鷺沢文香『荒れ野に咲く花は』(第74期名人戦七番勝負第2局 佐藤天八段-羽生名人 二日目)

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第74期名人戦七番勝負第2局 二日目

先手:佐藤 天彦八段
後手:羽生 善治名人
封じ手41手目
 ▲4八銀

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 昨晩はもやもやと色々なことを考えているうちに夜が更けていた。
 ベッドに横になってからも、美嘉さんから教わった早囲いの手順について反芻したり、封じ手は何なのかを考えたりしていた。

   アイドルになってから、書物のこと以外について想いを馳せる時間は増えた。アイドルの仕事についてだけではなくて、人間関係とか、将棋のこととか。

 一時は書の世界に閉じこもっていたのが無為だったように思えて、過去の自分を恨めしく思ったこともあったが、今はあまりそういう感情はない。それ以上に、かつて書物から得た知識や知見が実世界と繋がる瞬間を実感することがあって、それが何より面白い。
 私という小舟が、不安定ながらも大海に向かって進みだしたということなのかもしれない。
 感情の海を航海するということは、時には嵐に呑まれもすることを意味するのだけれど。
 それはまた、その時に。

 事務所の扉を開くと、昨日美嘉さんが座っていたソファーに日野茜さんが座っていた。何やら腕組みをして悩ましげに唸っていたが、私に気づくとパッと明るい表情になった。
「文香ちゃん! おはようございます!!!」
「おはようございます……」
 いつもながら元気がいい。茜さんは体育会系のアウトドア派で、ある意味私とは対極の存在だ。アイドルにでもならなければ、生涯接点がなかったかもしれない。
 だからこそ、その結びつきがより大切に思えるのだろう。
「何やら悩んでいたようですが、どうかされたのですか?」
 封じ手について考えていたわけでもないだろうけど。
「はい! 実は後ほど未央ちゃんと藍子ちゃんを交えて、藍子ちゃん会議をする予定になっているのですけど……」
「はあ、藍子ちゃん会議……ですか」
 何だろうそれは。会議名ではよく分からない。
「つまり、単独ライブを控えた藍子ちゃんによりパワーアップして貰うための会議です!」
「なるほど」
「しかし、具体的に何を提案すればいいものか、悩んでいました!」
 茜さんはそう言ってまた難しげな顔で腕組みをする。
 本当に悩んでいるようだ。何か力になれないだろうか。
「そうですね……。一般的には、能力を向上させるには長所を伸ばすのと短所を補うのと、二つのアプローチがあるように思います」
「なるほど! 藍子ちゃんなら長所はたくさんありますね! しかし短所は!?」
「うーん……以前、体力にはあまり自信がないというようなことを言っていたような……」
 藍子さんも私と同じく、激しい運動はしないタイプだ。ライブにおいても同じような悩みを抱えていて、そのことについて話したことがある。
「そうか、そういうことですか! 分かりましたよ!」
 茜さんは叫ぶように言ってソファーから立ち上がった。
 どうやら何かに気づいたらしい。
「お力になれたようで、良かったです……」
「はい! それなら話は簡単です! この間、文香ちゃんとやった特訓メニューをアレンジすればいけるでしょう!」
「えっ……」
 あの地獄の特訓を?
「流石は文香ちゃんです!  ありがとうございます!」
 茜さんは私の両手を握って嬉しそうにぶんぶんと振り回した。
「い、いえ……お礼を言われるほどのことでは……」
 えっと、藍子さん……ごめんね?
「ところで文香ちゃんも何やら考えているようでしたが?」
「ああ、名人戦のことをですね……」
 とっくに封じ手の開封時刻は過ぎていて、再開の一手は指されていた。
 封じ手は▲4八銀。
 昨日フレデリカさんが予想していた手だった。ちなみに美嘉さんが▲4五歩、私が▲6五歩だった。
 次の一手で羽生名人が長考している。
「なるほど! 実は私も最近、巴ちゃんから将棋を教わったのです! ちょっと見せてください!」

