ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【秉田(ひきた)神社】元は巻向山の頂近く 隠国の台地に鎮座していた?古社

はじめに

現在は #秉田神社(ひきたじんじゃ)。古地名に由来し史料には曳田、辟田、短田、引田の字。創建は #ヤマト創世 弥生時代の古社で、地元の歴史研究家、榮長増文氏は著作(#原始三輪山)で、元は #巻向山 ~ #ダンノダイラ #隠国(こもりく)の山頂台地に鎮座していたと推理

目次

本文

秉田(ひきた)神社

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りょうさん池(高山神社)に至る桜井市白河(しらが)の道を麓に近いところで(西に)左折した先に鎮座するのが秉田(ひきた)神社。

巻向山から見ると東南麓になります。

秉田(ひきた)神社(奈良県桜井市白河285)

(34.53477370461734, 135.89501011592213)/奈良県桜井市白河(しらが)285(旧地名:白河村神山)/神社前に1台分の駐車スペース。近鉄大阪線・長谷寺から徒歩約50分

平安時代の延喜式神名帳に『大和國 城上郡 曳田神社二座』に比定されます。

神名帳に記載された御祭神二座のうち一座は大己貴命でよいでしょうが、他の一座は不明。

御祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)/(明治42年合祀)高龗神(たかおかみのかみ)、豊受比売命(とようけひめのみこと)

明治42年に高龗神(葛神社)、豊受比売命(稲荷神社)を合祀。

かつては、白山神社 と呼ばれていたそうです(下記、原始三輪山の記述(青字)および、記事末の桜井市HPにも記述)。

秉田神社 御由緒

秉田(ひきた)神社 御由緒

原始三輪山(もとみわやま、榮長増文)は、大和志料(大正期)を引用して当社を紹介しています(以下、口語訳)

(延喜式)神名帳には短田(ひきた)神社とあり、大和史に「白河村轟滝(とどろきのたき)*1の上にあり今は 白山*2 という」・・・古事記(記紀)に「引田部赤猪子(ひきたべのあかいこ) あり。天武天皇皇紀十三年の条に 三輪引田君(みわのひきたのきみ)難波麻呂あり。三輪氏系図によると三輪君身狭(むさ)の弟、宇留斯(うるし)の子、牟良(むら)は引田氏の祖で、つまり、三輪氏の引田の分家の名称(と考えられる)・・・(その後、三輪氏は)引田の名を失い、今はその名の由来を知ることはできない。当社は引田にあり、引田氏*3の祖を祀るものと考えられる

かつて、白山神社とよばれたこと、元は轟滝(とどろきのたき)に鎮座していたという記述から、原始三輪山の榮長氏は、北西の巻向山山頂付近~西北西のダンノダイラ付近から、土砂崩れで崩落した地層とともに、現在地の谷底(秉田神社谷)に落ちて来たのではないかと推理しています。

風化花崗岩質が至るところに見られる三輪~巻向山系では十分にあり得る話で、私もその推理に同意です。

秉田神社周辺の地形図(元社は北西の巻向山の頂付近(薄い○)〜ダンノダイラ(赤い○)東側のどこかに鎮座していた?)

秉田神社 境内

秉田神社 拝殿

秉田神社 御本殿

桜井市HP(秉田神社と引田部赤猪子の伝承)

若き雄略天皇(若建命、古墳時代中期)に見初められた少女・赤猪子(あかいこ)が、天皇が宮中に召すという言葉を信じ約八十年待っていたというお話。

興味のある方は、リンク先(動画あり)でご覧ください。

sakurai-kankou.jimdo.com

白河の里 朝の景色

*1:古代地名で所在不明。原始三輪山の榮長氏は①りょうさん池付近説、②ダンノダイラ付近説を紹介しています

*2:一帯には白山比咩神社、白山がある。白河地名も含めて三輪山-巻向山系の花崗岩地層に由来する「白」であると推定されます

*3:飛鳥時代、唐新羅連合軍に破れた白村江の戦いの将軍、また、粛清(みしはせ、樺太?)の征夷の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ)の氏姓は阿倍引田臣(あべのひきたおみ)で、引田の名が見える。今のところ引田地名や三輪氏と関係しているかどうかは未確認です。備忘録として