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漫画の話です。

『モルモットの神絵師』コミュニケーションの本質と、漫画を描くことと漫画の感想を書くことの意味の話

 引き続き『モルモットの神絵師』を読んでのお話。
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 本作の主人公・岡太朗は、インフルエンサーのチハルに監禁され、「人のため」の絵と「自分のため」の絵の2枚を描きあげた後、チハルが「『自分のため』に描いた絵の方が美しい」、「『承認欲求人のため』より『自己表現欲求自分のため』の方が優れた創作を産む」と評価したことに対し、異議を唱えました。

絵を描くことは 『人の好きなもの』を描くことでも 『自分の好きなもの』を描くことでもない
それは
”自分の絵ことば”で”誰か”に伝える『コミュニケーション』なんだ
(64,65p)

 異議というよりは意義でしょうか。チハルは「人のため」と「自分のため」を比べ、後者を上位に置きましたが、太朗はどちらをよりよいとしたのではなく、それを判断する以前の前提、そもそも絵を描くこととは何か、という意義について述べたのです。
 「人のため」に描こうが「自分のため」に描こうが、それはコミュニケーションとして行うもの。どちらが好まれようと、良いものとされようと、まずコミュニケーションである、と言います。


 そもそも、コミュニケーションとは何か。
 辞書的に言えば「相互の意思疎通」ですが、つまり、誰かに自分の意を伝え、それに対し相手から何らかの意が返ってくること。そのような意の往還がコミュニケーションの本質です。
 その意味で、「何を」伝えるかというのは、コミュニケーションの本質とは無関係です。

 「おはよう」とあいさつをすると、「おはよう」と返ってくる。
 右手を差し出すと、右手を差し出し返され握手をする。
 狭い道で対向車に先を譲れば、パッシングと共に相手車が先行する。

 自分が誰かに意を差し出し、それに対して相手がその意を確かに受け取ったことを示す。そしてまた相手から意が返ってくる。そのような意の往還、意の運動性こそが、コミュニケーションなのです。意図してかどうかはわかりませんが、太朗のセリフに「何を」伝えるかについてが欠落しているのもそれを裏付けます。
 そして、太朗のセリフにはないのが、意が相手から返ってきて初めてコミュニケーションは成立する、という点。相手からの反応を期待せず一方的に発信をするのは、コミュニケーションではありません。期待しても返ってこなければ、やはりコミュニケーションではありません。先にコミュニケーションの運動を起こす側の立場で言えば、相手が反応を返せるものを発信しなければいけないのです。

 一般的には意味のある意思疎通をすることこそが目的とされるのとは裏腹に、意の往還それ自体が目的、いわば手段自体が一義的な目的と化し、その中身は二次的なものになるとさえ言えます。


 ここで、改めて本作に登場した3種の絵について、それがどのようなコミュニケーションなのかを検討してみましょう。


ケース1,「人のため」の絵
 これは、太朗が従前から描いていたもので、彼曰く、「『人の好き』を毎日研究して」、「「いいねを稼ぐこと」「フォロワーを稼ぐこと」「他の絵師に勝つこと」」を目的とするものです。チハルに言わせれば「自分を殺して100%人のために」「『人の好き』に注力して描いている」絵です。
 ではこのような絵は「誰に」描いているのかと言えば、広く「人」です。あるいは「群衆」でしょうか。具体的な誰かではなく、集団の中でうねりとしての「好き」を発生させたアノニマスな「人」です。
 何を伝えたかったかと言えば、「あなたはこういう絵が好きじゃないですか?」という問い。あるいは「こういう絵が好きでしょう?」という提示。それに対して「人」は、反応として「いいね」したり、太朗のフォロワーになったりする。
 また、チハルに描いた1枚目の絵もこれにあたります。太朗は不特定多数の誰かではなく、目の前のチハル一人のために「こういう絵がお気に召すのでしょう」という思いで描きました*1。


ケース2,「自分のため」の絵
 チハルによる監禁が長く続き、彼女に対する悪感情が昂り続けた太朗は、様々な凶器でチハルを刺し貫き殺害するグロテスクな絵を描き上げました。それはチハルいわく「外界との繋がりを断ち切り・・・・・・・・・・・・ 初心に帰って・・・・・・ 誰にも見せることのない絵を内なる衝動に従って描・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」いた絵で、太朗の「苦しみと怒りと恐怖があるがままに表現されてい」るというのです。
 これが「自分のため」の絵であるというのは、太朗が自分自身のためにこれを描いたということ。チハルに「監禁されて 脅されて 恐怖して困惑して苛立って そのグチャグチャをキャンバスに描き殴った」もので、「オレの醜い心そのもの」を「鎮めるため吐き出すため 自分のために描いた絵になった」のです。
 「誰に」は太朗自身。「何を」は恐怖、困惑、苛立ち、グチャグチャになった醜い心。ならばどんな反応が送り先である太朗から返ってきたかというと、「それを描き終えたら気持ちが少し落ちつい」たという精神の安定。己が心の中に湧きおこっていた不穏で不快でグチャグチャな感情を絵にして自分自身に送った太朗は、その絵を描いてそして見て、自分の感情の客観視ができ、「気持ちが少し落ちつい」たのです。


