行間を甘くみないで欲しい

昨夜はある人のブログにとても感銘を受け思わず駄文を連ねてしまったのだが、そのあとある人のブログを読んで脱力してしまった。
村上春樹も、自分のスピーチに感銘を受けた人がこんな事を言っているのを知ったら頭を抱えてしまうのではないか。


確認しておきたいのは、正論原理主義の問題とは、文字どおり正論を原理としてしまう事であって、べつに正論を述べる事が問題だと言ってるわけではないという事。
また、言葉で述べられる正論を捨て、「言葉にならない正しさ」だとか「言語化され得ない概念としての正しさ」だとか、一見もっともらしいが何を示しているのか良く分からない「正しさ」に依拠せよなどという事でも、断じてない。
正しさをべつの正しさに置き換えたところで、正しさを原理としてしまうのであれば、そこでは何も変わっていないのだから。
正しさを語って容易に説得できないからといって、正しさを「見せた」ところで容易に同じように出来ない人だっているだろう。そこで「言葉にならない正しさ」を原理としてしまえば、どうせ言っても分からないから殴って分からせるとか、そういう事態になるのだろうか。それもまた随分と怖いことである。


このブログに見られるような言論こそ、危惧すべき実感優先主義への退行とも言ってよいかもしれない。人間は正論にすがってしまう弱いものなのです、という人間の弱さという実感(その事への共感)への退行であり、そして挙句の果ては、非言語的正しさなどというもの極めて曖昧なものへの退行。
弱さへの退行によって正論を無邪気に口にする者を免罪し、また、自らは非言語への退行により正しさを確保しているのだから、暴走しようが何しようが正論を述べる場を無責任にただ眺めていれば良い。全く良く出来た、じつに都合の良い構図である。
また、この構図の中には主体がどこにもない。なぜなら、いちど「言葉にならない正しさ」などといってしまえば、彼が間違うことなど絶対にないのだから。間違う事のないものがいったい主体足りえるだろうか。自分も間違うし、相手も間違うという場所に倫理が生まれるのではないか。倫理というのは、そういう主体(が主体を認めること)と共にしかありえないと思うのだが、非言語への退行によって、言語をもって主体同士が向き合う場から己を消し去るような者が「倫理」を口にできるというのも、全く不思議なことだと思う。


上官の命令で捕虜を試し切りした兵隊だって、ガス室にユダヤ人女性を連れて行った兵隊だって、弱い事には変わりはない。あるいはイスラエルの兵隊や、ユダヤ教徒だって。


村上春樹だって、自分を言葉で攻撃した者たちの弱さなど当然分かっているだろう。だからこそ、イスラエルに行ったのだから。
そして、かといって弱さをもって免罪することができない事も分かっている。なぜならそれこそが彼が書く理由なのだから。スピーチは素直に読めばいい。
攻撃した者の弱さをいってしまえば、攻撃されたものの弱さはどこへもっていけばいいのか。それらを同じ「弱さ」という言葉で表現してしまえば、攻撃されたものの弱さはみえなくなってしまう。言い換えれば、相手も弱いのだから我慢しなさい、黙りなさいとなる。こんな強者の論理に依拠できるのなら人は小説など絶対書かないし、読まないだろう。(そういえば、このブログ主も小説を読まない人らしいが、さもありなん)


更にいえば、「言葉にならない正しさ」なんてものも小説家は全く信じていないだろう。なぜなら、彼は書いたからである。「言葉にならない正しさ」などというものを信じながら言葉で何事かを表現しようとするという事が、どうして可能だと考えたりするのか、私にはさっぱり分からない。普通に考えれば、「言葉にならない正しさ」なんて事を信じていないからこそ、言葉はもっと色々伝えられると信じるからこそ、書くのに違いないだろう。


行のない行間なんてものもない。行を読んだことのないものが行間など分かる筈がない。全くない。もしそんな事が可能なら、小説が小説である理由がなくなってしまうから。もしそんな事が可能なら、小説家が何百も何千も行を綴らねばならない理由がまったくなくなってしまう。
そして行を読んでいないのに行間を分かるという妄想は、行間=言葉にならない正しさ、という便宜的な短絡によって可能となるのだろう。「言葉にならない正しさ」と都合よく解釈すれば誰でも分かった気になれるのだろうが、行間はあくまで行の間の空白であって、誰もが自由に妄想できるような真っ白なページの空白ではない。


さきほど強者の論理に依拠できるのなら人は小説など書かないといったが、一方で、単純な弱者の論理に依拠するのも小説の方法論ではないのだろう。恐らく村上春樹が他の社会科学ではなく小説を選んだのは、そういう理由ではないか。
社会科学であればそれはより正論原理主義に陥る危険性が高い。かつて正論原理主義的なものにたいして物をうまく言えなかった人達の側に立ったとしても、立場を入れ替えただけで、そこで自分が正論原理主義のようなものになることは避けたい。ゆえに、正論をハイこれと呈示する社会科学的なものではなく、遥か彼方から迂回して近づいたり離れたり、押したり引いたり、手を変え品を変え、ときには全く予想もしないところから忍び込ませるようにして人に届かせる小説を選んだ。


そういう村上春樹が「正論原理主義」という言葉で誰かを強く非難したとき、それ自体が「正論原理主義」として働いてしまうのではないか。彼は何より小説で迂回して非難すべきではなかったのか、という感想もあるだろう。
がしかしそんなものはもし羞恥心があるのならば、感想にとどめておくべきだと思う。なぜなら、「ネット上の匿名」という主体無き言論とそうでないものとの非対称性がまったく考えられていないからだ。


かつての正論原理主義が自分の存立基盤を切り捨てて正論に走ったが故にいつかは欺瞞に直面せざるを得なかった所に問題があるとすれば、ネットの世界では、直面せざるを得ないことがない点においてより重大な問題があるのだと思う。
学生運動の頃は親から仕送りだのがあったり電話や手紙が届いたりで、欺瞞に直面させられる受動的である契機があった。そこで例えば敏感な人は立ち止まりフォークソングに耳を傾けたりといった事があっただろう。ネットでは直面させられるという事が殆どない。匿名であれば。
ほぼそれは自らの自覚に頼らざるをえない。ラップトップを閉じ電源を落としてしまえば何も直面しなくて済む。能動的に済む。
「イスラエル批判」をさんざん書き込んでラップトップを閉じ、そのあと彼女とデートして、マックのポテトをつまみながらピクサーのアニメを見て笑い、スターバックスでお茶して帰ることも可能で、そうして家に帰ってきたからといって、パソコンに咎められるという事はない。
そして、そうした楽しいことをしている間に「イスラエル批判」はネット上を一人歩きをし、作家を戸惑わせているかもしれない。


むろんここまで欺瞞的な人なんて実際には殆どいないだろうが、実際にはいないとしても、そういう事態が可能であることには、常に自覚的でありたいと思う。


※またここでピクサーのアニメを見る事が悪いと「直ちに」決断すべき、という事ではない。それもまた切り捨て、日本に暮らしている限り、多くの人にとって存立基盤の切り捨てでしかないのだから。多くの人にとって存立基盤の切捨てであるという事は、やがて原理主義となる危険性が高いという事であり、学生運動の愚かさに帰る事になってしまう。


※このエントリは過去に書いたこととの一貫性を毀損しているかもしれない事は自覚している。