高田渡の没後10年を機に、あらためて彼の魅力に触れるトリビュート特集。マルチ弦楽器奏者として活躍する高田漣のロング・インタビュー後編は、彼が初めてギターを持った少年期や、父や先輩たちとの共演について、また〈高田渡を歌う〉ことへの想いをたっぷりと語ってくれました。
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進行・構成:宮内健
佐藤「音楽って、かなり幼い頃の記憶でも残るし、相当な影響力があると思うんですね。漣くんの場合は影響力が云々という以前に日常に音楽があったわけじゃないですか?」
高田「幼い頃からライブ会場やスタジオによく連れて行かれてたので、遊び場が音楽の現場だったんです。よく話すことなんですが、子どもが絵を描く時に、普通はライオンとかキリンみたいな動物を描くと思うんだけど、僕は楽器の絵を描いていたそうなんですね。だけど、決して音楽の英才教育を受けてきたわけでもなくて」
──そもそも漣さんがギターを弾きはじめたきっかけは何だったんですか?
高田「子どもの頃からビートルズ好きだったし、もっと言えば保育園の頃からハリー・ニルソンが大好きで、今も音楽的には影響受けてると思うんだけど、そういう音楽がずっと好きだったことと、ギターを弾きたいっていうのは別の衝動だったんです……僕は今41歳なんですが、僕らの年代としては当たり前のようにMTVや『ベストヒットUSA』で洋楽に目覚めて、そこからローリング・ストーンズやスティーヴィー・レイ・ヴォーンを好きになったことで、ギターを手にとったんです。今でもよく覚えてるんだけど、当時から買っていた『ギター・マガジン』の表紙が、ストーンズだったことがあって。その写真のミックの後ろに写っているキースの佇まいがエラくカッコよく思えて、それからキースに憧れていったんですね」
(*『ギター・マガジン』1989年9月号。ローリング・ストーンズが表紙で、開放弦テクニックを紹介する特集が組まれていた)
高田「その後、キースのスタイルを探るうちにライ・クーダーから相当影響を受けてるらしいってことを知って。ライ・クーダーって……あれ? 子どもの頃、父親に連れられて観に行ったな?とか、家にもレコードがいっぱいあったな?とか、いろいろつながっていったんです。それまで漠然と眺めてた父のレコード棚にあったレコードや、父であったり、まわりの人たちがやっていた音楽と、自分が好きで聴きはじめた音楽が、ルーツとしてリンクする部分がかなりあるんだと気付いて、その時期から急激にルーツ・ミュージックを聴き漁るようになったんです。ましてや中学生から高校生にかけてのスポンジのように吸収力の高い時期に、そういった音楽を学べたのは大きかったと思いますね。もちろん知らず知らずのうちに自分の中に内包してた音楽性とか、子どもの頃にあった記憶みたいなものも影響してたのかもしれないですけど」
佐藤「そうやって誘発されて、導かれていくものなんだよね。音楽の不思議な引きつけ力を感じるというか」
──でも高校生ぐらいでは、まわりに似たような音楽が好きな人も少なかったんじゃないですか?
高田「キースに憧れてエレキギターを持って、その1ヶ月後にはライ・クーダーを聴いてたような人でしたからね。ギターを弾きはじめた直後から、父のまわりにいた諸先輩方からのプレッシャーと言いますか、洗脳がはじまったんです(笑)。いろんな先輩ミュージシャンが来ては、僕にテクニックを教えていくわけです。当時はバンド・ブームでイカ天とか流行ってた時期だったんですけど、学校の友人界隈では、自分が好きな音楽や、やりたい演奏を発揮できる場がなかなかない……そうなってくると、演奏できる場所は、父であったり、父の友人たちのステージしかなかったんですね」
──実際、漣さんがギタリストとして活動をはじめたのは17歳の時だそうですね。
高田「今考えると、ずいぶんフットワーク軽かったなって思いますけど、父や西岡恭蔵さん、その他いろいろな先輩方のライブに通ってはステージに出させてもらったり、あるいはライブが終わってから、仲間内でセッションすることで揉まれていった。そんな感じだったから、先輩たちに囲まれて演奏しているっていう状況は、僕にとって特殊なことではなかったんです」
──その後、渡さんと漣さんの共演は幾度となくありましたが、印象深いのは2003年に公開収録された、親子二人だけによるライブの実況録音盤『27/03/03』です。
高田「映画『タカダワタル的』を撮影してる終盤のあたりで、NHK-FMの番組のために収録された音源ですね。父は晩年、何度も入退院を繰り返していたんですけど、その収録があったのはしばらく入院していた直後ということもあって、ちょうどお酒を抜いていた時期だったんです。だから歌も演奏も非常に調子がよくて、クリアだった……僕は何度も父と演奏してきたけど、お酒のせいもあってすごく打率が低いんですよ(笑)。いいライブって本当にごくわずかだったし、一緒に演奏してて、殴り掛かってやろうかっていうぐらいに腹が立つようなライブを何度もされたこともあった。だけどあの収録の時は、2曲目を演奏しているぐらいで『これは相当いいライブになるな』っていう実感がありましたね」
──2002年リリースの『LULLABY』から、漣さんはコンスタントにソロ・アルバムを発表してきましたし、漣さんならではの形で自身のルーツを表現してきましたが、今回の『コーヒーブルース~高田渡を歌う~』のように、高田渡の歌に真っ直ぐに向き合うことになったのは、どういう理由からなんでしょうか?
