だとしたら、「上級国民」とは誰か。これはアメリカでははっきりしている。
東部(ニューヨーク、ボストン)や西海岸(ロサンゼルス、サンフランシスコ)で金融、教育、メディア、IT産業などに従事する「裕福なリベラル」は、中流から脱落した白人たちを「プアホワイト」「ホワイトトラッシュ(白いゴミ)」と侮蔑し、「レイシスト(人種差別主義者)」として批判している(すくなくとも「白人至上主義者」はそう思っている)。アメリカの「下級国民」たちがこころの底から憎んでいるのは、富裕層や不法移民ではなく「知識社会のリベラル」なのだ。
『ジョーカー』は、アーサーが社会からも性愛からも排除されていることを執拗に描くことで、典型的な「下級国民」の人物像を造形していく。それはアメリカのリベラル(「上級国民」)にはきわめて危険で、受け入れがたいものに感じられるのではないだろうか。
映画のクライマックスは、アーサーに影響された市民たちが暴徒と化して街にあふれる場面だ。暴徒はピエロの仮面をかぶっているが、それが白人の集団であることは明らかだ。この場面でアメリカの観客は、「白人至上主義者」のデモや、白人で埋まったトランプの選挙キャンペーンの会場を想起するだろう。
ロバート・デニーロ演じるトーク番組の司会者を射殺したアーサーは、パトカーで警察署に連行されるが、その途中でピエロの仮面を被った男たちが救急車をパトカーに激突させる。意識を失ったアーサーは暴徒によってパトカーのボンネットに横たえられ、やがて眼を覚まし、立ち上がって優雅に踊りはじめる。
これは映画史に残る美しい場面だと思うが、その意味するところは明らかだろう。「下級国民」のアーサーは交通事故で死に、「下級国民の王」ジョーカーとして復活するのだ。
ポピュリズムというのは、「下級国民による知識社会(エリート)への反乱」のことだ。どこにも救いがない映画であるにもかかわらず、『ジョーカー』が日本でも世界でも大きな反響を呼んでいるのは、あらゆるところで「社会からも性愛からも全面的に排除されたマジョリティ」が増殖していることにひとびとが気づいているからではないだろうか。
参考:Lawrence Ware “The Real Threat of ‘Joker’ Is Hiding in Plain Sight” The New York Times
◆橘玲(たちばな・あきら):1959年生まれ。作家。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎文庫)、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)などベストセラー多数。新刊『上級国民/下級国民』(小学館新書)は12万部を突破。