第3弾は2023年のベスト本です。日仏織り交ぜて選んでいます。冬休みの読書の参考になれば幸いです。
柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店)
書物自体の刊行は2022年10月だが、こちらが読了したのが2023年1月だったため、今年のベスト本に入れる。『世界史の構造』(2010年)から12年の時を経て刊行された続編。しかし、ここに至る道は容易なものではなかった筈だ。綿密に構築された『世界史の構造』に比べ、今回は覚書のような形で終わっている箇所もある。また、誰にとっても謎であった「交換様式D」という形態も、結局は可能体のまま留まり続ける。斎藤幸平のような新世代の経済思想研究者が現れた現在、柄谷の思想がどこまで有効なのかは分からない。しかし、多くの謎を残しながらも、こうした思考を30年以上に亘って粘り強く続ける柄谷行人の軌跡は、やはり「驚異」と言わざるを得ない。
是枝裕和ほか(編)『いま、映画をつくるということ』(フィルムアート社)
早稲田大学で実施されている講義「マスターズ・オブ・シネマ」を一冊にまとめた書物。まず、豪華なゲスト講師陣に圧倒される。日本映画を牽引する映画監督(黒沢清、大友啓史、諏訪敦彦、青山真治ら)、大御所(中島貞夫、大林宜彦)、次世代を担う監督(深田晃司、三宅唱、大九明子ら)ばかりでなく、ベテランの脚本家(丸山昇一、奥寺佐渡子)、撮影監督(芦澤明子)、プロデューサー(関弘美)の生の声を聴くことができる。こうした授業に出席できる学生に対しては羨望の気持ちを抱かざるを得ない。惜しむらくは、照明、音響、装置のプロフェッショナルの方々がいないことだが、恐らくそれはまた別の機会に、ということなのだろう。少なくとも映画に関心がある人間が読んで損することはない一冊である。
今井むつみ、秋田喜美『言語の本質――ことばはどう生まれ、進化したか』(中央公論新社)
言語学を専門としない人間にとって、言語学関係の本で「面白い」と心から思えるものはなかなかない。しかし、これはその例外的な一冊ではないだろうか。オノマトペの機能の探求から始まる本書は、最初はよくある安易な解説本の一種かと思わせる。しかし、オノマトペが持つ様々な機能・効用・意味を稠密に探求して行きながら、言語との比較作業を通過して行った結果、最終的に「それでは、人間にとって言語とは何か」という壮大な問いに立ち向かうことになる。もちろん、そうした問いに簡単に答えが出る訳がないが、著者たちの研究成果の続きは是非とも読んでみたくなる。実に読み応えのある内容だった。
柄谷行人ほか『柄谷行人「力と交換様式」を読む』文春新書
2022年にバーグルエン哲学・文化賞(Berggruen Prize for Philosophy and Culture)を受賞した思想家柄谷行人。氏が同年秋に岩波書店から出版した『力と交換様式』を読み解く一冊。著者の講演、哲学者國分功一郎、経済思想家斎藤幸平などとからの質疑応答、さらには柄谷から知的刺激を受けてきた社会学者の大澤真幸の解説なども含む。
人類の経済活動の原理を説明する柄谷交換様式理論—A(贈与と返礼)、B(服従と保護)、C(貨幣による交換)、D(X)—も本書を読めば明らかになる。
[いまの私たちの社会]それを私は「資本=ネーション=国家」と呼んででおり、交換様式でいえばA-B-Cですが、その限界が近づいている。/ 現在の社会を越えるためには、現在の社会の内側から考えるのでは駄目で、別の社会のあり方を考える必要があります。それが四つのうち、最後の交換様式Dです。(同書p19.)
