コンピューターゲーム黎明(れいめい)期に大きな役割を果たし、平成25年末にブランドが消滅したゲームメーカー「ハドソン」。今年は札幌市での創業から50年となる。家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」のソフトは当初、任天堂が自社で開発していたが、ハドソンは任天堂以外のメーカー参入の道を切り開き、業界の発展を加速させた。「高橋名人」で知られる全国キャラバンは、現在のeスポーツの源流の一つともいえそうだ。「ハチ助」のロゴマークで親しまれたハドソンとはいったい、どんな会社だったのか-。
メーカー参入の道開く
当時、ファミコンを遊んでいた子供たちがハドソンを知ったのは、「ロードランナー」と「ナッツ&ミルク」が発売された昭和59年のことだっただろう。ロードランナーのロードは道ではなく、「lode(鉱床)」のこと。炭鉱の中で敵の追跡をかわし、レーザーガンで穴を掘り、金塊を取って脱出するというパズル性の高いゲームで、パソコン向けの米メーカーのソフトを移植したものだった。
同人誌「ハドソン伝説」シリーズの著者で、自身もハドソンのソフト制作に携わったことがあるゲームデザイナーの岩崎啓真(ひろまさ)さん(60)によると、ハドソンは59年1~2月にファミコン用ロードランナーの開発を進め、3月に任天堂と交渉。参入を認められたハドソンは、任天堂にロム(カセット)の生産を委託することになり、その後、多くの会社がファミコンソフトに参入するモデルケースとなる。生産費用は前払いと決まり、ハドソンは社長の自宅を抵当にして捻出したという。そして59年4月に東京都内で開かれた「マイコンショー」というイベントで、資金の小切手を渡した。岩崎さんは「今に続くゲーム業界の基本的な形が生まれた瞬間だった」と指摘する。
ゲーム業界では、ゲーム機を提供する会社と直接の関係はないが、そのソフトを販売する会社を「サードパーティー」と言う。ハドソンはファミコン初のサードパーティーだった。ほぼ同時期に米国で売られていたアタリのゲーム機では、サードパーティーの粗悪なソフトにより人気が急低下する「アタリショック」が起きたが、日本ではナムコ、コナミ、カプコンなどが次々と魅力的なソフトを投入し、多彩なゲームが市場を活性化した。その後、ゲーム機メーカー同士の競争では、いかに有力なサードパーティーを囲い込むかが重要な要素となる。
開放的な社風に驚き
ゲーム制作者として63年からハドソンと仕事をした岩崎さんが驚いたのは、その開放的で自由な社風だった。例えば、他のゲーム会社の仕事をしたときは、その会社のオフィスを使う場合、外部のクリエイターは社員とは別の部屋に通されるのが普通だが、ハドソンでは社員と同じオフィスに招き入れられ、そこで仕事をさせてくれたという。
ハドソンはもともと、工藤裕司氏が札幌市豊平区にアマチュア無線の通信機器などを販売する有限会社として設立。店舗が若者のたまり場となり、パソコン(当時はマイコンと呼ばれていた)に詳しい人材らが集まったことで、ソフト制作にも参入した。親密な仲間でつくった地方の〝ベンチャー〟だったことが、自由な社風につながったとみられる。
「日本で初めてパソコンのソフトを外販した会社はハドソンだった」と指摘する岩崎さん。著書によると、ハドソン幹部が57年、取引先のシャープの工場(栃木県矢板市)を訪れた際、「懇意にしている会社(任天堂)のハードにベーシックを載せてほしい」と頼まれたのが、両社の縁の始まりだったという。前後して、裕司氏とともに会社を経営していた弟の浩氏が百貨店の丸井今井札幌本店でファミコンに夢中になっている子供たちの姿を見て、参入を決めたという。
シャープが仲介した案件は、後にファミコン向けの外付けキーボード「ファミリーベーシック」(59年発売)に結実する。
ゲーム史に「残すべき」
その後のハドソンの〝快進撃〟は、多くの人が知っての通りだ。テーカン(現コーエーテクモゲームス)のゲームを移植した「スターフォース」は、宇宙空間で戦闘機を操り、敵を撃つソフト。ハドソンは60年から「全国キャラバン」というゲーム大会を開催。スターフォースや、61年に発売された「スターソルジャー」などが対象となった。現在のeスポーツと異なり、1人用のゲームでスコアを競うことが多かったが、計10万人超が参加した年もあったという。ハドソンの社員だった高橋利幸さんらが「名人」として人気者になった。
日本有数のソフトメーカーになったハドソンは、NECが62年に投入した「PCエンジン」の開発に携わるなどゲーム機事業にも参入した。
しかし、岩崎さんが平成2年頃、再びハドソンと仕事をすると、職場の雰囲気は一変していた。会社が大きくなったからか、内向きで、組織の論理を優先するようになっていたという。
9年にはメインバンクの北海道拓殖銀行が経営破綻。ハドソンは東京に本社を移転し、新興市場に株式を上場したが23年、コナミデジタルエンタテインメントの完全子会社に。25年末にはブランドも消滅してしまった。
現在は「桃太郎電鉄」や「ボンバーマン」など、ハドソンが開発し、その後シリーズ化されたゲームに痕跡が残るだけだ。発売当時、4500円で売られていたロードランナー。都内の中古ゲーム店「スーパーポテト秋葉原店」では12月上旬、3千円超で販売されていた。中古ソフトとしてはいい値段が付いているのは、「人気と希少性の両方が高い」(小村和永店長)からだという。
岩崎さんは現在、ハドソン伝説の最新刊「ゼロ」を執筆中で、12月のコミックマーケットで販売する予定だ。ファミコンのソフトを出す前のハドソンについての内容だという。岩崎さんは「ゲーム史の中で、すごく大事な会社で、ちゃんと書いて残さなければならないと思う。現場でゲームを作った人たちのことを記していきたい」と話している。(高橋寛次)