先の大戦末期、米爆撃機B29に対抗すべく中島飛行機(群馬県尾島町=現・太田市)で設計されながら、戦況悪化で幻に終わった爆撃機「富嶽(ふがく)」。すでに見つかっているB29の1・5倍とされる大型爆撃機や、輸送機タイプなどの設計図に加え、新たに護衛用の掃射機の設計図が太田市内で発見された。中島飛行機創業者の飛行機王・中島知久平(1884〜1949年)は、富嶽を最終兵器を意味する「Z機」と呼んで起死回生を狙っていたが、掃射機の存在によって知久平が爆撃機を軸に各種富嶽が編隊を組み、米本土を目指す構想を立てていたことが裏付けられた。
陸軍と海軍で2種類の掃射機
見つかった掃射機の設計図は2種類で、作製は昭和18年。いずれも胴体腹部に400挺の機銃が縦列に装備されていた。2種類は、陸軍機を造っていた中島飛行機太田製作所と海軍機を請け負っていた同小泉製作所(現・大泉町)とで異なった大きさと用途を持っており、太田製作所の設計図は同年1月に作製された。装備された武器と想定乗員13人を含めた全備重量57・5トン、速度は最大時速543キロ。護衛機以外に巨大な機体を生かし輸送機としても期待されていたとみる関係者もいる。既に米国に制海権を奪われていた日本にとって、艦船に代え新たな兵員などを送り込む上で、輸送機が不可欠だったからだ。
一方、小泉製作所の掃射機は、太田工場より3カ月遅い18年4月の設計。全備重量90トン、乗員10人。上空1万3千メートルでの速度は最大時速800キロ、7・7ミリ機銃400挺か20ミリ機銃150挺が搭載可能。護衛専門で交戦時は機銃掃射で敵艦や敵機の力を削ぐことが想定されていた。