本書IIに収められている、「交換様式と『マルクスその可能性の中心』」は、2019年『文學界』12月号に掲載された講演記録であるが、文芸評論家としてデビューした柄谷のその思想の歩みを振り返り、なおかつその到達点とも言える『力と交換様式』を理解する上で、大変重要な記録である。
2023年に出された最良の柄谷行人入門と言える。
なお2023年春にその訃報が報じられた作家大江健三郎と柄谷との対談が『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』と題して、講談社から2018年に出されている。
渡名喜庸哲『現代フランス哲学』ちくま新書
本書は「はじめに」で記されてある通り、「1980年代以降の『現代』のフランスの中でどのような哲学や思想が展開していったか」(同書p.10)をまとめたフランス現代哲学への格好のガイドブック。「現代」の言葉に偽りはなく、現在40代で活躍中の多くの哲学者にも言及されている。
また、これも「はじめに」の言葉を引けば、英米圏の分析哲学と比較した場合、フランスで活躍する哲学者は「自分自身の置かれた『状況』や、自分自身がその中で被る『経験』をきわめて重視する傾向がある」(同書p.15)。つまり、それがいかに個人的であっても、社会のなかで生きて思索する経験とフランス哲学は切り離せない。そうした仏哲学を理解する手がかりとして、現代フランス社会の重要な出来事を知るコラムが随所に挟まれてもいる。例えば、1989年の「スカーフ事件」(p.133), パリテの哲学(p.190)、「フランスのデモ」(p.246)など。
もちろん、巻末には22ページにも及ぶ参考文献一覧が設けられている。そこに並んだほとんどの書物には邦訳があり、日本でフランス思想書を紹介してきた多くの研究者たちの長年に及ぶ努力の成果に胸が熱くなる。一方で、昨今の外国語教育の底の浅さを知るだけに、一介のフランス語教師として複雑な思いもした。
この先十数年にわたって、新書サイズでこんなに充実したフランス現代哲学入門書は出ないのではないかと思わせる、出色の一冊。
Claire Marin Les Débuts Par où recommencer? autrement, un département des éditions de Flammarion, Paris, 2023.
2023年の今年、同じ著者による『断絶』が、法政大学出版局より、社会学者の鈴木智之氏の手によって翻訳出版された。2019年にフランスで出版された同書は、その簡潔で流麗な文体による語りの力で、多くの読者に恵まれ、一躍クレール・マランの名を広めた。
日本でも同出版局よりいずれも鈴木氏の翻訳ですでに、『熱のない人間—治療せざるものの治療のために』(2016年)、『病い、内なる破局』(2021年)などが出版されている。実は、先に挙げた『現代フランス哲学』もマランをこう紹介している。
カンギレムが『健康』と『病理』を『規範』との関係で理解するのに対し、マランは自身が患っている自己免疫疾患の経験から異論を唱え、『病い』を自己の同一性を変容させる『内なる破局』として捉えるのです。(p.154)
自身の病の経験を核に思想を紡いできたマランは、「病」「喪」「断絶」などをテーマに思索を展開してきだが、ここに挙げたLes Débuts では、愛娘ミアの誕生とその成長もその執筆の重要な動機になっていて、そこには今までにない向日性が感じられる。
はじまりは、存在の出現、生きものの誕生のように、私たちを魅了する。未知のものに向き合い、私たちも生まれ変わり、あらたなものによって更新される。(キンドル版 p.36)
タイトルの「はじまり Les Débuts」が複数名詞となっているように、その思索はけっして単一の始原の探求へと回収されることなく、欠如、欠損や喪失がその都度あらたな開け、可能性を導き入れ、再びのはじまり recommencerが促される。全部で30の比較的短い章のような文章で構成される本書は、「はじまり」をめぐる豊かな思索の変奏曲(ヴァリアント)となっている。