高田「いろいろあるんですが、父の歌を歌う一番のきっかけになったのは震災でした。それまでは自分の主張があったとしても、英語詞にしてはぐらかしてみたり、あえて自分のルーツを他のものと混ぜて玉虫色にしてみたりすることが多かった……でも震災以降、直後に企画されたライブも中止になって、代わりにチャリティのイベントに参加することも多くなったんですが、そういうイベントはPAも無い状況で演奏することが多かったんですね。そうなってくると、今までのようにエレクトリックな表現は全然できなくなって、結果として歌とアコースティックギターしか残らなかった。そこで初めて、自分の生い立ちを考える時間ができたというか」
高田「ちょうどその時期、チャリティの録音を頼まれたんです。何を録ろうか考えた時、自分もちゃんとメッセージを発しないといけないと思ったんですね。そのためには絶対に日本語で、きちんと想いを伝えるべきだと……そこで真っ先に浮かんだのが、父の〈鉱夫の祈り〉という曲だった。この曲を歌って録音したことで、自分の中の何かが変わったし、その後の活動にも大きく影響しました。それからは父の歌だけじゃなくて、彼が歩んできた道のり……好んで取り上げた日本の詩人たちの作品についてや、影響を受けてきた音楽について、いろんなことを掘り下げるようにシフトしていったんです」
──「鉱夫の祈り」を歌ったことで、漣さん自身の音楽表現にも変化が生まれてきた。
高田「歌の言葉にもすごく引っ張られたと思うし、ギター1本で出来る表現にも面白さを感じていきましたね。そうやって歌いはじめると不思議なもので、いろんな人たちに呼ばれるようになって、ある意味で自分も違うステージに突入した感じはあります。なので、今回のこのアルバムを録るに当たっては、さほど気負いもないんです。リラックスした感じで歌えてるし、それぐらい〈高田渡を歌う〉っていうことに対して、すごくカジュアルな気持ちに変わったんです。そういう意味でも、10年ぐらい時間が必要だったのかもしれないですけどね」
──没後10年経って出版される『マイ・フレンド―高田渡青春日記1966-1969』は、高田渡さんが17歳から21歳までの、デビュー前の時期に書いていた日記をまとめたものですが、こんな日記が残っていたのもすごい発見ですよね。
高田「故人の日記なので出すべきか出さないべきかはかなり悩んだんです。日記を発掘した当時、萩原健太さんや能地祐子さん、湯浅学さんとお酒を飲みながら相談してたんですが、お三方からは絶対に出すべきだと言われて。この日記は高田渡っていう個人の話だけじゃなく、当時フォークソングに目覚めた若者たちの姿がある。実際に日記の内容も、フォークソングってこんなに面白い音楽があるんだと、人に知らせたいっていう衝動から書かれたものなんですね。フォークソングを紹介する新聞記事の切り抜きが貼られていたり、ピート・シーガーに出す手紙の下書きが綴られていたり、そのピートから返ってきた手紙に『君の足下には、日本のフォークソングが転がってるはずだ』という示唆があったことも記録されてる。その示唆を受けて、三橋一夫さんに相談に行ったところで添田唖蝉坊を教えてもらって、そこから明治の演歌について傾倒していって。フォークソングと演歌を掛け合わせることが、自分のやるべきことだと見い出した……と、高田渡の全部がその当時の日記の中に、気持ち悪いぐらいに閉じ込められていたんですね。僕もその日記を読むことで、父の音楽体験を追体験したというか。編纂の作業がある程度終わってから、トリビュート盤の制作に取りかかれたのはよかったと思います」
──そうして制作されたトリビュート・アルバム『コーヒーブルース〜高田渡を歌う〜』は演奏や歌の内容もさながら、録音の良さにも耳が向きます。
