アッサイェの戦いとは? わかりやすく解説

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アッサイェの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 05:35 UTC 版)

アッサイェの戦い
Battle of Assaye
第二次マラーター戦争

軍を率いるアーサー・ウェルズリー
1803年9月23日
場所インド、アッサイェ
結果 イギリスの勝利
衝突した勢力
イギリス東インド会社 シンディア家
ボーンスレー家
指揮官
アーサー・ウェルズリー ダウラト・ラーオ・シンディア
ラグージー・ボーンスレー2世
戦力
9,500人
大砲17 門
ヨーロッパ式訓練を受けた歩兵10,800人
非正規軍歩兵10,000 - 20,000人
非正規軍騎兵30,000 - 40,000人
大砲100門+
被害者数
602人 6000人

アッサイェの戦い(アッサイェのたたかい、英語:Battle of Assaye)は、1803年9月23日インドのアッサイェにおいて、シンディア家およびボーンスレー家の連合軍とイギリス東インド会社との間で行われた、第二次マラーター戦争の戦いの一つ。同戦争における最大の激戦でもある。アーサイーの戦いとも表記される[1]

戦闘

1803年9月11日シンディア家はイギリス側の司令官ジェラルド・レイクの軍にデリーの戦いで敗れ、デリーを奪われて多くの犠牲者を出した。

そのため、シンディア家は兵士をヨーロッパ式の歩兵大砲を増やし、ボーンスレー家と共同戦線を張ることに決め、これ以降行動を共にすることとなった。

すでに、8月8日にイギリス側の司令官アーサー・ウェルズリーは13500の兵をもって、シンディア家のデカンにおける拠点アフマドナガルを攻撃し、12日に占領した(アフマドナガル包囲戦)。その後、彼はニザーム藩王国の都市アウランガーバードへと入った。

シンディア家とボーンスレー家の連合軍はアッサイェに陣を張ってそこで宿泊していたが、21日から22日にかけてその近辺では、イギリス側との小競り合いが起こっていた。

そして、23日にシンディア家とボーンスレー家の連合軍はイギリス軍とアッサイェで交戦状態に入り、全面衝突となった。マラーター側連合軍は5万兵と100基の大砲を持っており、対するイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の計7000人、大砲は20基しかなく圧倒的に不利な情勢であった。

アーサー・ウェルズリーはこれだけ兵力差がある大軍を相手にするには、敵軍の側面をつくしかないと考えてクリシュナ川渡河を敢行した。この作戦は見事成功し、正面からのイギリス軍の歩兵の突撃も相まって、マラーター軍は大混乱に陥った。

翌24日までに、大勢の犠牲者を出したマラーター軍はアッサイエから撤退し、この戦いはイギリス側の勝利に終わった。

脚注

  1. ^ ダルリンプル (2022) 200頁。

参考文献

  • ブライアン・ガードナー 著、浜本正夫 訳『イギリス東インド会社』リブロポート、1989年。 
  • ウィリアム・ダルリンプル 著、小坂恵理 訳『略奪の帝国 東インド会社の興亡 下』河出書房新社、2022年。 

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