本稿は、石牟礼道子が書き遺した『苦海浄土』および『みなまた海のこえ』を分析し、描かれた同時代の状況を参照しつつ、石牟礼道子が「水俣病事件」を戦うために、患者や支援者たちと結んだ「小集団」において、どのような語りが生成され、共同性が結ばれたかについて、辿り直す試みである。その際に、なぜ石牟礼道子が運動の核となるべき「市民」という概念から「死民」という造語を作り出さなければならなかったか、また、人間以外の狐を語りの軸に参与させたのか、水俣病患者や家族といった当事者とボランティアとを「風景を創る」という試みのなかでどのように捉えていたかについて、中心的に論究している。