カルチュラル・タイフーン2024のポスターへの批判

『DEBACLE PATH 別冊2』は非常に感化されるもので、この別冊の核といえる「パンク本座談会」(「現場」からの『パンクの系譜学』批判を中心に)を特におもしろく読んだ。ここで取り上げられている川上幸之介『パンクの系譜学』(2024年、書肆侃侃房)については私もモヤモヤと不満を抱えながら読んだので、その不満がこの対談では言語化されて、読むことでツボに命中、スッキリと浄化されたような感覚がある。アカデミアから捉えられた「パンク」に対して、真っ向から、現場のパンクスたちによって、反論が繰り広げられる。痛快である。とくに、「アマチュアリズム」や「反知性主義」(権威を常に疑うこと)、「パンク文化のアカデミズムからの搾取」について言語化されていたのが見事だった。経験が重要であるパンクにおいて、フィールドワークを重視しない研究は、もちろんズレが生じるだろう。うるさい音の鳴るベニューで繰り広げられている実践、あのコミュニティのあり方は、自宅でのお勉強では習得できない。

 

アンダーグラウンドな実践は、権威(そこには知識人や学者がもちろん含まれるし、活字にして書籍にするという行為もアンダーグラウンドにとっては対極であり恐れるべき「知性」かもしれない)と対になる文化だと私は考えていたのだが、最近、どうもこのあたりの混淆が進んでいるような気がしている。権威側がアンダーグラウンドな文化と近づき、その文化をパッケージして提示してしまうことに、危うさを感じているのは私やDEBACLE PATH界隈の人たちだけなのだろうか。大学教員や非常勤講師も最近では立場が危ういから「まったく権威とは程遠い」というご自覚・意識があるのかもしれないが、でも、大学が後ろにあり、学術界で生きる人には世界で通用する後ろ盾がある。どう見ても、社会的立場は学術界のほうが上である。

 

『パンクの系譜学』にモヤモヤし、『DEBACLE PATH 別冊2』にスッキリしていたら、とてつもない「権威側の失態」を見つけたので、記録のためにブログに記しておく。

 

カルチュラル・スタディーズという学術分野があり、日本においても「カルチュラル・スタディーズ学会」という学会がある。この学会の年一度の大会が「カルチュラル・タイフーン」と呼ばれているそうで、今年2024年は神戸で開催されるらしい。おそらく、神戸大学所属のカルチュラルスタディーズ系研究者が中心となって実行委員を務めているが、神戸大学六甲キャンパスではなくKIITOや西灘の街なかの場所で開催されるということらしい。

 

オフショアでは多くのご協力を頂いてきた、インドネシアのポピュラー音楽研究者である金悠進さんが『パンクの系譜学』への応答・批判にもなるような発表を行うと聞き、大会の内容を見てみた。

(同書におけるインドネシアの記述は、インドネシアについて知識が少ない私が読んでも恐ろしくなるぐらい、ビートルズをこきおろしたスカルノ政策と、ビートルズや欧米音楽を奨励・利用しながら共産主義者を虐殺したスハルト政策とを、混同している。)

 

すると、プログラムのデザイン基調色とポスターがラスタカラーで、ちょっと驚いた。ラスタファリと何か関係があるのだろうか……? 言わずもがな、レゲエをちょっと齧った人ならみな知っているように、ラスタカラーとはラスタファリという信仰にもとづいている。あらゆる信仰を持つ人が集まるであろう学会大会のポスターに、ラスタカラーを使うなぞ、大丈夫なんだろうか?と、不思議に思っていたところ、DEBACLE PATH版元のGray Window Press主宰の鈴木さんや件の「パンク本座談会」に登場していた黒杉さんの指摘によって判明したことがある。

 

  • このポスターは、バンドBAD BRAINSのアルバム『BAD BRAINS』のコピー、盗用である。
  • BAD BRAINSのHRはホモフォビアを公認していて、セクシストである。それはパンク・ハードコア界隈では超有名な話であること。

 

 

カルチュラル・タイフーン2024のプログラムPDFを再度見てみると、最後のページに実行委員のクレジットがあり、「ポスターデザイン」の項に『パンクの系譜学』著者である川上幸之介氏の名前がある。

 

比較的新しい分野とはいえ、大学組織が後ろ盾にある学会で、このようなポスターデザインの剽窃・盗用がまかりとおってしまうというのはどういうことなのか? パンクやハードコアのシーンでは誠意を込めて有名バンドのアートワークをオマージュしたり図案のサンプリング、コラージュ等を行う文化はあることにはある。川上氏はそれをやりたかったのかもしれない。だが、それは、「地べたにいる側」が行うから許容されるものである。大学や学術界という権威が後ろ盾にある場合、地べたから意匠をパクるのは極めてダサい。せめて、「原案:『BAD BRAINS』ROIR, 1982」等のようにどこかに出典の表記があれば、まだ「ダサいっすね」で終わらせられるかもしれないが……。またこのように原案そのまま「パクる」なら、これは「ポスターデザイン」ではなく「ポスター作成」等とクレジットを変えるべきだ。なぜなら、デザインの定義を間違えているし、真の「デザイン」を行っているデザイナーに失礼だから。

