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エディ藩が歌った知られざる名曲「丘の上のエンジェル」③~ゴールデン・カップスの最後

2024.12.16

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レギュラーで出演していた店の名前をそのままバンド名にして、1967年にデビューしたザ・ゴールデン・カップスは、もともと志向していたR&Bではなく、ブームになっていたグループサウンズでヒット曲を出すグループになった。

だが、本牧のクラブ”ゴールデン・カップ”に帰ってくると、以前と変わらずに本格的なR&Bを演っていた。それを見にわざわざ横浜に来る客も増えて、東京ナンバーの車が店の前に並ぶようになった。スパイダースやテンプターズ、ブルー・コメッツなどのメンバーたちも観に来て、ライブを真剣に凝視していたという。

同じ頃にパワーハウスという名のブルースロックのバンドを組んでいた柳譲治(ジョージ)にとって、カップスはまだグループ・アンド・アイと名乗っていた頃から憧れのバンドだった。横浜出身の柳は、特にリード・ギターのエディ藩に惹かれていた。

伊勢佐木町のマルゼンっていう楽器屋さんで、よくエディを見かけた。店頭で、ちょっと弾いたりしてる。うまいんだ、これが。すごいなぁ。そういうほかなかったね。あの頃、フェンダーのジャズマスターを持って弾いているのは、エディ藩だけだった。


そのカップスから突然、メンバーに入らないかと声がかかったのは1970年初頭で、柳が日本大学を卒業する直前のことだ。

即、その気になった。グループサウンズをやっても、カップスは変わったわけじゃなかった。
「日本で最初にR&Bを演ったのおれたちだよ」
デイブはよくそういっていたし、その姿勢はカップスになっても変わってなかった。カップスはグループ・サウンズにいろんな影響を与えたと思う。その、カップスに誘われたんだから、すぐその気になった。


柳ジョージは卒業試験で1科目だけ単位を取り損なったために、夏の追試を受けて卒業証書をもらって9月から参加した。しか、しGSブームもすでに下火になり、カップスはメンバーの脱退や加入、復帰を繰り返す状態になっていた。

当時は、ルイズルイス加部とマモル・マヌーが抜けてミッキー吉野とアイ高野が加わっていたが、ベースのケネス伊東がビザの関係でアメリカに戻らなければならない時期だった。

当時はメインの仕事だったジャズ喫茶にも客が入らなくなっていて、柳ジョージがベースで加入して最初の仕事になった銀座のヤングメイツでは、30分から40分のステージが夜に1回だけだった。待ち時間があって暇だったので、酒ばかり飲むようになったという。

そしてデイヴ平尾がそろそろ解散をと考えていた矢先の1970年11月30日、ミッキー吉野と二人で大麻不法所持で逮捕された。未成年だったミッキー吉野は翌年1月、2年間は芸能活動をしないということを条件に家庭裁判所で無罪放免になった。そこでアメリカ留学を決意すると、ボストンのバークリー音楽院に旅立って、帰国後にゴダイゴの結成へとつながっていく。

そのまま解散したのではマリファナバンドで終わることになると考えたデイヴ平尾は、なんとかもう1年だけ続ける道を選んで、1971年12月に「新宿ニューACB(アシベ)」でステージ上からバンドの解散を宣言した。

最後の仕事は沖縄の那覇市にある国際通りの「沖映」という映画館の4階にあるディスコだったが、柳ジョージがその夜の出来事を自伝で、以下のように回想している。

1971年の暮れから正月の3日までという仕事だった。これで少しまとまったお金をもらって解散しちゃうというわけだね。12月だというのにあったかくて、妙な気分だった。もうこれで終わっちゃうんだっていう感傷めいたものが湧いてこないんだ。
沖縄はまだ返還前だった。ドル紙幣を持って安いステーキを食って、仕事をして、酒飲んで‥‥。最後の日。もうこれでおしまいだなっていいながらステージに立った。ラストナンバーは「長い髪の少女」をやろうっていうことになっていた。
デイブが歌い始めた時、初めて、あーこれでほんとにおしまいなんだなって思った。おれにはその後何をやるか、全くアテがなかった。ミュージシャンとしてやっていけるかどうかも、全く未定。この仕事が終わったら、ほんとにそれっきりになってしまうんだ‥‥。本牧のゴールデンカップでデイブが歌っていた頃が、一番幸せだったのかもしれない。


そんなことを考えていてふと気がつくと、柳ジョージは焦げ臭いが漂っていることに気がついた。だが「なんか変だな」とは思っても、本番中に演奏をやめるわけにはいかない。

ベースを弾きながら柳ジョージがドラムのアイ高野に、「おい何か匂わないか。何か変だぞ」と耳打ちする。こげ臭い匂いに気がついていたアイ高野は、奇妙な顔をしながら辺りを探りながら、リズムをキープしてドラムを叩き続た。

しかしふたりとも匂いが気になって、ドラムとベースのリズムが乱れた。他のメンバーも異変を感じて、後ろを振り向いたがそれでも歌と演奏は続いていく。

まもなくしてアイ高野が「ウワーッ!!」っと大声をあげたのと、カーテンの間からモクモクと煙が押し寄せてきたのは同時だった。

演奏を中断して控室に戻って荷物をまとめていると、天井のすき間から炎が見えたので誰かが「火事だあ!」と叫んだ時、電気が消えて真っ暗になった。その中をパニックになりながら、客と一緒に階段をつたって外へなんとか逃れた。

不幸中の幸いで負傷者は出なかったが、翌日に現場に戻ってみると、ディスコはどこもかしこも真っ黒に焦げていた。現場に戻った柳ジョージが、このように描写している。

無残だった。ギターもアンプも、真っ黒にこげてしまっていた。服にしみこんだけむりの臭いがいつまでたってもおちなかった。何度洗ってもダメだったね。それが、ゴールデン・カップスの最後だった。


バンド結成から最後まで在籍していたのは、リーダーのデイヴ平尾だけであった。彼らはもう一度、それぞれの音楽人生を見つけるために、新しい一歩を踏み出すことになる。


〈参考文献〉
柳ジョージの言葉はいずれも、柳ジョージ 著「ランナウェイ―敗者復活戦 」(集英社文庫) からの引用です。

柳ジョージ『敗者復活戦』(Kindle版)
アトス・インターナショナル


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