国家危急の際、大統領は秩序回復のため必要な措置を講ずることができる-。ワイマール共和国時代のドイツにあった「大統領緊急令」だ。大統領が立法府を兼ね、人権さえ停止できる強大な権力は、「全権委任法」とともにヒトラーの独裁を可能にし、600万ものユダヤ人の虐殺に帰結した。ドイツ近現代史が専門の石田勇治・東大大学院教授は説く。「最悪の場合、そこまで行き着くと心得ておくべきです」と。日本で緊急事態条項を突破口にした改憲論が高まる中、改めてドイツの経験に学びたい。
フリーハンド
男女同権など近代的な人権を明文化した先進的な憲法として評価が高いワイマール憲法は、しかし、あまりに無警戒だった。その48条は「公共の安寧と秩序」が脅かされた場合、大統領に「必要な措置を講ずる」ことを認めた。その定義は曖昧で、恣意(しい)的な解釈を許した。
大統領が立法権をも手にするという、フリーハンドの権力。「悪政に加担するような人物が大統領に選ばれるとは、残念ながら想定されていなかったのです」と石田教授は解説する。実際、1920年代には国内治安の悪化を緊急令で乗り切った「実績」があった。
33年1月、ヒトラーは首相の座に着くやいなや、時の大統領ヒンデンブルクを動かし、この緊急令を乱用した。翌2月、国会選挙戦のさなかに「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を出し、政府批判の集会やデモ、出版を禁止。同27日、国会議事堂が炎上する事件が起こると、ヒトラー政権は共産党の陰謀と決めつけ、数千という左派勢力を逮捕した。
この時の「国民と国家を防衛するための大統領緊急令(議事堂炎上令)」は言論、集会の自由や信書の秘密などの基本的人権を停止。地方政府の人事にも介入し、ドイツ全土の権力を掌握した。
違憲も「合法」
この議事堂炎上令、実は45年にナチ政権が崩壊するまで12年間も解除されなかった。「緊急」の解釈も期間設定もヒトラーに一任されていたのだ。石田教授は言う。「ナチ体制下、基本的人権はずっと制約され、そしてホロコーストにまで至りました」。大統領緊急令は「緊急」の体制を取りながら、その実、ヒトラー政権の基礎だった。「それが合法とされた。恐ろしいことですが…」
緊急令とともにヒトラー政権の基盤を成したのは、授権法だった。またの名を全権委任法。選挙戦で強力なプロパガンダと野党弾圧を行い、国会の過半数をナチ党など与党で占め、さらに議院運営規則を都合よく改正する周到な議会工作で反対勢力を封じ込め、無理やり成立させた。内容は-。
第1条 国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる。
第2条 政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる。(以下略)
三権分立も、憲法が権力の暴走を縛る立憲主義も、完全に無効化された。「ワイマール憲法は、改正も廃止もされていません。授権法と大統領緊急令によって、効力を抑えられていたのです」。カール・シュミットのような当代きっての国法学者が、合法性のお墨付きを与えた。「大統領は選挙で選ばれたのだから、大統領独裁も民主主義の枠内である、と…」
カリスマ待望
授権法成立の2日前、ベルリン郊外のポツダムで開かれた国会開院式、いわゆる「ポツダムの日」は時代を象徴していた。ナチ党など与党の議員に加え、第1次大戦で崩壊した旧プロイセン王国の皇太子や旧軍人が集結。会場はプロイセンの王が眠る墓所。そこに、帝政時代の軍人として国民的人気を集めた大統領のヒンデンブルクと、ヒトラーが並び立った。
「伝統の復活を演出したことは明らかでした」。その演出はナチ党の宣伝工作というよりも、ヒンデンブルク自らが用意し、大衆が受け入れたものだった。背景にあったのは「大国ドイツ」復活への願望と、カリスマ待望論。「人々はヒンデンブルクに過去の栄光を重ね、その下で新たな指導者ヒトラーの門出を祝う。そんな狙いがこの式典にありました」。実際、ワイマール時代の大統領は「代替皇帝」と称された。かつての皇帝が、議会と無関係に首相を任命する強大な権限を持ったように。
当時、ドイツでは議会制民主主義に対する信頼は必ずしも絶対ではなかった。民主的な憲法に基づいたワイマール共和国の発足(19年)当初は、確かに7割の国民が支持した。しかし直後、