 

さらに、盗用したBAD BRAINSのボーカルHRが性差別主義者ということ。パンク・ハードコアにあまり明るくない私は今回の件で検索してやっと知ったのだが、pitchforkでも2007年のインタビューで話題にされており、「bad brains homophobic」等のワードで検索したところ、たくさん記事が出てくる。BAD BRAINSが好きで好きでオマージュしたいぐらいなら、これぐらいは確かに知っておかないとまずい。おまけに、HRはミソジニー発言もしている。これはDEBACLE PATH版元のGray Window Press鈴木さんが、過去に出版しているMDC(というハードコアバンド)の回想録『MDC あるアメリカン・ハードコア・パンク史 ―ぶっ壊れた文明の回想録』(デイヴ・ディクター)のBAD BRAINSについてのページを画像でアップしてくださっているのでぜひ読んでみてほしい。

あなたはこれらを読んで、BAD BRAINSをそれでも楽しく聴けるだろうか? カルチュラル・タイフーン2024に参加する研究者のみなさんは、どのようなポスターがこの学術大会に用いられているのか、しっかりご理解されたほうがいい。ましてや、カルチュラル・タイフーン2024にはいくらかフェミニズムやクィアに関する発表やシンポジウムがあり(川上氏が参加するものも)、カルチュラル・スタディーズ学会には、「ジェンダー平等推進委員会」というものが設置されているらしいじゃないか……。

 

カルチュラル・タイフーン2024のポスター

 

『BAD BRAINS』(ROIR, 1982)のジャケット(discogsよりキャプチャー)

 

カルチュラル・タイフーン2024実行委員の名簿(ポスターデザインの項目がある)

 

 

ここ数年間はなるべく研究者と協力したりする機会を増やしていたし、自分のような大学も卒業していない人間こそが、地べたとアカデミアの架け橋になれるようなこともあるかもしれない、と考えてきたりもした。研究者たちへの期待もあったから、今回のカルチュラル・タイフーンのおぞましいミスは、なかなかつらい。私のSNS投稿でこのことを知った研究者も多いだろうが、「まあカルチュラル・スタディーズだし」で流している研究者も多いだろう。今後、私は「研究者です」や「〇〇大学教員」と名乗ってくる人との付き合い方を考えることになりそうだ。

 

それにしても、最近、アカデミアからのアンダーグラウンド文化への接近が多々見られること、気になっている。近年日本の学術界でカルチュラル・スタディーズやポピュラー音楽研究というジャンルが浸透してきたことも、アンダーグラウンド文化へアプローチする研究者が増えているようにみえる理由のひとつかもしれない。アンダーグラウンドとは簡単に研究者やライターの目で捕捉できないからアンダーグラウンドと言うのであって、取り上げられているものは既に「アンダーグラウンドではない」ものがほとんどなのだから、アンダーグラウンド文化の未来を憂う必要はあまりないだろう。とはいえ、「アンダーグラウンド文化を記しました!」というような成果の喧伝には、地下で行われていた貴い実践が晒されてしまったような、略奪されたような、嫌な感覚をおぼえる。有名バンドの意匠をオマージュする手法だってアンダーグラウンド文化のなかの一つであり、もちろん、アンダーグラウンドの中で完結するからこそ許されていることである(これをオーバーグラウンドでやればすぐに訴訟問題に発展することは誰の目にも明らかだ)。

 

研究者やライターは、そのアンダーグラウンドな文化を「書く(=地上に引き上げる)」ことで何が起こるのか、いつも想像力を働かせておくべきだ。特に「抵抗」の文脈が背景にある音楽の場合、それを地上に取り出すことでどのような要素がスポイルされてしまうか。また、不均衡が生じていることも決して忘れてはならない。「書く」側には原稿料が出たり、書いたものを成果として職やポストを得たりするが、「書かれる」側は、アンダーグラウンドにいるからこそ、それで飯を食ってはいないのだ(『DEBACLE PATH 別冊2』では黒杉さんが「現場の人間でパンクで飯食ってる人なんてあまりいない」ことに言及し、そのようなパンク文化をアカデミズムで研究することは「パンクで飯を食うってことでしょ」「かいつまんで飯の種にされるのは、いい気分はしないな」と指摘している)。

 

そしてそういうことを考える時、私がいつも頭に想起しているのは、久高島のイザイホーが1978年の開催をもって止まったことである。多くの取材者や研究者の来島があったことが影響していないわけがない。研究者やライターは暴く側であり、そのペンでその文化を壊すことへの加担もできる。

 

ひとつ、アンダーグラウンドの現場にいる人たちが参考にできそうなことを。先日那覇で、久高島をよく知る人に聞いた話。久高島に訪れる学者に対して、ある神女は「ウソの話をしてやった」そうだ。理由は、「話を聞かせてほしいとやってきたのに、土産のひとつも持参しなかったから」。これは笑い話なのだが、アンダーグラウンドにいる人間が、研究者やライターからの取材に「真面目に真実を語らないといけない」というわけでもない。