永田希

書物の生態系のなかで生き続けるもの
追悼・永田希さん

突然の病により、2024年12月に惜しまれながらこの世を去った書評家の永田希さん。筑摩書房では『再読だけが創造的な読書術である』を刊行させていただいたのみならず、さまざまな場所で小社刊行書をご紹介いただきました。本記事では、文筆家の木澤佐登志さんによる追悼文をお届けします。

 永田さんと直接的な面識があったわけではない。私と永田さんの関係、それはあえて言うならば「同期」とでも呼びうる関係だった。いま「あえて」と言ったのは、デビュー時期に一年以上の開きがあるからだ。私が『ダークウェブ・アンダーグラウンド』で単著デビューしたのは二〇一九年の一月。一方で永田さんが『積読こそが完全な読書術である』で単著デビューしたのは二〇二〇年の四月(ちょうど新型コロナウイルスが世界で猛威をふるい始め、日本でも最初の緊急事態宣言が発令されたタイミングだったことを覚えている)。それでも「あえて」同期と言いたくなるのは、どちらも方便凌さんという当時イースト・プレスに在籍していた若手編集者に声をかけられてデビューした、という経緯があるからだ(この追悼文の執筆依頼も方便さんからいただいた)。だからというわけでもないが、永田さんの書き仕事にはある種のシンパシーを常に感じてきた。とりわけ、その一貫した脱‐人間中心主義的な姿勢に対して。

 永田さんは『積読こそが完全な読書術である』のなかで、高度に発達したメディア環境による「情報の濁流」に流されないための、ビオトープ的積読環境の形成を説いている。その際に強調されるのは、「読書」を人間の側からのみ捉える狭い視野からの脱却である。そもそも書物は読まれるためにのみ存在しているのではない。書物は、情報を保存し保管するためのものとして存在してもいる。その意味では、書物は必ずしも(少なくとも今ここであなたによって)読まれる必要はない。永田さんは次のように書いている。


 自分の目の前の本を読むかどうかという問いは、個人的な時間のなかではそれなりに重要な悩みかもしれませんが、しかし書物のほうからすれば、別の時代の誰かが読んでくれればいいのです。あなたにとってその本を読むタイミングが来なくても、その書物がいつか誰かに読まれるならば、そのタイミングまで本を待たせてもいい。それが積読の基本的な考え方になります。だからこそ、情報の濁流のなかでビオトープを作り情報のカオスへと蔵書が拡散してしまわないように守る必要があるのです。

(永田希『積読こそが完全な読書術である』一四四頁)


 書物はそもそも「積まれる」ために書かれ、保存されてきた。人類の記憶を外在化/保存する外部記憶装置としての書物。こうした観点からすれば、書物を積んで、読まずにおくことは、書物に対する本来的な態度であるとすら言える。書物は必ずしも開かれる必要はない。閉じた書物はそれ自体で完成して自足している。

 それだけではない。書物は互いに参照し合い、書物同士のネットワークを形成している。読者にとって重要なのは、一冊の本を「完全に」読むことではない(そもそもそんなことは不可能だ)。そうではなく、無数の書物が形作る広大なネットワークのなかで、その本がどこに位置づけられているのか。そのことを把握し、俯瞰した視点を得ようとする姿勢こそが、情報の濁流に飲み込まれないための「積読」という試みに繫がっていく。

 このような、人間ではなく書物の側から「読書」という営みを考える『積読こそが完全な読書術である』は、大げさに言ってしまえば「読書術」におけるコペルニクス的転回ともいえ、その逆転の発想と新鮮な切り口ゆえに本書が読書界隈でも話題になったのは当然であった。

 人間中心主義的な「読書術」からのポスト・ヒューマン的転回を唱える『積読こそが完全な読書術である』は、ティモシー・モートンやジェームズ・ブライドルといった論者とも近しい視座を共有している。事実、永田さんの仕事に共通するのは生態学(エコロジー)的な視点である。たとえば、『積読こそが完全な読書術である』のキーワードである「ビオトープ」とは、「ある場所の小さな生態系」を指す言葉だ。永田さんにとって、「積読」とは書物が織りなす生態系を不断にメンテナンスすることで、情報の濁流から生態系を守る営為に他ならなかった。

 書物が形成するネットワークは生態系として立ち現れる。『積読こそが完全な読書術である』の続編ともいえる『再読だけが創造的な読書術である』(この本の編集も方便さんが担当した)で前景化されるのは、この書物の持つネットワークという特性だ。


 今度の本でわたしが「再読」について提示したいのは、書物の内側と外側でたがいに情報が結びついてネットワークを形成しているということ、読者がそれを組み替えて自分が生存可能な環境を再構築する(テラフォーミング)ということです。

(永田希『再読だけが創造的な読書術である』四頁)


 もっとも、注意すべきは、ここで言われているネットワークが、書物同士のネットワークというよりは、もっぱら読者の内的なネットワークと、書物のなかの言葉のネットワークの結びつきであるという点だ。この場合、読書という行為はネットワーク同士の交叉と捉えられる。なぜネットワークという言葉をわざわざ持ち出すのかというと、一方向的に行われる「完全な」読書など幻想にすぎないと永田さんは見なしているからだ。本は読んだそばから忘れていき、読み落としや記憶の変容は読書行為を不完全なものにさせることを強いる。書物と読者との間には、不確定で不分明な領域が横たわっている。永田さんは、その不確定で不分明な領域を、書物のネットワークと読者のネットワークが交叉する場として考えようとする。 

 「再読」、それは前回とは異なるネットワークに接続されることを期待しながら行う営為ではないか。かつてとは自分の状況が変化しているので、以前には気づかなかった部分や関心の薄かった部分に意識が向けられるかもしれない。


