富野由悠季論

〈1〉富野少年はいかにしてアニメーション監督になったか――富野由悠季概論

富野由悠季とはどんなアニメーション監督か。「演出の技」と「戯作者としての姿勢」の二つの切り口から迫る徹底評論! 書籍化にさきがけて本論の一部を連載します。 今回からはシリーズ「富野由悠季概論」。富野由悠季監督の経歴を時代背景とともに振り返り、アニメーション監督として果たした役割に迫ります。 (バナーデザイン:山田和寛(nipponia))

宇宙との出会い

 現在、アニメーション監督という存在が広く当たり前の存在として世間に認知されている。しかし、このような認知を得るまでには、それなりの長い時間が必要であった。そしてその中で大きな働きを果たしたひとりが、富野由悠季監督である。

 富野の経歴を簡単に振り返ってみよう。

 アニメーション監督・富野由悠季は1941年11月5日、三人兄弟の長男として神奈川県小田原市に生まれた。本名は富野喜幸。富野家は代々「喜」の漢字を継いでおり、喜幸の「喜」の字もそこに由来する。富野は1982年まで、この本名で仕事をしていた。

 故郷である小田原という土地について富野は、そこまで思い入れを持って育ったわけではなかった。両親は、ともに江東区大島の出身で、小田原はあくまで「寄留している」土地という姿勢で、家も借家だったという。「そういう態度で親が生活をしていると、いくら小田原で生まれ育っても、そこを故郷と感じるのは難しい。‟地付き”と呼ばれる、土地に根ざした感覚が生まれることはなかった」(※1)。この‟根無し草”、つまりデラシネの感覚は、後の監督作の中にも見つけることができる。

 小田原に住みながら、12歳までポマードでなでつけた「都会の子」として育った富野は、周囲から「坊やちゃん」と揶揄を込めて呼ばれていたという。そんな富野少年に大きな影響を与えたのが与圧服を撮影した写真だった。

 父・喜平は、小田原の軍需工場で働いており、風船爆弾の開発や、高高度で飛行する戦闘機パイロットが着用する与圧服の研究・開発に携わっていた。与圧服の写真も、そうした研究・開発の過程で撮影されたものだった。写真の中の与圧服は、宇宙服の原型を思わせる姿をしており、富野少年に強い印象を与えた。この写真による素地があるところに、1951年には映画『月世界征服』(アーヴィング・ピシェル監督)と、漫画『アトム大使』(手塚治虫)との出会いが加わった。こうして富野少年は、宇宙飛行への関心を深めていく。

 中学1年生になった富野は、少年雑誌などで得た知識をもとに、月世界への旅行の方法について詳細なレポートをまとめる。また民間の科学解説者である原田三夫が主宰する「日本宇宙旅行協会」にも入会して、宇宙に関する知識を蓄えている。インタビューでしばしば「自分の宇宙に関する知識は中学校の時に調べたことがすべて」と語るが、それはこうした活動のことを指していると思われる。

虫プロ入社

 このほか中学・高校時代の富野は、水彩画やペン画を描くだけでなく、日記や散文なども多数執筆した。こうした活動が、のちの創作活動に繫がっていくことになる。

 日本大学藝術学部映画学科に進学した富野は、同学年の足立正生が監督した『鎖陰』に打ちのめされ、授業のほうはほどほどで、むしろ自治会活動に熱心にコミットすることになる。当時の同大学自治会は、自民党との接点が深く、富野はそこで組織と権力の一筋縄ではいかない関係を目の当たりにした。(※2)

 富野はアニメーションにそこまで関心があったわけではないが、1964年の大手映画会社は求人をしておらず、映画業界への道は閉ざされていた。一方、1963年から本格的TVアニメ第1号『鉄腕アトム』の放送を開始した虫プロダクションは、1964年春の大学卒業見込み者の求人を行っていた。母から虫プロダクションの求人を知らされた富野は、同社の入社試験を受け合格。こうして富野はアニメーションの世界で生きていくことになった。

キャリアの五段階

 アニメーション業界に入ってからの富野のキャリアは大きく五つの時期に分けられる。

 まず1964年の虫プロダクション入社から1967年のフリーになるまで。駆け出しの演出家として様々なチャレンジを行っていた時期といえる。

 次が1967年から1977年までの十年間。この時期は、「絵コンテ千本斬り」などと呼ばれ業界の便利屋的な仕事をしつつも、1972年には実質的初監督作『海のトリトン』を手掛けている。1975年以降は、ロボットアニメを手掛けることが増え、その過程で自らの演出スタイルを固めていく。この十年が、演出家・富野由悠季の原型を形作った時期といっていいだろう。

 そして同じく1977年から1988年までの約十年は、ロボットアニメというジャンルの可能性を追求していく時期。作品でいうと『無敵超人ザンボット3』から『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に至る時期にあたり、ロカルノ国際映画祭で名誉豹賞受賞の理由となった「ロボットの表現に革命を起こした」という業績は、主にこの時期の仕事によるところが大きい。

 1989年から1998年までは「迷いと再生」の時期といえる。富野は『機動戦士ガンダムF91』(1991)、『機動戦士Vガンダム』(1993)と、新たなガンダムを世に送り出すもその後、心身の調子を崩してしまう。そのときの状況や心境は自伝的エッセイ『ターンエーの癒やし』(角川春樹事務所)に詳しいが、激しい目眩や耳鳴りに悩まされ、うつ症状の自覚もあったという。そうした状態からのリハビリとして『ブレンパワード』(1998)を制作し、そこで再びTVシリーズへと復帰する。心身の不調を経過したこともあってか、作品の肌触りがここで変わってくる。本質は変わらずとも、切り口や着地が少し変わったように感じられる。

 最後は、1999年の『∀ガンダム』から現在に至る約四半世紀の時期である。2014年には『ガンダム Gのレコンギスタ』を監督し、2019年から2022年にかけて同作を全5部作の映画にまとめ直した『Gのレコンギスタ』を発表。この映画が現時点での最新作である。この時期の作品は、風通しのよい雰囲気の中に、人類の文明の行く先へと思いを馳せる作品が増えている。 (続く)

 

【参考文献】 
※1 富野由悠季『「ガンダム」の家族論』ワニブックスPLUS新書、2011年
※2 富野由悠季監修『富野由悠季全仕事』キネマ旬報社、1999年
(参考)『富野由悠季の世界』キネマ旬報社、2019年

 

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