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父なる音?

この記事はアドベントカレンダー企画「言語学な人々」2024の第1日の記事である。

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ふと思った。

分節音って母音と子音て呼ぶけど,どうして母と子なんだろう?

はじめは冗談のつもりでTwitterに書いて消費しようと思ったのだけど,戯れに念のため国デジ(現在は国立国会図書館デジタルコレクション)で「父音」を調べたら検索結果に千件以上出てきた。

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もちろん漢字二字なので関係ないのもわんさかありそうだけど,最初の結果が『大日本実業学会第1期商科講義 朝鮮語』という思い切り語学書で,ということは実在したの?となりさらに調べた。

すると,日本語の五十音を父音と母音で解説している『皇国小文典』(渡辺益軒,1874年)がヒットした。

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なるべく原文の感じを保ちつつ読みやすくするために適宜現代語に変える。

第3章母音父音及び子音の分かち

五十音中において「アイウエオ」の5字を,母音すなわち母字となし,「クスツヌフムユル于(wu)」の9字を,父音すなわち父字となし,残る36字を,子音すなわち子字となす。なぜなら,父母音合わせて,子音を形作るからである。そうして彼らに2点を加えることによって濁点をなし,丸を加えることによって半濁音をなす。濁音は「カ,サ,タ,ハ」の4行に止まり,半濁音はただハ行のみに止まる。例えば

清音 君(キミ) 太鼓(タイコ) 藩中(ハンチウ) 開化(カイクワ)

濁音 吟味(ギンミ) 大根(ダイコン) 番代(バンダイ) 頑愚(グワング) 等のごとし

半濁音 巴黎斯(パリス) 喞筒(ポンプ) 一篇(イチペン) 別品(ベッピン) 等のごとし

(後略)

つまり50音図にすると次のようになる(水色=母音,緑色=父音,赤色=子音)。

この分け方では母音は分かりやすく,カ行以降はウ段だけが父音になっている。仮名単位(=モーラ。かつては音節が一般的)をさらに細かく分ける習慣(文字)が一般的でないと考えると,現代の子音のことを父音と呼び,最も目立たないウ段でもって表し,父音と母音の組み合わせによってできるモーラが子音ということになる。すなわち「モ」の場合は次のようになるというわけだ。

子音(モ)=父音(ム)+母音(オ)

実際上のテキストの続きを見るとそのような説明がある。

ア行は音韻のもとにして,各字の母なり。ゆえに全ての子音が,父母音の和合によって発音す。すなわち次の如くなり。

クア カ|スア サ|ツア タ|ヌア ナ|フア ハ

クイ キ|スイ シ|ツイ チ|ヌイ ニ|フイ ヒ

(後略)

これ,「モ」などはいいが,「ト」では「ツ」+「オ」となってかなり変な感じがする。それでも当時,ちゃんと「子音」がそれなりに知覚され,文法書に記されていたのは意外ではあるし,水準の高さをうかがわせる。

さて,ここまで偉そうに書いてきたが,当然これは探せばちゃんと現代(?)の文献にも紹介されている。まずは日国。

ふ‐いん【父音】

〘 名詞 〙 =しいん(子音)
  [初出の実例]「英の Consonant を、子音、又は、父音(フイン)など訳するあるは、非なり」(出典:広日本文典別記(1897)〈大槻文彦〉一七)

なんと私の探したものの方が少し古かった(国デジあるある)。ただ父音の説明はこちらのほうが充実している。

また,『音声学大辞典』という日本音声学会が1976年に出した辞典(全963ページ!)があり,その「子音」の項には歴史的経緯が詳しく記されている。

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解説 言語音の二大分類の一つで母音に対立しており,さらに中間に半子音(または半母音)が介在することになる。浴革語源は英仏独とも,古ラテンの con- (together)+sonāre (to sound)であるから,「母音」(sonāre = vowel)に「共鳴」する音の意である。インドでは「摩多」(vowel),「体文」(consonant)であるが、前者は物を生み出す母,後者は働きに通ずる義である。シナでは「韻」がvowelに当り,「声」がconsonantに当り、両者を合せて「声韻学」がphoneticsとなる。日本では古くは、シナに倣って「音韻学」とか「声音学」などと言っていたのであるが、明治期に西洋流が輸入翻案せられて,vowelが「母」consonantが「父」または「子」で,漸次「母音」「子音」とされ,音声学協会時代には読み方も一定されて「ボイン」「シイン」となったのである。その記録によれば,

明治19年「母」「子」…英語発音秘訣,菊地武信
明治26年「母音」「父音」…音声論,林甕臣*1
明治35年「母音」「父音」…英語発音学,片山寛
明治35年「母音」「父音」…国語声音学,平野秀吉
明浴39年「母」「父音」…発音学講話,岡倉由三郎
であった。

批判 わが国だけが、他の諸国と変って「父」「母」「子」という人倫関係の語を当てたのは,全くそのような思索形式から成立していたことが,前掲の諸書,特に林の著でもえる。「父音とは子音を母音に孕まする原声なるがゆえに然いる」と。言うまでもなく,父と母の並存は夫婦であっても子ではなく,いつの間にか「父音」の称呼はすたれ,母音と子音のいわば「母子家庭」となり、これを改めて「熱音」(syllabary)と呼ぶことになって現在を迎えたのである。

というわけで,父なる音と母なる音を合わせて生まれる音だからモーラ(単位の音)を子音と呼んでいたのだ。

また,阿久津智さんの論文にも母音・子音・父音や音節のことがまとめられていて,これが一番詳しいと思う(岡田一祐さんに紹介いただきました。ありがとうございます)。

takushoku-u.repo.nii.ac.jpご著書の方は目次だけ見て項目がないなあとは思ったけど確認してないのでまたいずれ。

www.hituzi.co.jp

ところで『音声学大辞典』の引用には「いつの間にか…すたれ」たとあるが,それはいつなのだろうか。せっかくなのでNDL Ngram Viewerで確認しよう。

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図の緑が父音で,1912年頃にはほぼ出現しなくなっている。これは母音(赤)と相関的に動いていた(増減のパターンが一致する)のが,このあたりから完全に子音(青)の方が相関的になっていることからも裏付けられそうだ。

というわけで父なる音の歴史の一端を紹介した。ところで,『音声学大辞典』の最後に「熟音」と書かれていたのに気づいただろうか。これって「音節」のことだと思うのだけど,初めて聞いた。いったいどういうことだ…? 専門用語の旅はまだまだ続く(のか?)

*1:ハヤシミカオミと読むらしい