右も左もない「読書バリアフリー」 芥川賞 の市川沙央さんが本紙に寄稿

芥川賞に決まった市川沙央さん=東京都内
芥川賞に決まった市川沙央さん=東京都内

作者と同じ難病の重度障害者女性を主人公として、健常者の特権性や多様性の意味を問いかける作品「ハンチバック」で第169回芥川賞を射止めた市川沙央さんが、産経新聞に「読書バリアフリー」について寄稿した。全文は以下の通り。

電気式人工咽頭という機器がある。手のひらに収まる筒状の機器の先を喉元に当てて口を動かすと、声帯を切除した人や気管切開していて発声できない人でも、電子音で喋(しゃべ)ることができる生活補助具だ。ステレオタイプの宇宙人の声のような抑揚のない音だが、コツを掴(つか)めば電話もかけられるほど明瞭に話せるようになる。現在でもさまざまな病気で声を出せない人がこの電気式人工咽頭を使っている。

元々は第二次世界大戦において戦傷を受けて声帯を失った人々のため、アメリカで開発されたものである。戦後の日本にも同様の戦傷障害を抱えた人は多くいただろうが、彼らに社会がどのように報いたのか私は知らない。

ご存知のように私は、「読書バリアフリー」を訴えている。半世紀ほど前、著作権者の意向により図書館の録音図書サービスが制限された時期があった。読みたい本を読む楽しみから遠ざけられてきた視覚障害者たちの中には、当然に戦傷病者や戦災で障害を負った人も含まれていたはずである。

バリアフリーには右も左もない。

芥川賞受賞会見は、私の言葉遣いが拙(つたな)かったせいでもあるが、ネットの一部からはお叱りの嵐を買った。いわゆる炎上である。但(ただ)し、私の元にまで直接リプライを飛ばしてくるわけではないので、わりあい奥ゆかしさを感じる嵐なのであった。揶揄(やゆ)、冷笑、反感、痛罵、そうしたご意見を虚空に投じる人々には、日の丸やサクラの絵文字を掲げているアカウントの方が多いように見受けられた。中には私を彼らと政治思想的に対立する者として見做(みな)す言葉も多々あった。社会的な主張を申し立てる障害者というだけで即座に自分たちの敵だとする感性は短絡にもほどがある。

十代半ばから月刊「正論」読者でもあった私のような筋金入りの人間に対して、読書バリアフリーを訴えるマイノリティな身体障害者という面だけを見て、こいつは反日だの、左の活動家だのと、ずいぶん皮相浅薄なことを言ってくるものだと悲しくなった。それ以上に、昨今SNSが媒介する社会分断の深刻さはまことに嘆かわしいものがある。こういう時代にこそ人の心に想像力を養う小説という文化の力を逞(たくま)しくしていかなければならないと、芥川賞作家としては多少しらじらしくても言うべきだろうか。しかし産経新聞を購読する賢明な諸兄姉におかれては、もとより誤解の余地もなく、バリアフリーそして読書バリアフリーには右も左もないということを理解いただけるものと信じている。

差し迫る国難を見据えなければならない時代に、右か左か敵か味方かをインスタントに判断して両極端に分裂したがる安易な分断現象をこのまま放置していてよいとは私には到底思えない。れっきとした国家の脆弱(ぜいじゃく)性だろう。人口減少の社会では、ただ一人の生きる力の取りこぼしもあってはならない。保守派の包摂的な寛大さと対話能力が今こそ我が国のために発揮されることを心から願うし、私も相互理解を試み続けていきたい。

いちかわ・さおう 昭和54年、神奈川県生まれ。早稲田大学人間科学部eスクール人間環境科学科卒業。令和5年「ハンチバック」で文学界新人賞を受賞しデビュー。同作で第169回芥川賞に決まった。

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