 

△4三金右

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 五十分近い長考で羽生名人は△4三金右と指していた。それはいいのだけど、驚くべきことは別に起こった。
「今の△4三金右のところ、△6一飛はありませんでした?」
「えっ?」
 茜さんがポツリと言った言葉に、私は目を見張った。

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「えっと、それは……飛車を引いて△4一飛と使おうという意味ですか?」
「はい!」
 積極的な構想だ。確かに言われてみると4筋が切れている状況に対応していて、有力そうである。
 だけど……。
「茜さん……将棋は巴さんから教わったばかりだと……」
  飛車を一旦引くことで活用するという発想は余りにも初心者離れしているような。少なくとも私は思いもしなかったのだけど。
「将棋の戦略性はラグビーに通じるものがありますね! とても面白いです!」
「な、なるほど……」
 ……本格的に事務所最弱は私かもしれない。
 どうしよう。いや、どうしようもないけど。

▲4五歩 △同 銀 ▲5五角 △4六歩 ▲6四角 △同 歩

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 ▲2四歩 △同 歩 ▲3七桂 △3六銀 ▲7一角

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△4二飛▲2六角成 △3五歩 ▲同 馬 △3七銀不成▲同 銀 △4七歩成▲3六銀

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 角を交換したあたりで約束の時間が近づいてきたらしく、茜さんは待ち合わせ場所であるファミレスに出かけていった。残念だけどこればかりは仕方がない。私は私で午後からはレッスンがあるので、準備をしておかないといけない。
 ▲6四角△同歩はなるほど昨日美嘉さんが言っていたのはこういう順のことだったのだろう。一手で駒がほぐれたような感じがする。しかし今の後手陣は駒が偏っているので角打ちの隙がある。
  ▲2四歩△同 歩と味付けし、▲3七桂と銀に当てつつ跳ねる。
 戦いの流れが少しずつ急になっていく。 
 そして▲7一角。
 持ち角を使ってしまえば先手としてはもう後には引けない。本格的な戦いの始まりである。
 そして▲3六銀でお昼休憩になった。
 昨日からの流れを思えば午前中の間に結構進んだのではないだろうか。
 まさかレッスン中に終局するなんてことはないだろうけど、出来たら午後からはゆっくり進んでくれた方がありがたい。
 この局面の形勢はどうだろう?
 先手の馬も後手のと金もどちらも大きいように思う。
「うーん……」
 もし私が指していたら次に△3七ととされるくらいで困ってしまうだろう。攻め駒を責められるのは苦手だ。
 もっとも対局者は私とは次元が違うので、それはそれで何とかしてしまうのだろうけど。レッスン相手は奈緒さんなので、後で色々と聞いてみよう。

  

△3七と ▲2九飛 △3四歩 ▲4六馬 △3六と▲同 馬 △5三金 ▲4六歩 △7二角 ▲同 馬 △同 飛▲3五歩 △4七角 ▲3九飛 △3五歩 ▲3四歩 △4四銀

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「分からん!!!!」
 奈緒さんは悲鳴のような声を上げると、頭を抱えながらファミレスのテーブルにうつぶせた。
「奈緒さんがこんな反応をされるとは、それほどまでに難解なのでしょうか……」
 難しいのは承知していたつもりだったけど、奈緒さんがここまで苦しむのは予想外だった。
 思えば今まで、アイドルの皆はどんなに難しい局面でも私の質問に答えてくれていた。彼女らとて、全てを理解していたわけではないだろう。
 しかし分からない部分があったとしても、なぜ分からないのかを含めて自分の言葉で言語化してくれていたのだ。私のために。
 少し、当たり前に受け入れすぎていたかもしれない。
 問えば返ってくるのは、当たり前のことではないのだ。
「難しい。これは本当に難しい。ある意味、第一局よりも難しいかもしれない」
「それほどに……ですか」
 名人戦第一局は私が見た中でも最も難しい将棋の一つだと思っていたが、第二局してそれを上回ってくるとは、恐ろしい話だ。
「第一局とは難しさの質が違うんだよなぁ。あれは濃霧の中を歩いているような感じだったけど、一手一手は手探りで見つけられた。今度はそれよりいくらかシンプルではあるんだ。茫洋とした大局観というよりは、単純な読みの勝負だから」
「それなのにより難しい、というのは……」
「もう滅茶苦茶深く読まないと駄目ってことだな。しかも少しでも間違えたらすぐ悪くなる。頭がおかしくなりそうだ」
 奈緒さんはお手上げ、とばかりに両手をあげる。
「とりあえず△5三金のところは△7三桂と桂を逃がすと、▲6三馬△8五桂▲5三銀で今度は飛車が怪しくなるってことかな……」
 頬杖を突きながらタブレットをなぞる。
「では△7二角にはどういう意味が……?」
「あ、やっぱりそれ聞くよな?」
 奈緒さんは苦笑する。

