満州に日本人が残した名建築の数々。それは当時の内地(日本)をライバル視するのではなく、「世界」を目指したものだった。デザイン、アイデア、耐久性、利便性…世紀を越え、いまなお、現代中国で使われている建築物が多いのが何よりの証拠であろう。
担い手の中心は、満鉄(南満洲鉄道)の若き社員建築家たちであった。
日本の満州経営の中核となった満鉄は鉄道だけでなく、炭鉱、製鉄、ホテル、調査などの事業・業務を手広く行い、昭和12(1937)年までは、地方行政の担い手として学校や病院を運営していた。
だから、満鉄の社員建築家が手掛けた建築物も駅舎に始まって、各地のヤマトホテル、学校校舎、病院、図書館、社宅…と驚くほど幅広い。「満鉄建築」と称される建築物だ。
日本人が坂の上の雲を目指し、近代国家への道を猛スピードで駆け上っていたころ、満州は日本の「生命線」であり「ショーウインドー」だった。才能と夢にあふれた多くの若者が新天地を目指し、満鉄の建築部門にも東京帝大で建築を専攻した俊英らが続々と集まってきた。
名古屋大学大学院教授の西澤泰彦(建築史)が著わした「東アジアの日本人建築家」に興味深いデータが載っている。
満鉄設立時(明治39年)、建築を専攻する高等教育機関は東京帝大建築学科しかない。前身(工部大学校)を含めてもその全卒業生は100人前後であり、国の建築組織以外に大卒の建築家が複数所属している組織は珍しい。
数少ない例外であった満鉄には草創期に「4人」もの東京帝大卒業生が在籍していた。満鉄だけではない。日露戦争中の明治38年3月に東京帝大建築学科を卒業した卒業生13人中、5人が後に満鉄や朝鮮、樺太など日本統治下の外地で活躍したという。
西澤はいう。「外地はリスクもあるが『何か面白そうな場所』だったのでしょう。外地という意識も希薄だった。(満鉄本社があった)大連は地政学的にも、情報が集まるといった面でも『世界を見ることができる場所』でした」
「文装的武備」を体現
満鉄の若き社員建築家たちのリーダーとなったのが小野木孝治(おのぎ・たかはる、1874~32年)である。
東京生まれ。旧制一高から東京帝大建築学科卒のエリート。海軍、台湾総督府を経て、満鉄創設とともに建築部門の責任者として迎えられる。小野木に白羽の矢を立てたのは満鉄の初代総裁、後藤新平で、台湾総督府民政長官時代から部下だった小野木の仕事ぶりに注目していたらしい。
満州経営にあたり、後藤が掲げた有名なキャッチフレーズがある。「文装的武備」だ。つまり、軍事力・警察力による力ずくの統治ではなく、高度な文化・インフラ・生活を向上させることに重点を置き、世界に互していく街に発展させるというものだ。
都市計画、建築は、ハード面の基本中の基本となるものであり、建築ではそれが小野木ら若き建築家たちに託されたのである。