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助詞でわかる!「星野源」歌詞講座

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※2024/11/25更新

私ほど長く星野源をやっていると、もはや顔や声だけでなく「文字」を見ただけで星野源かどうかわかるようになります。

私がもし、デスゲームの主催者になり日本中のミュージシャンと作詞家を全員集めて

「私をテーマに歌詞を書いてください」

と命令できる場合、誰がなにを書いたのかわからない状態で提示されても一発で「これは星野源が書いた私」と当てられる自信がある。おそらく最初のワンフレーズの時点でわかる、それほどに星野源の歌詞には名前が書いてあると言っても過言ではありません。

星野源の歌詞において唯一性、変態性が色濃く出ているのが「助詞」、いわゆる「てにをは」です。星野源が操る助詞を学べばあなたも星野源の一部になることができます。

(ここでは分かりやすく「助詞野源」とさせていただくことをご了承下さい)

『助詞でわかる!「星野源」歌詞講座』、それではやっていきましょう。

 

「に」

助詞野源の「に」は曖昧なものにハッキリと輪郭を与えます。

くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる/くだらないの中に

間違う隙間に 愛は流れてる/Pair Dancer

「くだらない」「間違う隙間」どちらも「愛」を語るにしては矛盾とも言える言葉です。それらを繋ぐ助詞を「で」や「から」ではなく「に」とすることで主語が愛ではななく「くだらない」「間違う隙間」になりその矛盾が逆転します。奥底にあるフワッとしていたものが形作られる感覚になり、「言ってることよくわからんけど…そうだよな!」と歌詞に恐ろしいまでの説得力を与えます。

また『くだらないの中に』の「人は笑うように生きる」は、普文章の意味だけを考えれば「人は笑い”ながら”生きる」のほうが通じるでしょう。

しかし「笑うように」と直喩を用いて、生きる→笑うではなく、笑う→生きる、生きているから笑うのではなく、笑うからこそ生きる、つまりただ生きているだけでは笑えるような楽しいことも嬉しいことも起きない、でも笑うように生きていればなにか変わるかもしれないという願いを込めていると感じました。私はこのフレーズは聴くたびに、彼が歌う「クソみたいな世の中」に対する「抗い」すら感じるのです。

エッセイ『よみがえる変態』のあとがきで助詞野源はこう綴っています。

世間を面白くするには、世間を面白くしようとするのではなく、ただ自分が面白いと思うことを黙々とやっていくしかないのだと。 

私もウンコしてウォッシュレットを使うんじゃなく、ウォッシュレットを使うためにウンコをしています。

 

「を」 

助詞野源の「を」は、その対象の当たり前を当たり前にしません。

夫婦を超えてゆけ/ 恋

数ある楽曲の中でもっとも代表的とも言えるこのフレーズ。初めてこのフレーズを聴いたとき、どんな感想より先に

「を!!?!??!?」

と叫びながらゲロを吐きました。「夫婦」と「越えてゆけ」のあいだに「を」を入れる作詞家が日本で何人いるでしょうか。

結婚、夫婦関係になることをいわゆる恋愛の「ゴール」にするドラマが多かったこの時代に助詞野源は重たい鈍器を振り下ろしました。

そう、夫婦とはただの新たな生活の「始まり」でしかない。ゆえに「夫婦”を”超えてゆけ」なのです。

私はこの助詞野源を聴いた瞬間「夫婦って超えるものだったのかよ…」とまるで頭に無かった新概念を提示された衝撃で彼が恐ろしくなり、イスから転げ落ち、気がついたら自分自身が星野源になっていました。

他の楽曲でも存分に「を」のトリックは使われています。

二人をいま歩き出す/不思議

「二人”で”いま歩き出す」とするのがセオリー。助詞野源は「人は一人」だとことあるごとに歌っています。人間は一人で生まれ一人で死ぬ。その前提があるからこそ「二人」が特別なものになる。ゆえの「を」なのです。

さよなら 目が覚めたら君を連れて 未来を今 踊る/Week End

これも「未来”で”今 踊る」ではなく「を」とすることで、それぞれの未来を強調しています。最初から2ではない、1と1が重なり2になると常に歌い続けているのです。

 

「も」

助詞野源の「も」は宇宙よりも遠く離れたものを繋ぎます。

遠い場所も繋がっているよ/Family Song

たとえ地上にいなかろうが、近かろうが遠かろうが距離、時間、生死すら関係なく、想い合えば人は繋がれることができるという燦然たる事実が「も」に込められています。

飯を食い 糞をして きれいごとも言うよ/ばらばら

「きれいごと”を”言うよ」とせず「飯」「糞」と「きれいごと」を「も」で繋ぐことでかけ離れた言葉と言葉に思えるこれらは実は地続き、同義なのだと我々に突きつけてきます。