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「曲線的な手だよな。▲3七馬とでも避けてくれれば後手の得になるんだろうな。だからといって▲同馬△同飛も先手の攻め方が難しい」
「将棋において『難しい』という言葉は手段が乏しい時に使われることが多い気がするのですけど、この場合もそうなのでしょうか?」
「いや、これは普通に難問という意味で難しいってだけ。大体、△7二角のところは△6三角もあったわけで、じゃあどうしてあえて△7二角だったのかとなると……うーん。対局者は見えてるんだろうけど」
 奈緒さんは難しい顔をしてタブレットを睨む。

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「▲3五歩は指されてみたら理屈か? 飛車と金の位置が変わってるから3筋を攻めるのは理に叶ってる気がする」
「▲3四歩△同銀▲6一角の狙いということでしょうか?」
「うん、それは正解。……といってもそれをされるわけにはいかないから、△同銀とは取らずに引いたりするんだろうな。引いたところでまた歩切れだからそこでどうするのかも、これまた難しいな」
 なお実戦は△4七角▲3九飛△3五歩▲3四歩と、角を打ったり飛車をかわしたりともっと複雑なことをしている。
「お互い何か狙いがあるとして、それ実現した時に最大の効果を発揮するように指すわけだ。あるいは最小限になるように。また何かの狙いを含みに指している場合もあって、その含みが何なのかを読み取れれば、将棋の観戦はグッとやりやすくなる……というのは一般論なんだけど、この将棋はそうはいかないんだよな」
 この将棋は端から見て狙いや含みが何なのかが分かりづらい上に、そもそも何を含みに指すのが正しいのかも不明瞭だ。
 とにかく深く、深く読むことで具体的に、だから駄目だとはっきりと言えるような順を見つけない限り、判断が下せない。
 後手の手番、タブレットの盤面がパチリと動く。