 読書や再読を繰り返すうちに、自分の読み取れる内容が変化することにも繰り返し気づかされるようになります。読書に慣れ、再読に慣れるとは、書かれていることが変わっていないのに、読むたびに読みとられる内容が変化することを知るということでもあるのです。

(永田希『再読だけが創造的な読書術である』七四頁)


 再読とは畢竟、ネットワークを組み替えることで新しい読みや発見や謎、すなわちそれまで意識化されることのなかった道筋に至る行為といえる(それこそが「創造的」とされる所以である)。本書では、その営為はテラフォーミングという環境造成とも比較される。ここでもやはり生態学的な視点が導入されている。

 もちろん、再読を繰り返せばいつかは一つの正解、言い換えれば「完全」な読書に辿り着けるわけではない。むしろ事態は逆ではないか。それまで意識化されなかったネットワークとの接続は、読書をさらなる彼方へと送り届けていくことになるかもしれない。

 最後に、永田さんの書評について少し触れておきたい。知られているように、永田さんは書評家を名乗っていた。永田さんにとって書評は、彼が著書のなかで提示した「積読」とも「再読」ともまた異なる営為だったのだろうか。

 二〇二三年十一月、永田さんは拙著『闇の精神史』の書評「反自然の呼び声が聞こえる」を書いてくださった。それは一般的な書評から明らかに逸脱した、まさに異形とでも呼ぶしかない書評で、一読して面食らった記憶がある。博識に裏打ちされた書評はいきなり宇宙や地図をめぐる壮大な視点から始まり、宇宙や世界から切り離された自分を、宇宙や世界のなかへと結びつけ直す「反自然的な行為」の意味を、様々な文献(そこには私の前著『失われた未来を求めて』も含まれる)や理論(批判地政学、ハラウェイのサイボーグ論など)を横断しながら明らかにしようとする。たとえば、スマートフォンの地図アプリ。膨大な地理情報の塊と個々人の現在地とを結びつける操作は、普段は意識しない地球や衛星と自分とを再連結させるという意味で「反自然的な行為」と見なせる。

 また、ディズニーランドやマクドナルド化といった「ディズニフィケーション」現象を通じ、アメリカ文化が世界を先取りする様相や、虚構が現実に優先する状態が分析される。『エンダーのゲーム』のようにゲーム(虚構)の延長が宇宙的戦闘(現実)を決定づける構図は、まさに地政学的な「鳥の目」の観点である。フーコーの言う「身体のユートピア」への着目や、ユク・ホイが提示する多元的な宇宙観は、こうした虚構と現実の絡み合いを相対化し、新たな想像力の可能性を示唆する。

 最後に、「母親としての幸せ」を求める者が打ち倒される物語(マルチバース作品など)に見るように、反自然的な欲望や声がタブー化される現実が浮かび上がる。永田さんは、「生まれなかった者や死者の声を聞く」ような想像力が、忘却された現実を再接続する鍵となる可能性を示唆しながら、反自然の闇からの呼び声に耳を傾けることの重要性を問いかけて書評を終える。

 言うまでもなく、上に書かれた事々は書評対象の『闇の精神史』の内容と直接的な関係は(一見すると)ない。『闇の精神史』ではマルチバースについて論じてないし、批判地政学も参照していない。さながら、永田さんによる『闇の精神史』のリミックス作品。それ自体で自律したテクスト。『闇の精神史』のネットワークと永田さんの頭の中のネットワークがどのように交叉したのか、知る由もない。おそらく、永田さんは『闇の精神史』のネットワークそれ自体を組み替えたのだ。そのことによって、『闇の精神史』は永田さんによるテラフォーミングの空間に変容した。『闇の精神史』における潜在性の次元に留まっていた不可視のテクスト、ありえたかもしれない別の道筋、汲み尽くされることのなかった可能性……。永田さんの「再読」=「書評」はそういったものを救い出そうとする。まるで、『闇の精神史』における「生まれなかった者や死者の声を聞こうとする」かのように……。

 永田さんのビオトープに投げ込まれた『闇の精神史』は、書物同士のネットワークの網の目に補足されることで、著者ですら未知であったネットワークと接続されていく。そうやって書物は新たな意味や生を獲得する。書かれたことだけが書物のすべてではない。人生だけが生のすべてではないように。

 たとえ書き手が亡くなったとしても、書物は残る。永田さんの著書は書物の生態系のなかで、(陳腐な言い方になるが)生き続ける。他の本とネットワークを形成し、あるいは読者とネットワークを交叉しながら、それは相互に影響を与えたり与えられたりするだろう。

 考えてみるに、永田さん自身がネットワークの人だった。永田さんは誰とでも分け隔てなく交流した。私もささやかながら、「ブラックボックスのビオトープ」という、永田さんが主催するディスコードに参加していたことがある。そこで行われた永田さんとのやり取りは、些末な雑談の域を出ない、余滴のようなものにすぎなかった。しかし今となっては、それすらも得難い記憶だ。もっと永田さんと話したかった。これが今の偽らざる心境である。

2025年1月7日更新

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木澤 佐登志(きざわ さとし)

木澤 佐登志

1988年生まれ。文筆家。インターネット文化、思想など複数の領域に跨った執筆活動を行う。著書に『ダークウェブ・アンダーグラウンド――社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス)、『ニック・ランドと新反動主義――現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書)、『失われた未来を求めて』(大和書房)、『闇の精神史』(ハヤカワ新書)、『終わるまではすべてが永遠――崩壊を巡るいくつかの欠片』(青土社)、共著に『闇の自己啓発』(早川書房)、『異常論文』(ハヤカワ文庫JA)がある。

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