知能です!という結果とそれぞれの区分のテスト結果。

あとは検査を受けている時の行動や様子からの所見があった。

あれを見た時はかなりほっとしたものだ。

今までの生きづらさには理由があった、名前があった。だから自分は上手くいかなかったのだと安心できた。これが世間的に良いか悪いかは置いておいて、自分としてはとてもほっとしたのを覚えている。

 

境界知能ですよ、という事実の次にはADHDの可能性が高いですね、という文面も添えられていた。

ADHDの診断を取るのは大変だとインターネットで見たことがある。それは事実だと思うし、双極性障害という結果と境界知能という原因が分かったからとりあえずそこは放っておいていいかな……と思い、診断を貰っていない。

障害年金をガチで取りに行こうとしたら、診断済みの2つでもかなり不安要素が残るので発達障害も診断されに行くかぁ……ぐらいの温度感。

 

これを踏まえて、人間という生き物として、種として間違いなく劣等種である自分。やっぱ世界にいらなくね?になってきた。

本当に別にネガティブになったとか病んでるとかではなくて、事実としてそうなのではないか?という……

ただ親しい人に「よく考えたんだけど自分ってやっぱり世界から見て不要だと思うんだよね〜」など言えるわけもないので、こうして見にこないと見れないような、鍵はついてないけど机の引き出しにしまい込んでいる日記帳みたいな、そういう場所で書き出している。

 

健常者には健常者の生きづらさがある、それはもちろん承知の上。

でもやはりどこかでこう思ってしまう。

自分もそうだったら良かったのに、と。劣等種であるが故に羨望を向けてしまうのである。同じ生き物ではずの、ただの人間に。

可愛いに対する執着

本当の幼少期、例えば幼稚園〜小学校低学年ぐらいのとき。自分は可愛いに抵抗があった。

可愛いってがらじゃないし、お顔も可愛くない。周りはピンクや水色を欲しがったし身につけていた。けど自分にはその勇気がなくて、ランドセルは最初はピンクを選んだけど親におっきくなってもピンクでいいの?と聞かれキャメルに変更した。

今考えれば12歳でも十分ガキなんだし、気にせずピンクにしたら良かったのにな。とも思うが実際小学校高学年になっても可愛いアレルギーがはれなかったことを考えると正解だったんだろう。

 

ピンク、水色、リボン、フリル、そういう物から極端に距離を取っていた幼少期だったと思う。

今考えたら着ておけばよかった!というメゾピアノやLovetoxic、幼少期はまるで興味がなかったらしい。

母親には昔はそういうのいや!ってあんたが言ったんだよ。と言われた。まあ言ってたんだけどさ……

 

まずは何故、幼少期のわたしが"可愛い"を拒否していたのか理由を書こう。といっても特段深いものではない。

シンプルにただ、子供っぽいなと見下していたのである。

兄弟もいとこもいない、わたしの家庭親戚関係は完全にわたし以外大人で構成されていた。そのため、ずっと心の中で大人であること、大人らしくあることを意識してきた。歳をとった今ではそんな振る舞いは本当に望まれてなかったことを感じてしまって空回りだなあと思う。

そんな中で大人になろうなろうと永遠に背伸びをしてきた結果、可愛いとか子供らしいとか、そういう属性がなんとなく嫌いになってしまった。

本当は好きだった。ふしぎ星のふたご姫、シュガシュガルーン、プリキュアシリーズ、そういうアニメが好きだった。

ツインテール、巻き髪、リボン、フリル、レース、姫袖、パフスリーブ、パニエ、派手な髪色、全部大好きなはずだった。

その気持ちに蓋をしてまで、どうしても大人でいたかった。そんなことしたってどうしようもなくただの子供だったのに。

 

そんな可愛いアレルギーを拗らせ続けて15歳の頃。地元のイオンモールにてとっても可愛いお洋服に出会う。

それは喪女御用達(笑)とされてしまっているaxes femmeのお洋服だった。

ストライプで胸元に大きいリボンがついたチュニック、ブラウンのレザーに花のレースのカバン。このふたつを特になんの日でもない時に一目惚れしてせがんで買ってもらった。

別に今みると好みでもなんでもないのだが(何故なら今はもっと淡い色でもっとガーリーなものが好きだから)当時の可愛いアレルギーをこじらせていたわたしには手を伸ばすのも恥ずかしいぐらいには可愛かったのだ。

 

そこからファッションの好みというかこだわりというか、そういうものが一気に加速したと思う。

今まで全く興味のなかったロリィタブランドのサイトを漁ったり、その当時少しずつ流行っていた量産型のお洋服を見たり、アフタヌーンティーや動物の写真や動画に興味を持つようになったり……

この頃だったかな。幼い頃に貰ったテディベアをクローゼットから引っ張り出して共に寝るようになったのは。

そこからはもうあっという間で、高校生になりバイトを初め、自分のお小遣いは服かソシャゲへと消えることになった。昼ごはん代を削るぐらいに。

ただロリィタは価格帯が上過ぎて手が届かないし、いわゆる量産型のブランドのLIZLISAやAnk Rougeも高校生には少し手を伸ばしにくく……行き着いた先はその当時は本当に安かった夢展望でぺらぺら服を着ていた。

母親の方針の元、そんな可愛い服を着ているのに高校時代は化粧を許されなかったのが何より悔しい。若いんだからお化粧なんて逆に肌に悪い!と言われ続け、ひっそり買ったBBクリームやアイシャドウは見つかった時に色気づいて男でもできた?なんて言われる始末。別に化粧しなくても男はできるんだが?

化粧品を揃えられるようになったのは高校を卒業してからだ。

と言っても自分で買った訳ではなく、当時の活動を応援してくれるリスナーさんにほしい物リスト経由で全て買ってもらった覚えがある……今でも残ってるものは大事に大事に使っている。

 

とまぁ今現在に至るまでのわたしの"可愛い"への気持ちや接し方の遍歴はこんな感じなんだが23歳になってこの趣味はさすがに少女趣味すぎる!!!と思い髪を切ると同時に服の系統を変えてみた。

サブカル地雷、ヴィジュアル系…みたいな。どっちにしろ尖ったファッションなことは否めず、苦しい。

 

なぜこの年齢になっても年相応に落ち着いた服が好みじゃないか、その理由はただひとつ。

幼い頃に我慢して我慢して蓋をして、抑圧してきた"可愛い"への気持ちが抑えつけなくても良くなったおかげで大暴走。という感じだ。

よくインターネットでは幼少期に我慢させられてきたものは大人になって死ぬほどのめり込むからあんまり我慢させない方がいい(意訳)みたいな話を聞くけど、それは本当にその通りだと思う。

GUやINGNI、ZARAなどで満足出来ない生活はそこそこ辛く、同年代の友達と遊ぶ時に自分ってめちゃめちゃ子供っぽいな……と思うし、価格帯も違うから金銭的にもきついし、全然私服をバイト先に着ていったら「この後デート?」とか言われてしまうし……

 

ただまあ、好きな服を好きなだけ着るって言うのは大人の特権なのかな〜とも思うし、あまり重く考えなくてもいいのかもしれない。

別に好きな服を着ていることで発生するデメリットなんて、好きなお洋服への愛やそれを着ている自分に対する自己肯定感でチャラになる。

 

発作のように大人しい服を着たい!!!!!!と騒ぐことはこれからもあるだろうが、少しとがったようなファッションが好きな自分ごと等身大で愛せたらいいな、と思うのだ。