近年は本を一冊最後まで読み通すことがあまりできなくなってしまいました。大体途中でやめて次の本にいってしまいます。内容として面白かったのは吉村昭の短編集「総員起シ」の中の一編「海の柩」なのですが、2023年は内容以前に「よくこんな本を作ってくれたな」と作り手側の偉業に感動、感謝する、というナナメな感想が多かったのでその視点から3冊選びました。
パレスチナ ジョー・サッコ 著 小野耕世 訳 いそっぷ社
10月7日のハマスの奇襲攻撃以来、報道が続いているパレスチナ問題に関連してネットで話題になっていた本書を購入した。漫画作品。私はジョー・サッコの漫画は1冊持っていたのですが、コメディとお色気の人なのかと勘違いしていて、このような社会派の漫画家とは知らなかった。
漫画家ジョー・サッコ本人が登場し、イスラエルの占領地へ行って、見聞きしたことを描いている。実録ものでありエッセイ漫画のスタイルである。この手法は「コミック・ジャーナリズム」とされ、彼はそのパイオニアだということだ。 内容に古さは感じない。「パレスチナでこんなことが起きていますよ」とまさに今SNSで伝わってくる動画と同じような出来事を描いているからだ。
一体、いつの出来事が描かれているのか、最近なのか?と思って調べたところ、1991年から92年にかけてとのこと。30年も前なのか。
作中でサッコはパレスチナ人の子供には「ユダヤ人か?」と質問され、サッコ自身は若いイスラエル人女性を目にして「かわいこちゃん」と思いながら「卑しく年をとった」自分を痛感している。このくだりでジョー・サッコなる人物の外見(一体どの人種に見えるのか?)と年齢が読者としては気になってくる。つまり彼はパレスチナに「潜入」している異分子なので、それがすぐバレる外見をしているのか、していないのかは、漫画を読む上で重要なポイントだ。即座にネット検索して調べた。
ジョー・サッコは60年生まれなので作中での年齢はだいたい30歳くらいである。アメリカ人で外見は白人である。出自は別に特殊ではないが長くなるので割愛する。気になる人は本書に載っているので読んでください。
私は自分がエッセイ漫画家をやっていて、読者にネットに出ている顔写真や年齢を調べられることを鬱陶しく感じているのだが「年齢と外見を情報として頭にいれないと実録漫画は読めない」のがよくわかった次第である。 オリジナルの「パレスチナ」の出版は93年からシリーズで開始され2001年に全1巻にまとめられ、日本語版は2007年に小野耕世の翻訳でいそっぷ社から出版された。
私が今回手にしたのは2023年1月(10月のハマス奇襲が起きる以前!)発行の特別増補版。巻末には「訳者あとがき」が2つもついている(2007年と2022年のもの)。 小野耕世先生とは実は2回くらい会ったことがあるので(別に親しくはない)「小野先生すごい!」「いい仕事してるんだな!」と感銘を受け、思わずこの仕事をされた時の年齢を計算した。そうすると小野耕世は39年生まれなので2007年には68歳くらいである。
まとめると、 1991年に30歳くらいのアメリカ人ジョー・サッコがパレスチナに行って漫画を描いて93年にアメリカで出版が開始され、95年に日本で小野耕世が「すごい漫画があるらしい」と気づき、2001年にアメリカで全1巻が出て、6年後の2007年に68歳くらいの小野耕世が日本語版を出した。
彼らの偉業のおかげで2023年に私はこの本が読めた。
ペレ マーティン・アナセン・ネクセ 著 服部まこと 訳 キネマ旬報社
1988年カンヌ国際映画祭グランプリ、1989年アカデミー賞最優秀外国語映画賞を獲得した「ペレ 」という映画があります。その原作小説「勝利者ペレ 」を和訳した本。
原作小説はデンマークの作品。 日本では無名。 80年も前(日本語版出版89年当時から見て)のプロレタリア文学。
等々、何重ものハードルを越えて日本語版の出版が編集者の熱意でもって実現したことが「訳者あとがき」で語られています。
訳者の服部まことは49年生まれなので「ペレ 」日本語版出版時は40歳くらい。
発行元のヴィ・シー・エー、キネマ旬報社、フランス映画社への感謝が訳者あとがきに綴られていて誠に熱い。
この熱い志、前年のカンヌグランプリ作品という商機で勝負して、この時代にどのくらい売れたのか知りたいです。
フランスの住まいと集落(建築探訪) 藤本信義 楠本侑司 和田幸信 共著 丸善株式会社