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 △4四銀を見て、奈緒さんは大きく仰け反った。
「ああもう! なんだよこれ! もう分かんねーよ!」
「銀を上がったら、守りの駒と離れてしまいますね……」
 セオリーと逆だというのは分かる。守りの駒は出来るだけ玉に近づけるものだ。
「▲4五歩△同銀▲3五飛は大丈夫でしょうか?」
「うーん、その場合はそのまま△5六銀で先手陣に噛みつくのかもしれない」
「なんと……」
 ほんのさっきまで守り駒としか見ていなかった銀が、まさか真っ先に先手陣に突撃する可能性もあるとは。
「しかしそれは先手まずそうだな。普通の矢倉ならまだしも天野矢倉じゃ響きが違う。▲4五歩は却下だ」
 銀は銀であって、色がついているわけではない。守り駒だと決めつけていたのは私の先入観なのかもしれない。
 いや、しかし柔軟な発想だろう。
 この局面で対局は夕食休憩に入った。一方の私達は夕食を食べ終わった。
 奈緒さんは視線を宙に漂わせた。何か、言葉を選んでいるみたいだ。
「この将棋も書くのか? その、観戦記……というか、蘭子のブログに」
「分かりません。私には、まだ……」
 一応、名人戦のどこかで書くつもりではいる。
 だけど、それがいつになるか分からない。
 そうなった時、私は多分……。
「ここで78手だから……うん。文香さん、この将棋で書くことになるんじゃないかな? 何となくだけど……」
「……え」
 ほとんど独り言のような、小さな声で奈緒さんは言った。その視線もタブレットを見つめていて、私は視界に入っていない。
 本当に独り言だったのかもしれない。
「加蓮もさ、観戦記書いてるだろ。あれも他のアイドルとは少し違って、どちらかというと、書き方が文香さん寄りというか」
「そうですね……」
 加蓮さんも将棋があまり得意でないらしく、どちらかというと指し手よりもそれを指す人間の方に着目している気がする。
 私に近いと言われれば、そうかもしれない。
「対局者と将棋だけじゃなくて、それ見てるあたし達のことも、な」
「なるほど」
「こんなこと考えてるんだっていう驚きはあったな。いや、驚きとは違うか。まあ加蓮本人に観戦記の話をしたらすげー怒るんだけど。自分で書いておいてそれは酷いよなぁ」
 多分、それは加蓮さんが本当の気持ちを書き綴ったからなのだろう。
 私も……怒りはしないけど気恥ずかしさはある。
 怒るのは、加蓮さんなりの照れ隠しなのだ。
 奈緒さんは口元にやや寂しげな笑みを浮かべて言った。 
「あたしがいつまでも、誰かのために傘を届けられるのなら、それが一番いいんだけどな」
「傘を、ですか……」
 何の比喩だろう。分からない。
 奈緒さんのそれが分かる距離に私はいない。
「ああ、ちょっとした心理テストでさ。加蓮から教わったんだけど、何だったかな。突然の通り雨に遭った時どうするかって質問に対する答えで、その人の心理が分かるとか。まあ話半分のさらに半分くらいのお遊びだけど」
「奈緒さんは、どうされるのですか?」
「……凛と加蓮がちゃんと傘を持ってるか気にすると思う」
 それで、いつまでも二人が濡れないように傘を渡せたら、と。
 いつかそう出来なくなるのと隣り合わせみたいな言い方で。
「文香さんならどうする? 突然の通り雨が来たら」
「そうですね……」
 目を閉じて、イメージする。町を歩いている私、泣き出しそうな雲。雨のしずくがぽたぽたと零れ始める。
 その時、私は……。
「すみません。よく分かりませんでした。私はあまり外出をしないので、通り雨で困った経験がないのです……」
「えっ?」
 奈緒さんは一瞬、呆気にとられたように目を丸くしたが、それから大きく笑った。
「あはは。その答は予想してなかった。じゃあ、文香さんはこれからなんだな」
「はあ……アイドルになって外出することも増えたので、あるいは雨に打たれることもあるかもしれませんが……」
 私の返答に、また奈緒さんが笑みを漏らす。
「これは心理テストなんだから、通り雨にどんな意味があると思う?」
「……自身に危機が訪れたときの対応を測るものかと」
「うーん、まあ危機は危機なのかな?」
 奈緒さんが笑みを止め、それから私の瞳をじっと見つめてから、言った。
「突然の雨とは、不意に訪れる恋のこと……だってさ」

