世耕弘一は明治32年、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡敷屋(しきや)村大字西敷屋(現・同県新宮市熊野川町西敷屋)の生家に近い敷屋尋常(じんじょう)小学校に入学した。成績優秀で、義務教育を終えた後は敷屋村の小学校は尋常小学校だけだったため、隣の請川(うけがわ)村に設置されていた高等小学校に進んでいる。
学習意欲にあふれていた弘一は進学を希望した。熊野灘に面した新宮には県立第二中学校新宮分校が34年に設立され、2年後に県立新宮中学校に改称されていた。
「進学して勉強したい」
弘一は自らの気持ちを伝えたが、昔気質の父、佐七はにべもなかった。
「百姓に学問なんていりゃあせん」
こうして弘一は39年に高等小学校を卒業したが、進学を断念した。そして41年に新宮の富士久材木店に就職した。高等小を卒業してしばらく実家の農業を手伝っていたとみられる。
新宮は古くから木材取引の町だ。熊野地方の山奥で伐採された木材を搬出し、筏(いかだ)にして熊野川の下流へと流したため川の河口にある貯木場は筏であふれ、弘一はその貯木場で働いた。
「朝早くから重い木材を担いで運び、肩がはれ上がるほどの重労働でした。夜は夜で帳面の計算をして寝るのは真夜中になり、逃げ出す人もいたそうです」
元近畿大学建学史料室長の當仲將宏(とうなか・まさひろ)はこう話す。
勤勉な仕事が認められたのか、就職から6年後の大正3年、東京・深川(現・江東区)の大湊(おおみなと)木材会社に転職した。弘一は就職後も学業への志は断ち難く、中学講義録を取り寄せて勉強していた。このため東京で本格的に勉強できると喜び勇んで上京した。
大湊木材会社で働いた時代に「五色温泉の決闘」と呼ばれる武勇伝が語りぐさとなっている。
近大建学史料室発行の弘一の伝記「炎の人生」(田島一郎著)によると、会社は福島の湯治場で鉄道の枕木の大量受注に成功し、伐採も終えて駅まで搬送するだけとなっていた。ところが入札に敗れたライバル社が土地の荒くれ男を使って妨害に出た。会社は何人も幹部社員を派遣したが、交渉は不調に終わっていた。そこに抜擢(ばってき)されたのが20歳そこそこの弘一だ。行くと
侠客(きょうかく)風の強面(こわもて)がオノやノコギリを持った男らを従えて威圧してきた。
「妨害するなら、私からヤッていただきましょう」
弘一が体を張って啖呵(たんか)を切ると、若造とあなどっていた強面がひるみ、荒くれ男たちも引き下がった。こうして〈深川に世耕あり〉と評判になったという。
ただ、弘一は大湊材木会社を4年に退職した。働きながら夜間中学へ進学する希望を理解されなかったのが理由だ。(松岡達郎)=敬称略