仕事のためにフランスの家屋の構造の資料を探していて手にした一冊。1991年発行。資料としては大変ありがたいんだけど、こんな本出して買う人がたくさんいるとは思えないし、そんなに儲からないのにどうして出せたんだろう、本当にありがとう出してくれて!こういう社会の豊かさって大事!と思えた一冊。
著者の経歴を見ると大学教授や財団法人の主任研究員で、この本は全14巻の「建築探訪」の12巻。他の巻のタイトルは「アフリカの住宅」「スウェーデンの住まい」「アメリカ木造住宅の旅」「沖縄の住まい」等々である。 学術書っぽくもあるが写真のページも割とあって、私のような素人にも一応読めるように作られている。 私は売れてなんぼの漫画出版に身を置く者なので、「売れる本=価値が大きい」という考えに染まりやすいのですが、「読む人は多くはないけど世の中に必要な本」があることを再認識しました。
じゃんぽ~る西
漫画家。2005年にパリに滞在した経験をもとにエッセイ漫画「パリ 愛してるぜ〜」をはじめとする三部作を発表。当時のフランスのリアルな日常を男性目線からコミカルに描く。その他、国際結婚と育児をテーマにした「モンプチ 嫁はフランス人」「理想の父にはなれないけれど」、フランス人ジャーナリストの妻の視点から日本を描いた「私はカレン、日本に恋したフランス人」、夫婦共著の「フランス語っぽい日々」。最新刊は「おとうさん、いっしょに遊ぼ2」(2023年)。祥伝社「フィール・ヤング」、白水社「ふらんす」で連載中。
雑誌「ふらんす」 2023年度全巻
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b622749.html#onsei
実は本というより、「ふらんす」のサイトにあるその時々の音声練習トラック。昔、挫折しまくったのに(要は何度も学ぼうとチャレンジするも数限りなくつまづく)希望はいつまでも捨てない良き性格が久しぶりに「ふらんす」のサイト『web ふらんす』を見たおかげではまった特集記事の音声練習データ。別売りCDがあるものの、このサイトへ行くと聞けるという手軽さでPC作業や音楽作業をしていない時に音楽のBGMように聞く。とは言え覚えるわけもなくただただ昔取った杵柄の少しを頼りに聞き進む。いやもうまったくわからない。だけど面白いのは聞くという行為が意外とすんなり心に残る。もちろん傍らには雑誌「ふらんす」あってこそなんですが。確かに、貪るようにフランス映画を観ていた時代、意味がわからずとも喜怒哀楽がなんとなくわかり、耳と目は脳に直結しているよなと感じていた感覚だけのあの時代を思い出しました。
わからないから、何度も聞ける。もちろんそこには白水社のフィジカル雑誌『ふらんす』 があってこそなんですけれど、そもそも内容も毎回興味深く面白い。1925年から続く『フランス語、文学、歴史、思想、映画、食、 人物評伝、エッセイ、アクチュアリテ』 そんな読み方楽しみ方もあるってお話でした。
斎藤幸平著 – ゼロからの『資本論』
2023年1月10日 発売
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886902023.html
コロナ禍、斎藤幸平さん著『人新世の「資本論」』を辞書とスマホ片手に何度も行きつ戻りつ読み、斎藤さんのトークショーや対談、ありとあらゆるできうる限りの著作や情報を探す。何度も読みわかったような、わからないような、手でつかんでも実態と感触のないままパンデミックが進む2021年のはじめ。NHKの人気番組でもある「100分 de 名著」で、4回にわたる『名著 カール・マルクス『資本論』を斎藤幸平が解説!過労死はなぜ起きるのか?』を見る。
まさにそれまで汗かきつつも読み調べ進めていたおかげでその文脈までも読み取れる番組内容に「この先が聞きたい、読みたい」と思っていた矢先出版された「大量加筆し、新・マルクス=エンゲルス全集(MEGA)の編集経験を踏まえて、“資本主義後”のユートピアの構想者としてマルクスを描き出す」、ソレが「ゼロからの『資本論』」でした。