 
 ▲5四銀 △同 金 ▲6三角 △8二飛 ▲5四角成 △5三銀打▲6三馬 △7一桂

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 そもそも私は実在の人物に関心を払った経験が乏しい。恋とはどんなものなのか、正直想像もつかない。
「通り雨……」
 しかし、恋でなくても感情を揺さぶられるものはこの世界には色々あって、自分ではない他人の出来事なのに、時には胸が締め付けられるように痛みもすることを、今の私は知っている。
「△7一桂は……難しいですね。難解だけど、何かいい手があるのかしら」
 透き通るような美しい声で駄洒落を言っているのは高垣楓さんだ。
 奈緒さんとはファミレスで別れ、私だけ一人で事務所に戻ったところ楓さんがソファーでうたた寝していた。
 楓さんは普段の忙しさに加え、今度のフェスでは事務所代表に選出されている。きっと大変なのだろう。
 私が来たことで起こしてしまって、目が覚めてからは普通に検討をしているけど、大丈夫なのだろうか?
「ふふ、心配はいりません。私ね、文香ちゃんの書く文章が好きだから、力になってあげたいんです」
「そんな……」
 有り難いし頭が下がるけど……もう私が書くことで決まりになってる?
「文香ちゃんは、この桂馬をどう思いますか?」
「えっと……」
 こういう時、分からなくても何かを答えたい。
 皆が私にそうしてくれているように。
「馬が6三の地点にいては不都合があるのでしょうか? 大事な駒には紐がついているので、あんなところに桂を打ってまで馬を追い返す必要はないように思えるのですが……」
「うーん、後手が何もしなければ▲7二金△9二飛▲5四馬△同銀▲8三銀で無理矢理飛車を取るつもりなのかもしれませんね」
「えぇー……」
 それは随分筋悪な。こんな僻地に金銀二枚も投入して飛車を取りに行くのは如何にも素人っぽい。
 いや……それも先入観か。筋悪は承知で、それほどまでして取る価値がこの飛車にはあるのだ。
「なかなか、フラットに局面を見るのは難しいものですね……」
「先入観も時には必要ですよ。毎局初手から考えていては、いくら時間があっても足りませんから」
「経験を活かすべき時と、真っ白な気持ちで見るべき時があるのですね……」
 それぞれが難しいことなのに、さらに状況に応じて使い分けなければならないわけである。
 世の中の色々な問題で、将棋より難しい事柄というのは余りないのかもしれない。
 

▲2七馬 △5四銀打 ▲5五歩 △同銀左▲3五飛 △4四銀引 ▲3九飛 △6三桂 ▲4五金 △同銀直▲同 歩 △2五角成 ▲3三銀 △3八歩 ▲同 飛 △5五桂

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「あ……」
 不可思議な攻防をぼんやりと眺めるしかなかった私の口から思わず声が漏れたのは、その一手に込められた意味合いを否応なく感じ取ったからかもしれない。
 △5五桂。
 元々は、7一に地点に打たれた桂だった。
 得した桂馬を、ただ馬を追い返すためだけに僻地に放った苦心の一手……そのはずだった。
 それが難解な折衝の末に隙を見て6三に跳ね、そして今、利きが先手陣の急所に突き刺さる5五の地点まで来た。
 こういうことが実現する時、形勢は……。
「後手が良くなった気がします」
 はっきりと楓さんは言った。
 天彦八段の残り時間が十分を切る。
 形勢も持ち時間も、苦しい。
「この一手は利くと思います。そうしたら、先手玉は一気に危険になります。いつ詰まされてもおかしくないくらい」
 追い込まれる。
 同時に、呆れさえ感じる。
「信じられないくらい強いですね。……羽生名人」
 分かっていたことだ。
 将棋を観る誰もが知りすぎるくらい知っていることだ。
 棋神なんて言葉さえ連想してしまうくらいに。
「しかし、それにしても……」
 △7一桂~△5五桂を実現出来る人間が他にいるのだろうか。

 

