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久しぶりに『エヴァンゲリヲン新劇場版 破』と『エヴァンゲリオン新劇場版 終』を観た。2021年やっとエヴァの物語にエンドマークがついたことに安堵したことを覚えている。
初めて『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)に触れたのは小学生5年生か6年生のことだったと思う。25話の「終わる世界」からリアルタイムで観た。「終わる世界」と次の回の「世界の中心でアイを叫んだケモノ」は主人公碇シンジの内的世界で構成されている。ただでさえ『エヴァ』を観ることは初めてだというのに導入が「終わる世界」だったことは、とても不案内だった。『エヴァ』がどんな話かまったく分からないままTV版は終わってしまった。
VHSが発売されるようになると作品を揃えた。母は「お年玉をアニメなんかに使って……」と立腹していたけれど、当時は観る必要があると思った。TV版の続きである『DEATH (TRUE)2 / Air / まごころを、君に』(以下『旧劇場版』)はいたく心を動かした。今でも劇場版と言えば『旧劇場版』を意味している。『エヴァ』は全貌が明らかにならなかったゆえに、多くの謎解き本を生み出した。野火ノビタの『大人は判ってくれない』は私も購入した覚えがある。
ミドルティーンのころ『エヴァ』とともにあった。そのころから私はひどく疲れていた。シンジの消極的な態度もアスカの攻撃性、綾波の寡黙さも私にとっては身近なものだった。どれも私自身だった。10代半ば頃のほうが「死」や「生きる事」について真摯に考えていたように思う。『エヴァ』はその一役を買っていた。『エヴァ』を観ていた頃を思い出すことは苦痛だ。私は助けてくれと絶叫していた。残念ながら叫びは届かなかった。それからは騙し騙し生きてきた。諦めているようで、どこかで祈っていた。私の言葉が届きますようにと叫んでいた。碇シンジのように、惣流・アスカ・ラングレーのように、綾波レイのように。彼らが叫びながら命を燃やしていた。誰よりも私に寄りそっていた。慟哭は理解されることはなかったけれど、彼らは私だった。
エヴァンゲリオン新劇場版 終』を観終わった時、安堵に満ちた。物語にエンドマークがついたことに。そして庵野秀明が楽になっていたことに。私もいつか安らぎを得ることができるかもしれないという希望が生まれた。庵野さんも大人になったなあという感慨深かった。私もいつかミドルティーンの記憶にエンドマークをつけられるのだろうか。自信はないけれど、努力しなくてはいけないのだろう。