ケース3,チハルに描いた3枚目の絵
 「自分自身が作品」と太朗に言わしめるほどに「美を追求」していたチハルをモデルに絵を描くことしかできない、「無人島で絵を描くような SNSや娯楽が何もない だけど新鮮で刺激的な日々」。彼女をひたすら見続けた彼が彼女に抱いたのは、恐怖、困惑、苛立ちでしたが、同時に「強烈な共感シンパシーと深い憧れ」でもありました。
 その結果生まれたのが3枚目の絵。「誰に」はもちろんチハル。「何を」は、あえて言葉にすれば、「オレはキミが好きです」という気持ち。

 ただ、蛇足ながらここで強く言っておかなければならないのは、彼が伝えたいのは「オレはキミが好きです」という言葉それ自体ではないということ。まさにそれを伝えたいだけならば、そう言葉で言えばいい。わざわざ絵を描く必要なんてない。それでも彼が絵を描いたのは、彼の中にある気持ちは絵で表すしかなかったから。「オレはキミが好きです」という言葉ではとても伝えきることができない、膨大で複雑でとっちらかった感情を伝えるため、太朗は自分の絵ことばを描くしかなかったのです。

 蛇足ついでに言えば、『子供はわかってあげない』(田島列島)で、「好き」という言葉は「ただのカード」で、「それを見せるだけで済むように」「先人があみ出した方法だ」と言っています。

 誰かを好きだという感情はあまりにも大きく複雑なので、それを言葉で十全に伝えきることは不可能ですが、「好き」という言葉にはその大きく複雑な感情がすべて入っているということにしておく・・・・・・・・・・・ことで、その感情を伝えやすくしたのです。
 でも太朗は、「好き」という「カード」を使う代わりに、自分の絵ことばを使ったのですが、念のために付言すれば、あのページに書いてある「オレはキミが好きです」という言葉は、太朗が発したものではなく、チハルが感じ取ったものです。太朗が自分の絵ことばで伝えた感情を、彼女は「好き」という「先人があみ出した」便利な言葉で受け取ったのです。

 話を戻して、太朗から絵ことばを送られたチハルは、その反応として、恥ずかしがりました。前回の記事(『モルモットの神絵師』モルモット/人間を見る目と、「絵を描くこと」がつないだものの話 - ポンコツ山田.com)で書いたように、元々太朗の前で全裸になっても一切恥じるそぶりを見せなかったチハルは、彼を同じ人間ではなくモルモットとしか見ていなかったわけですが、太朗の絵ことばを見たことで、彼を意を通じ合うことのできる同じ人間とみなし、裸でいることが恥ずかしくなりました。太朗の意が通じたからこその羞恥です。


 以上、3つのケースを見ましたがいずれも、太朗が自分の絵ことばで「誰か」に対して何らかの感情を伝え、それを受けた誰かは何らかの反応を返しているように、すべてコミュニケーションが成立しています。
 そして最後、太朗がチハルに描いた3枚目の絵(ケース3の絵)は、二人の2ショットとともにチハルのアカウントでSNSにアップされましたが、それを見た彼女のフォロワーはこぞって「いいね」を押しました。彼の絵と共に、彼らの2ショットという作品は多くの反応を引き起こし、これもまたコミュニケーションの成立です。


 さらにメタ的に見れば、そんな漫画を中山先生が描き、それに対して私たち読者が感想を言ったり、こんな長い文章を描いたりする。自分の絵ことばで描いた漫画に、読者がなんらか反応を返す。この作品を中山先生が、「人のため」に描いていようと、「自分のため」に描いていようと、それは問題ではありません。絵を描いて、それに反応が起こる。コミュニケーションなのです。

 漫画の感想を書くというのは、作者の絵ことばに対する反応という面もありますが、同時に、ケース2のように、漫画を読んで自分の中に生まれた感情を自分自身に説明するためのものという、自分対自分のコミュニケーションという面もあります。
 さらに、こんな風にブログで書いたりSNSで発信したり、誰かとそれについて話したりするというのも、「この漫画よかった(あるいは悪かった、ということもありえますが)よね」ということを伝えて誰かから反応をもらいたいというコミュニケーションでもあります。
 そしてさらに、その感想そのものに対する評価や批判という反応が生まれたり、その感想に触発されて書いた文章や描いた作品、読んだ本など、新たな反応が連鎖して生まれていくのです。

 こうして、コミュニケーションとして世界に放たれたある漫画は、誰かに届いて感想という形で反応が生まれ、そしてその感想がまた新たなコミュニケーションとして誰かに向けて放たれる。そしてそこからまた…とコミュニケーションの運動は波及していくのです。
 世界とつながるとは交換の連鎖を続けていくこと、とは記事中にも登場した『子供はわかってあげない』に通底しているテーマですが、漫画を描くことも、その感想を書くことも、また世界とつながることだと思うのですよ。

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*1:後にネットにアップしてバズらせたい、という思いもありましたので、完全にチハルの目しか意識していなかったわけではありませんが。ここにはやはり、「人」はこういう絵で喜ぶでしょう、という思いがあります