▲5七金寄 △5六歩 ▲同 金 △3五歩 ▲5五金 △同 銀▲5四歩 △同 銀 ▲3二銀成 △同 玉 ▲8八玉

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 喉元に刃を突きつけられた先手はもう後には引けない。
 攻めきるしかない。
 そう思っていた矢先の一手だった。
 ▲8八玉。
 思わず上がりそうになる悲鳴を押し殺す。
 この忙しい局面で、じっと玉を寄って相手に手を渡した。
「これがこの局面の最善なのでしょうか?」
「後で精査したらもっといい手があるのかもしれません。でも、将棋はただのパズルとは違いますから……」
 将棋というゲームにおいて、一人のプレイヤーの役割は半分だけだ。
 それは羽生名人だって変わらない。一手を指した後は、自分以外の誰かがその局面を考える。
 羽生名人と天彦八段は棋風も世代も違う。
 性格その他含めると共通点を探す方が難しそうだ。
 しかし将棋の半分は相手が指すという当たり前のことを強く意識しているのは、もしかしたら共通点かもしれない。
「ギリギリの状況でも自分らしさが出せる……。いえ、自分らしさが出てくるのは、凄いことだと思います」
 先手で角換わりか矢倉かなんていうのは、大した問題ではない。
 どんな戦型でも、どんな形勢でも、この▲8八玉は佐藤天彦だ。
 その時、楓さんのスマートフォンからメッセージ音が鳴った。
 僅かに首を傾げながら楓さんはそれを見る。
「あら……」
「どうしました……?」
「志希ちゃんが今『つぼみ』のレコーディング終わったらしいのだけど、私に相談したいことがあるそうなの」
「今? 志希さんが?」
 もう九時前だ。あの天才肌の志希さんがここまで苦戦している? しかもそれを誰かに相談する? 少し信じられない。
「……行ってあげて下さい」
「ごめんなさいね」
「いえ……」
 志希さんが苦戦し、もしも何かの挫折を経験しているのなら、ただ事ではない。 私がダンスで足を縺れさせるのとはわけが違う。
 行ってあげるべきだ。
 楓さんがゆったりと立ち上がる。
「もし困った時は……いえ……」
 そして、澄んだ双眸がしばしの間、私をじっと見つめた。
「文香ちゃん」
「……はい」
「頑張ってね」
 そう言って楓さんは事務所を後にした。
 本当に頑張っているのは対局者で、私が頑張ることなんて何もないのではと思ったけど、どうしてか私の手は小さく震えていて、それを止められないままにモニターに向き直った。

 

△2六金▲同 馬 △同 馬 ▲5六歩 △同 銀 ▲4四金 △4三金▲3三歩成 △同 桂 ▲3四金打 △同 金 ▲同 金 △4五銀引▲4四桂 △4二玉 ▲5二金 △同 飛 ▲同桂成 △同 玉▲3三金 △6三玉

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 先手の激しい攻めを凌ぎ続けた後手玉がついに左辺へ逃げ出す。
 持ち飛車はこの形の後手玉を捕まえるのには有効だが、残るは桂と歩が一枚ずつ。
 多分、足りない。お互い、一分将棋だ。
 まだ、何が起こるか分からない。
 そのはずなのに。
「私は将棋の神様に愛されていない」
 かつて、自分の書いた台詞が脳裏を過ぎる。
 天彦八段が、将棋を司る何者かに見捨てられた存在だとは思わない。
 だけど、羽生名人はその存在自体が伝説で、あらゆる物語を自らの神話に書き換えてしまう。
 そして人々はそれに魅了される。本来ライバルである棋士達でさえも。
 羽生善治とは、そういう存在なのだ。

▲5五歩 △同 銀 ▲5一飛 △8五桂▲4三金 △6二金 ▲6七桂 △4六銀右 ▲8一飛成 △5六角▲5八飛 △5七歩 ▲2八飛 △5九馬 ▲9八玉

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△7七桂成▲同 桂 △5八歩成 ▲2四飛

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 ▲9八玉に目眩を覚えそうになる。
 今度こそ、最善手ではないだろう。
 コンピューターに問えば悪手と断じて明確な数値でもってマイナス点を出してくれるはずだ。
 だけど。
「でも、将棋はただのパズルとは違いますから……」
 らしい、一手だ。
 これもまた、佐藤天彦の。
 羽生名人の手が大きく震える。
 これもまた伝説の一ページ。
 勝ちを確信した時、彼の手は駒を持てないほどに震えることがある。
 そうなってしまえば、逃れられる者は誰もいない。
 ありふれたおとぎ話のように、何度となく見聞きした話。
 棋譜コメントが更新される。
 ▲2四飛の局面で先手玉に詰みが生じているらしい。
 弱い私には見えない。
 それが少し寂しくて悲しいけど、今はどうにもならない。
 羽生名人の手が盤面に伸びる。 


△3四銀 ▲4四金 △5四歩

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 先手玉を詰ましに……いったのではない。
 △5四歩。
 自陣に手を入れた。
「え……?」
 細心の手順、ではない。そんな状況ではない。
 ここで詰まさなければ負けるのは後手のはずだ。
 何が起こっている?
「まさか……」
 先手玉の詰みを、読み切れていない?