授業で知る「カール・マルクス『資本論』」。政治や哲学的思想として学んだとて、その先を知ることも調べることもなく通り過ぎた事柄。(教える先生でも変わるのだと思うけれど)起きるクライシスを今ダイレクトに体験しているからこそ響く。個人的な熱き想いと主観、しかもこんな稚拙な文章で斎藤さんには申し訳なくも『人新世の「資本論」』やっぱり難しいよ〜と感じていたらコレ、ゼロからの『資本論』です。
Sakumag Collective – WE ARE LEARNING #こわがらなくてもいい世界へ
2023年11月23日 発売
https://sakumag.katalok.ooo/ja/items/73274
Sakumagは、ニューヨークを拠点に活動するライター、「Weの市民革命」著、佐久間裕美子さんが主宰するWeのための「行動にいざなう」ニュースレターとコレクティブです。その活動の中で生まれた「アクション」と「結果」をまとめた冊子がシリーズで3巻発売した「We Act!」。そして気候変動を考えた「WE ARE LEARNING #地球と生きるに一票」を経て、ジェンダーについて焦点をあてた「WE ARE LEARNING #こわがらなくてもいい世界へ」が最新刊、本書です。
以前友人のお母様から「ジェンダーって何?」と聞かれ、その質問までのナラティブが言葉の意味を尋ねるものではないムードに情けなくも上手く答えられずにいました。本書は私の無知だった部分も包み込み、佐久間さんも書かれていた『「ジェンダー」は私たちの社会全体の、そしてひとりのアイデンティティの大きな柱』が心に強く響き、文字追うごとに辛い現実を読んでも”こわがらなくていい世界へ”のタイトル通り未来が見える。
四人の専門家に伺ったお話から、イラストや写真、それに私が感じた昔の一件についても『ジャンダーにまつわる失敗談』で、この本をその時のお母様にプレゼントしたいと思ったほどです。最後には用語集もあり、ジャンダーって?と迷ったら手にとってみてとオススメしたい。
最後に、小見出しにある田中東子さん(東京大学大学院情報学環教授)の言葉、『小石を投げて少しづつさざ波を立てる。それが誰かの気づきのきっかけになればいい』。このFrench Bloom Netさんにこの事を掲載していただいたことがさざ波になればと希っています。
Small Circle of Friends & STUDIO75.
サツキ(佐賀出身)とアズマリキ(福岡出身)の2人。東京拠点に広く活動している。1993年ジャイルス・ピーターソン主宰、United future organizationのレーベル”Brownswood”よりデビュー。以来17枚のフル・アルバムをリリース。2005年にはサイド・プロジェクト「STUDIO75」をスタート。トータルプロデュースからbeat製作、BASI、maco marets、kojikojiなど。最新は12th AL『cell 』。サツキはリユーステーラー「75Clothes」展開。2024年13thALリリース予定です。音楽と服で毎日を暮らしています。
今年は文章に力、というか凄みのある作品が心に残りました。
『ハンチバック』(市川沙央)
今年の芥川賞を受賞して大きな話題となった小説で、冒頭で繰り広げられる過激な「コタツ記事」にまず驚かされますが、ずっと読んでいくと確固とした教養と知性の持ち主が書いた文章だということが実感され、ここ数年の受賞作のなかでもパワーが抜きん出た作品だと思いました。
『口訳 古事記』(町田康)
町田さんによる古典作品の口語訳はすごい、というのは前々から聞いていたのですが、この作品は暴力と権力欲がうずまく混沌とした神話世界と町田さん独特の「語り」が強烈な化学変化を起こして、読んだことのない古典の現代語訳となっていました。そしてとてつもなく面白いです。
『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』(村岡俊也)
