知念清張・社会部文化担当
詩人・川満信一さんを知っていますか―。そう聞くこと自体が文化担当記者としては、失格かもしれない。
私が、川満さんと初めて、お会いしたのは10年ほど前。那覇市前島のビルにあった「瓦屋別館」というバーだ。雑誌「噂の真相」の元編集長の岡留安則さんがマスター。文壇関係者だけでなく、いろんな人が集っていた。
川満さんはいつも紺色の作務衣を着てカウンターに座り、物静かに、時には熱く世相や文学を語っていた。離島の視点から琉球の歴史を見ていたように思う。
私は当時、夜勤を終えてから通っており、顔を見るのは常に深夜。「80歳過ぎなのにいつも元気な先輩」というのが、失礼ながら当時の正直な印象だった。
その偉大さを知ったのは、今年6月に92歳で亡くなった後。10代前半に沖縄戦を体験し、20代から30代にかけては米軍占領と復帰運動のイデオロギーを批判、「復帰」後の40代以降は、沖縄の自立と共生の思想を追い求めた。1953年、当時の沖縄社会を直視し反米、抵抗の文学を目指した「琉大文学」の創刊に加わり、沖縄タイムス社で「新沖縄文学」編集長などを務めた。
追悼の声を聞くため、70年以上の付き合いだった新川明さん(93)を西原町の自宅に訪ねた。米軍払い下げのコンセットの寮で一緒だった琉大時代を「一つ年下で家が貧しく、アルバイトから帰って疲れて泣きべそをかく川満を励ました」と振り返り、実の弟を失ったかのようだった。
新川さんが発起人代表となりローゼル川田さんらが準備に奔走し...