 

▲7五桂打 △同 歩 ▲同 桂
まで159手で先手の勝ち

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 急転直下。
 あまりにも唐突に訪れたそれに、理解が追いつかない。
 羽生名人が投了した。
 ▲7五桂で、後手玉は寄っている。
 感情が麻痺したように、何の感慨も湧いてこない。
 ただただ、今起きている現実が信じられなかった。
 有り得ないはずだった。
 詰み逃し。逆転負け。
 起こってはいけないことなのだ。
 何故なら羽生名人は将棋の神様に愛されていて、どんな困難な局面でも勇敢に道を切り開いて、厳しい応酬の後でも最後まで立ち続ける。
 一分将棋でも、難しい詰みでも、果敢に踏み込んで勝利する。勝利してきた。
 羽生善治とは、そういう存在のはずなのだ。
「違うんですね……」
 本当は、分かっていた。
 将棋の神様なんてものは存在しない。
 仮にもし居たって、そんなのは何でもない。
 盤上にいるのは二人の将棋指しだけで、そこに神様なんて無関係な第三者が介在する余地なんて、ありはしないのだから。
 勝敗は気持ちの強さでは決まらないと思う……と、これもかつて自分で書いたことだ。そう、単純な勝敗で思いの優劣は決まらない。
 だけどそれは一方で、どんなに万感の思いを抱いて臨んでも負けるときはどうしようもなく負けることを意味する。
 それは時に酷く残酷な景色を作りうるだろう。
 美しい不純物を取り除いて、外野の創り出す物語を取り払う。
 神様はいない。気持ちも関係ない。
 そんな考えを突き詰めていったら、そこに残るのは焼け野原みたいに乾いた荒野だけではないか?
 そして羽生名人は、ずっとそんな荒野を立った一人で立ち続けているのだろうか。

 気がつけば、事務所を出てフラフラと夜道を歩いていた。
 寮に帰ろうとしていたのだろうと思う。
 歩きながら昂ぶりを抑えようとしていたのだろうか。
 何にしても無意識で歩くのは少々危なかったかもしれない。
「文香さん!」
 不意に背後から声を掛けられる。振り返ると輿水幸子さんが息を切らしながらこちらに駆けてきていた。
「忘れ物ですよ! ストールと! 本!」
「え、あれ……?」
 言われてみると妙に身軽だ。いつも肩に掛けているストールも、本も、事務所に置きっ放しにしたまま出て来たらしい。
「幸子さん、いつの間に事務所に……?」
「楓さんと入れ替わりくらいで来てましたよ。あまりに中継に集中しているので声を掛けませんでしたけど、いつの間にか本とストールだけ残して消えていたから驚きました」
「ああ……それは、お恥ずかしい限りです……」
 本とストールを手渡すと、幸子さんは不思議そうな顔で私をじっと見た。
「意外と、浮かない顔ですね」
「そうでしょうか……」
「いえ、天彦さんが勝ったのだからもう少し喜んでいるものかと」
 素直じゃないことを言っても、明らかに私は天彦八段の方を応援していた。
 昨期の順位戦の深浦戦で受けた衝撃は、今も私の中に残っている。
 この勝負を敗れた名人戦の戦績も0-2。あまりにも厳しいことになっていた。
 だから、素直に喜ぶべきなのだ。
 だけど、今はそれ以上に……。
「羽生名人が詰みを逃したのがショックでしたか?」
「…………」
 そうかもしれない。
 今でも簡単にイメージ出来る。
 羽生名人が手を震わせながら王手を掛ける。
 一分将棋の中でさえ、難解な詰みを読み切った羽生名人。
 人々の感嘆と賞賛。
 生ける伝説に新たな一頁が加わる。
 しかし、そうはならなかった。
「確かに、あの詰みは結構難しいです。一分将棋では見えなくても仕方ない類いのものではあります。でもですね、羽生名人なら見えたはずなんです。一分将棋でも、詰ますことはできました。ボクはそう思います。あの人は、もっと難しい詰みを幾度となく見切ってきたわけですから」
「…………」
「そうさせなかったのは、天彦さんですよ。どんなに形勢が悪くとも、時間がなくても、常に離されず、揺さぶり、名人の神経を疲弊させ続けた。だから見えたはずの詰みが見えなくなったんです。だからこれは、紛れもなく、天彦さんの力でもぎ取った一勝です!」
 幸子さんは段々と早口になり最後は叫ぶみたいな言い方になっていた。
「ええ、勿論。その通りですね……」
「わ、分かってるならいいんですけど!」
「ありがとうございます。幸子さんは、優しいのですね……」
「え、ええ? まあボクはもちろんカワイイですよ!」
 幸子さんは自分で自分のことをよく褒めるけど、不意に他人に褒められるといつも戸惑う。
 偶像という仮面の向こうにある素顔を知れる距離にもまた、私はいない。
「そうだ。大切なことがありました」
 幸子さんはそう呟いて、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「最後の先手玉の詰み筋ですけど、文香さんは分かりました?」
「いえ、私ではとても……」
 後で並べようと思っていた。
「そうかもしれないと思って、盤面を作っておきました!」
 よく見ておいて下さいね、と幸子さんは私の眼前に画面を翳す。