 

「は」

助詞野源の「は」は、言葉のイメージを大きく変えます。

大人のふりをした 日々は繰り返した/KIDS

「日々”を”繰り返した」ではなく「日々”は”繰り返した」とすることでどこか他人事のイメージを受けます。つまり大人のふりをしている自分に対する違和感、それが「は」に込められているのではないでしょうか。大人のふりをしているのは本当の自分ではない、君といるときの子供になる自分こそ本当の自分なのだと。

日々は動き 今が生まれる/日常

「日々”が”動き 今”は”生まれる」でも成立します。しかし助詞野源は常に「日々」を主語にする。今の中に日々があるのではなく、日々の中に今がある。泣こうが喚こうが今は常に生まれ続け強制的に未来へ進んでいくことを悲観的になるのではなくただただ「事実」として捉えているのです。

僕らは消える愛だ/Snow Men

「僕ら”の”消える愛だ」ではなく「僕ら”は”消える愛だ」とすることで、愛が消えるのが決まっていたかのような、いや、そもそもそこに愛なんかなかったかのような印象を受けます。

例えば、生卵が床に落ちれば最悪です。しかし「生卵が床に落ちた」では単なる不注意ですが「生卵は床に落ちた」にすれば生卵が床に落ちるのは最初から決まっていたということになるので自分に責任はありません。

いやむしろ、自分たちこそが「愛」であり、人間は必ず死ぬ。つまり誰しもがいつかは「消える愛」なのだというメッセージなのかもしれません。

「の」を「は」に変えるだけ、たった一文字で曲全体の意味がまるで別のものになるのです。

 

「さ」

助詞野源の「さ」には「未来への願い」が込められていると私は推察します。彼が「だ」でも「わ」でもなく「さ」を使う時、海のように広い「優しさ」を感じるのです。

ふざけた生活はつづくさ/喜劇

いつまでも いつまでも奪えないさ/Ain't Nobody Know

未来なんてどうなるか誰もわからない。どうしようもないクソかもしれないけど、それでも信じてみてもいいんじゃないかという「希望」を強調している。聴く人にとってはある意味で「楽観」とも取れる表現かもしれませんが、この時代を生きていく上でこの「さ」は紛れもなく救いになる。特に『未来』での

一筋の光に 生温い 風の中 スタンドを 蹴り上げる 今日も生まれる未来さ/未来

この部分。この曲はタイトルどおり「今日も生まれる未来」というフレーズが3回出てくるのですが、唯一3回目で「今日も生まれる未来さ」と未来を強調しています。

前2回の歌詞を読むと分かるのは「〜消えていく記憶達」「〜さよならは誰にでも」は、抗うことのできない確定した「過去」に対しての「生まれる未来」という言い切りですが、3回目は「一筋の光に〜スタンドを蹴り上げる」という「不確定な未来」に対して「今日も生まれる未来『さ』」、ここに希望があるのです。

また、全く真逆のシチュエーションにおいても「さ」は使われています。

君を誇る事で 私は生きているって 呆れた本当さ ああなにもないな/Nothing

この一文の唯一と言ってもいい「救い」の部分が「さ」ではないでしょうか。この部分を「呆れた本当だ」にすると次文の「ああ なにもないな」が100%になってしまう。しかし「さ」とすることで、0.000001%の救い、まだ自分では認めたくない、信じていたいという「願い」を感じることができるのです。

私も仕事でヤバいミスをやらかした時はいつも「まだ負けてないさ」と自分の中にいる「イマジナリー源」を降臨させ、気持ちを奮い立たせています。

 

「と」

ここ近年の歌詞を読むと助詞野源の「と」に特別な想いを感じ取ることができます。

どんなことがあったって君と話したかったんだ/喜劇

「君”に”」ではなく「君”と”」とすることで、自分の話もするし、君の話も聴くという「他者と共に生きていく」ことへの尊さをより感じ取ることができます。

こんなシチュエーションが考えられます。例えば、仮に私が「ガッキー」だったとしましょう。ある日、仕事から帰ると源がソファで寝ていました。私は、源に毛布をかけてあげる。すると、寝ぼけた源が目を開け、私を見つめるのです。

私「あ、ごめん…起こしちゃった?」

源「ん、んー。なんか夢見てた…」

私「え?どんな?」

源「君”と”笑ってた夢」

うるせえええええェエエエエエエエ!!!!!!!!!

 

 

…このように、助詞に耳をかたむけて曲を聴き続ければ、いずれ「ミュージシャンの書いた歌詞のひらがなが暗闇の中から一文字ずつ浮かびあがる」という状況においてもすぐに星野源がわかるようになります。

 

さぁ、星野源をいま歩き出しましょう。

次回は『好きなFANZAでわかる!星野源講座です』