「殺人は決して許されないが…」
安倍晋三元首相銃撃事件の評価を巡り、メディアや交流サイト(SNS)で目立つ言説にそんな前置きから始まる言い回しがある。事件から1年を経てもなお目につくが、どうもうさん臭い印象をぬぐえない。
多くの場合、こんな本音が続く。「悲惨な境遇から犯行に走った気持ちは分かる」「埋もれていた問題が事件によって表面化した」。いくら前置きで予防線を張っても、テロリストと背景・動機を絡め、過度に意味を与えるのは危うい。共感することで結局はテロ容認に直結するロジックになってしまうのだ。
典型的な例は、安倍氏を殺害した山上徹也被告(42)=殺人罪などで起訴=の刑の減軽を求める署名活動だろう。賛同する声には山上被告への行き過ぎた共感や英雄視も含まれる。国民全体からすればごく少数に過ぎないが、その種の言説の罪深さは常識に立ち返るとよく分かる。
山上被告は確かに、母親が統一教会(現・世界平和統一家庭連合)に巨額献金を重ね、家庭や人生が暗転した。しかし不幸な生い立ちだからといって、接点すらない人を殺していいわけがない。苦難に直面しながらも真っ当に生きている人はいくらでもいる。
古今東西、独裁・圧政下においてやむにやまれぬ思いから決行されたテロを一概に否定はしない。ただ、民主主義が機能する現代の文明国で、非合法な手段で社会に問題を訴えるのは外道の所業だ。山上被告のようなローンオフェンダー(単独の攻撃者)の標的は要人に限らない。筋違いの憎悪を不特定多数の人々に向けるケースもある。無差別テロに自分や家族が巻き込まれても、犯人に憐憫(れんびん)の情を抱くのか。
既に山上被告に感化されたような現職首相襲撃事件も起きている。テロリストへの共感が禁物なのは、予備軍が社会の同調的な反応をみて「よし、自分も…」と凶行に及ぶテロの連鎖が生じてしまうからだ。
本紙連載企画「新テロ時代」で描いたように、かつて政党政治の腐敗や民衆の貧困といった時代背景の下でテロが吹き荒れた。
大正10(1921)年、特権階級との格差に憎悪を募らせた31歳の男が財閥トップを暗殺。1カ月後、18歳の男による原敬首相暗殺事件が起こる。財閥トップ暗殺犯を報道や世論はことさら英雄視した。これが連鎖を生み、戦前の昭和恐慌下における五・一五事件や二・二六事件といった軍の青年将校らによる政府要人暗殺の時代を誘発した。
大事なことだから何度でも言う。暴力の恐怖によって社会変革をもくろむテロリストのゆがんだ思惑を葬るには、社会が微動だにしないことに尽きる。
五・一五事件の裁判では、将校らの動機として憂国の情が語られる一方で、検察官が苛烈に罪を糾弾した。すると、事件に関心のなかった人々も巻き込んで将校らへの共感が広がり、刑の減軽嘆願運動が沸騰した。結果として誰も極刑に処せられず、社会不安は高まった。
翻って裁判員裁判で審理される山上被告の公判に一抹の不安を覚える。悠長なことに、初公判は「来年後半以降になる」(弁護団の一人)との憶測もある。蛮行の記憶が薄れる中で、旧統一教会に人生を狂わされた窮状が法廷で再び垂れ流されるのだ。
事実関係に争いがなければ、弁護人が情状面を主眼に置くのは当然だ。であれば、情状主張を淡々と受け止める社会の成熟こそが、テロの連鎖を断つ生命線となることを肝に銘じたい。 (社会部長 牧野克也)