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「△8九銀。ここで△8九銀です」

△8九銀打▲同 玉 △6七角成

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▲同 金 △7八金打 ▲同 玉 △8六桂打

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▲8九玉 △7八銀打 ▲8八玉 △7九銀 ▲8九玉 △7八桂成 ▲同 玉

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「ここまでは、対局者も読んだのかもしれません。ただ次の一手が、一分将棋では見えませんでした」

△6八馬

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「これがあります」
 何もない6八の地点に馬捨て。でも▲同金は△同と、▲8九玉も△6七馬で、どう応じても金が取れる。
 以下は簡単な詰みだ。
「そうですか……これで……」
「……どうですか?」
 そう私に問いかける幸子さんは、どこか不安げで、でも私にはその感情が分かる気がした。自分の思いをちゃんと伝えられたのかどうか、分からないのでいるのだ。
 分かる。
 私が、いつもそうだから。
「美しいです。私はこの詰み筋を、美しいと感じました」
「そうでしょう! そうでしょう! 文香さんなら分かってくれると思いました!」
 パッと花が咲いたように、幸子さんの顔が明るくなる。
「美しい……そうですね。そういうものも、あるんですね」
 そうだ。
 私だってとっくに知っていたはずなのに。
 そこは、何もない荒野ではない。
 荒れ野には、そこにしか咲かない美しい花がある。
 実戦ではつぼみのままで終わってしまったけれど、でも今、私の中でその花は確かに咲いている。
「だから、あの人達は将棋を指し続けられるのかもしれないですね」
 それ自体を目的としているわけではない。
 でも、何故将棋なのか? という問いに対する答が、そこにある気がした。
 小さく吐息を漏らし、物思いをやめて幸子さんに向き直る。
「これから、名人戦だけでもあと最低三回はこんなことを繰り返さなければいけないのだから、大変ですね……」
「まだまだですよ! 棋士はボク達ファンを楽しませる義務があるんですから! 名人戦の次は棋聖戦、王位戦。NHK杯も朝日オープンもあります!」
「ふふ……幸子さんを満足させるのはもっと大変そうです」
「フフーン! 当然です!」
 年の離れた友人と並んで歩く帰り道。
 見上げた月に△6八馬……と、もう一度、心の中で唱えた。

【鷺沢文香】