高田「それは、細野晴臣さんから学んだことが大きく反映されてると思います。父が亡くなってからの10年は、細野さんとご一緒してきた10年でもあって……『FISHIN’ ON SUNDAY』(1976年)以来、細野さんと父の共演はなかったので、元気なうちにもう一度細野さんに父の作品を作ってもらいたいって画策していたんです。2003年頃に初めてお会いした時から、その話はずっとしていて、細野さんもだんだん乗り気になってくれていた。2005年に〈ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル〉という細野さんを中心としたミュージシャンが出演したイベントがあったんですが、細野さんから『もう一度、渡ちゃんと演奏したい』ってオファーをもらった。それがちょうど父が亡くなった日だったんです。そこでも、自分的にはやり残したことがあったんです。それから10年間、僕は細野晴臣バンドに参加させてもらったりと、共演する機会もたくさん得た。そこで今回のトリビュート盤では、細野晴臣さんとの共演で培ったノウハウを、高田渡という素材をつまみに使わせていただいたというか。レコーディングの技術的な面でいえば、ほぼ100%リボンマイクで録音されていて。それは父がレコーディングしていた頃よりも、もっと昔の録音方法。アナログのテープで録音したりと、かなりビンテージな手法を取ったんですが、それこそ細野晴臣バンドで録音していく中で学んだ技術であり、音像なんですね」
佐藤「本来は細野さんにプロデュースをと思っていたけど、それは叶わなかった。だけど、漣くんが細野さんから学んだものを、細野さん流にやってみたということなんですね」
高田「そういう意味ではある種のパロディみたいな感じですけど、〈ほんとはみんな〉っていう曲は、『Hosono House』の〈ろっかばいまいべいびい〉みたいな音にどうやったら似せられるかいろいろシミュレーションしてみたり……幸せなことに自分には、父と細野さんという偉大な先生がいて。二人が自分の音楽性に大きな影響を与えてくれていますね」
佐藤「そういった影響が、こんなにも純粋に形になってる。こういったケースは、めったに起こることじゃないですよ」
高田「それがまた父が在籍した〈ベルウッド〉というレーベルから出せるっていうのが、ありがたいことで。アルバム制作については関わってはいないんですが、父の作品をずっと手がけていた三浦光紀さんというベルウッドを設立した方が、ほとんどボランティアみたいな形でこの二つのアルバムを各所に宣伝してくれてるんですね。親子二代にわたって世話になってるって、なんだか不思議な縁を感じてならないんです」
〈了〉
高田渡 profile
1949年、岐阜県に生まれ東京に育つ。中学卒業後、昼間は印刷会社で働き夜は定時制高校に通う生活を送る中、アメリカのフォークソングに傾倒し曲作りを開始。1968年、フォークキャンプで「自衛隊に入ろう」を唄い注目され、翌年『高田渡/五つの赤い風船』でレコードデビューを果たす。自作のほか、明治・大正・昭和の演歌師や山之口貘をはじめとする詩人の現代詩に曲をつけたスタイルを確立。独自の手法で日本のフォークソングを次々と作り出し、40年近く全国各地で唄い続けた。2004年には音楽ドキュメンタリー映画『タカダワタル的』が公開、同名のサウンドトラックもリリースされる。翌2005年4月、公演先の北海道にて56歳で急逝。
高田漣 profile
1973年、フォークシンガー・高田渡の長男として生まれる。14歳からギターを弾きはじめ、17歳で西岡恭蔵のアルバムでセッション・デビューを果たす。スティール・ギターをはじめとするマルチ弦楽器奏者として、YMO、細野晴臣、高橋幸宏、斉藤和義、くるり、森山直太朗、星野源などのレコーディングやライヴで活躍中。ソロ・アーティストとしても今までに6枚のオリジナル・アルバムをリリースしている。
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高田渡トリビュートライブ “Just Folks” 2016 秋
2016年10月29日(土)徳島・寅家
2016年10月30日(日)大阪・雲州堂
2016年11月4日(金)岐阜・高山 Coffee&Music ピッキン
2016年11月5日(土)石川・金沢 もっきりや
2016年11月6日(日)富山・LETTER
2016年11月9日(水)神奈川・横浜 MOTION BLUE YOKOHAMA
2016年11月11日(金)宮城・白石 カフェミルトン
2016年11月12日(土)岩手・盛岡 九十九草
2016年11月13日(日)宮城・仙台 SENDAI KOFFEE
2016年11月27日(日)奈良・ビバリーヒルズ
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*本コラムは2015年4月18日に初回公開された記事に加筆修正しました。