本論は、マイノリティによって書かれた文学作品を研究するに際して、論者自身が経験した問題について報告するものである。具体的には、ハンセン病療養所の詩人・船城稔美(一九二三~二〇〇三年)を紹介する。二〇二三年、国立ハンセン病資料館は生前の船城が性的少数者であったことを公表した。かつての療養所では患者同士が結婚する際、交換条件として優生手術が課されており、その悲哀がしばしば患者たちによって文芸作品に詠まれてきた。本稿では、船城が手術の悲哀を詠んだ詩を採り上げる。マイノリティの中の更なるマイノリティの文学を研究する際、そこにどんな陥穽が存在するのかについて、かつて論者が発表した自説を批判的に検証するかたちで考察する。
膨大で複雑な大江健三郎の作品世界の中で、「傷」や「痛み」に対する鋭敏な感覚の表現は、その全体を貫く底流となってきた。脳に障害を持つ長男・光の誕生以降、それを一つの基点とするようにしてそれは現実世界への批判的眼差へと広がった。1980年代に入り、大江はこの「父─息子」関係の変化による危機からの脱出を『新しい人よ眼ざめよ』に描き、同時に作品世界中の女性の役割に重きを置くような変化を取り入れていった。『人生の親戚』はそうした変化の只中にあって、恢復不能とも思われるような厄災に襲われる女性を主人公の生涯の「物語」を通し、やがて『燃えあがる緑の木』三部作に結び付く「魂の問題」に取り組む足掛かりとなった重要な場所に位置する作品だと考えることができる。
「私小説家」に西村賢太がいる。西村の私小説は、かつて同棲した女性がモデルの〈秋恵もの〉、藤澤清造への心酔を語った〈清造もの〉に大別される。西村の父は性犯罪で実刑となり一家は瓦解した。この事件で負った西村の〈傷心〉が原点となり、ヴァルネラビリティが潜在する私小説を書く機制(メカニズム)が形成された。〈秋恵もの〉ではDVを働く〈暴力〉に、〈清造もの〉では狂気のすがりつきをみせる〈心酔〉に特性がある。いずれも自身の〈傷心〉を転化した作風であり、自らを戯画化し、「加害者」としての自己表象を根幹にしている。私小説は、主人公の「北町貫多」を作者の「西村賢太」に誘導するがゆえに自罰的な面を持ち、「ピカレスク」としての像を作り上げていく。しかし、それがまた〈傷心〉を昇華していく〈ケア〉としても働いた。西村において私小説と現実は「演じ演じられ」の関係となり、「私小説家であるための」人生を生き切ることとなった。
心に傷を受けた時、話を聞いてくれる人の存在は大きな支えとなる。その意義を踏まえつつ、本稿ではそれとは異なる関わり方について、村田沙耶香の『ハコブネ』から考える。まずは『ハコブネ』における「性」の模索というテーマを検討する。続いて、イヴ・コゾフスキー・セジウィックの『タッチング・フィーリング』の「ビサイド(そのかたわらで)」という前置詞と「修復的読解」をめぐる議論を参照する。そして、『ハコブネ』に散りばめられた船のイメージや「箱舟」という言葉を「修復的」に寄せ集めることで、「性」の模索のかたわらで、「そのかたわら」にいるということから生じる「つながり」が傷を負った人に変化をもたらすことに光を当てる。
従来の先行研究において、崎山多美「月や、あらん」は、元「従軍慰安婦」の「女」の声をどのように聴くか、「女」からの名指しを引き受けて「ドジン化」する高見沢の変容をどう捉えるかという点から論じられてきた。本稿ではこうした先行研究の蓄積を踏まえた上で、高見沢が「女」の声を引き出し、変容を遂げ、「わたし」が〈仕事上の引き継ぎ〉に着手するまでの過程全体に注目する。その上で、言葉を自在に操る者がトラウマの被害者から性急に声を引き出すことに潜む暴力性、「ヨミ」を通した「ドジン化」が引き起こす効果、「わたし」という存在が当事者なきトラウマ記憶の聴き手として生成されていくことを明らかにする。
津島佑子の小説『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』(二〇一六)は、一つは一七世紀前半期のキリシタン弾圧下の日本、マカオ、バタヴィア(ジャカルタ)を移動するアイヌの少女チカップと彼女が兄として慕うジュリアンの旅の物語、もう一つはそれを語る語り手自身の北海道の旅の物語という、二つの物語の糸が織り合わさる形で構成されている。本稿では東北・東南アジアの海域をめぐる旅の背後に浮上する、〈日本〉の領域と〈日本語〉を相対化する多声性や多様性について分析し、この二つの物語が、愛する人の〈不在〉とその喪失のトラウマ、そしてそれを癒そうとするケアの導きによってつながりを見出していく過程を考察する。
「火星の運河」(『新青年』一九二六・四)は、江戸川乱歩初期の掌篇である。テクストに現れる知覚に、視覚の優位性と色覚の不在の二つが見られることから、先行研究はサイレント映画との接続を論じてきた。しかし、これらの特徴は必ずしも映画にのみ存するのではない。本稿では、同時代の夢に関する言説を参照し、「火星の運河」の夢との重なりと相違とを確認する。同時代の夢は無彩色のものとして立ち現れ、その視覚は前景化する。本研究では、上述の背景を踏まえ、「火星の運河」において批判の対象とされてきた「夢オチ」の手法を、夢と現実とを切断しつつ、語り手の自律性が夢の側に残存していることを示唆するものとして捉え直す。
「夜明け前」における青山半蔵の立場は、発表当初の(転向)マルクス主義者たちによる評価言説に影響を受け、階級の枠組で論じられることが多かった。一方、近年の歴史学では半蔵のような豪農をそうした従来の認識枠組からではなく、行政機能としてどうあったかを検討する傾向がある。本稿はかような動向を踏まえ、半蔵の行政的〈代表〉という面に注目し、幕末-明治維新期の行革との関係からその立場がどのように変化し、半蔵にどのような影響を及ぼしたのかを検討した。また、これと絡めて半蔵個人と彼が傾倒する平田国学における〈代表〉観を分析し、それがテクストの書かれた一九二〇─三〇年代の社会においていかなる批評性を有していたのかを展望した。
三島由紀夫と澁澤龍彥の対談(一九六九)がきっかけとなって「1970年代鏡花ブーム」が始まった。澁澤龍彥「ランプの廻転」(一九七五)は、澁澤による鏡花論の頂点とも言うべき一篇である。鏡花研究の領域でも優れた評論として評価され、現在も各種書籍に再録され続けている。澁澤は、鏡花研究者らとの対話的関係から得られた視点に、当時最新の迷宮理論を加え、多層的な情報の錯綜の中から『草迷宮』の迷宮的構造を炙り出していった。それは、西洋の迷宮理論モデルに鏡花のテクストをそのまま当て嵌めるのではなく、鏡花のテクストの実態に合わせて理論の方を修正するものであった。その結果、「ランプの廻転」は長期間に渡って有効性を発揮し続けるものとなった。
すでにアカウントをお持ちの場合 サインインはこちら