今年訪れた美術展でいちばん心に残ったのは、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での『中園孔二 ソウルメイト』でした。高校生から突然絵を描き始め、2015年に25歳という若さで世を去った青年が残した膨大な作品が所狭しと展示された会場に圧倒され、再度足を運んだほどです。その彼の短い生涯を、彼の残した資料や周囲の人々の証言によりたどったこの本を読むと、何かに憑かれたように絵を描き続け、天才として高く評価されながらも、危険な場所へ足を踏み入れていくあやうい姿や人知れぬ葛藤もうかがわれて、胸が苦しくなるようでした。でも稀有な才能と出会うことができてうれしかった。
2023年は落ち着いて本を読むより報道の文章ばかりを読んで終わった。「神も仏もありませぬ」とぼやきたくなるような世界である。ドキュメンタリー映画で見た、第2次世界大戦中のワルシャワについてのエピソードを折に触れ思い出す。ゲットーの中では日々人が死に地獄の様相を呈しているが、通りの向こう側では普段通りの生活が営まれているーそして、今自分は「向こう側」にいて、何もできないでいる。
1. 『追悼 富岡多恵子「ここにいていいよ」と言われて五十五年 僕にとっては最高の人だった』
雑誌『中央公論』 2023年9月号掲載
関西人として密かに誇りに思っていたカッコいい才人、富岡多恵子氏の夫で現代美術家の菅 木志雄氏へのインタビュー(聞き手は島﨑今日子)。一回り年上のパートナーが87才で生を終えるまでが語られる。作家の晩年というきれいな話にまとまらず、筆を折った後の富岡氏の具体的な日常、老いや体の衰えについても話は及ぶ。書くことをやめた後も人生は続く。思うように体が動かなくなり、聞こえなくなり、歩けなくなる。そんな中、富岡氏はやがて来る死に向けて舵を切り、生活全般を支える夫のことを気遣うことなく「自らをしまう」ことに真っ直ぐ向かってゆく。その姿と、側でそれを見つめてきた菅氏のことを思い、粛然となった。
淡々と率直に語る菅氏の言葉の端々に富岡氏への思慕と敬意がにじみ出ていてたまらない気持ちにもなった。美大を出たての身で押しかけ同居を始めてから五十五年。関西人らしく時におちょくったりしつつもずっと隣にいてくれた、やわらかで聡明なパートナーの言葉や存在が今の自分を作ってくれた。その人の不在への戸惑いと喪失感を菅氏は隠さない。クローゼットには服がたくさん眠っているー着た時についた彼女の体の型が残ったまま。二人が過ごした歳月がしみじみ感じられる。
前半部分がネットで公開されている。一読をおすすめする。
https://chuokoron.jp/culture/123551.html
2. 『ハリウッドのルル』 ルイズ・ブルックス (国書刊行会)
サイレントのハリウッドを代表する女優、ルイズ・ブルックス。もはやカルチャー・アイコンとして独り歩きしている感がある。いい文章を書くらしいと噂には聞いていたが、実際に読んでみて驚嘆。お見それいたしました。歯切れよくウィットに富んだ文章に、人の諸相を的確に捉える観察眼、情景を細部まで再現しうる抜群の記憶力でブルックスが描き出したのは、若さとエネルギーに満ちたサイレント映画の黄金時代の現場だ。きらびやかなのはもちろん、時代の最先端を行く実験の場でもあった。代表作『パンドラの箱』を含む主演作の舞台裏を明かした文章はもちろん面白いが、アメリカ映画の正史に登場しない、ブルックスにとって忘れ難き人々について語る文章も、スターになってからもハリウッドに馴染めなかったブルックスの繊細な内面が見え隠れし印象に残った。楽しく読んだのは、映画界入りするまでを綴った一文。一流のダンサーとしての成功を夢見て中西部からニューヨークに出てきた文学少女の「パイ面ちゃん」が、都会の享楽の水に馴れ親しんでみるみる洗練されてゆくさまが活写されていて実に小気味よい。
いずれの文章も、映画界を離れてからサックスの売り子に身を落とすまでに落ちぶれた後、郊外で独り質素に暮らした老年の頃に書かれている。スター時代は目先のことに忙しく演技はもちろんスタジオで行われていたことなど一顧だにしなかったブルックスだったが、老いてから自分の出演作を芸術作品として鑑賞し、ハリウッドの頃の私とその周辺について振り返ることができた。このいい意味での「時の経過」が、清濁を受けとめるクールさと若かった自分が生きた時代を直視する勇気をもたらし、豊かな作品が書かれることになったのではないだろうか。巻末の解説で明かされる、ブルックスが抱えていた「秘密」には心底びっくり。
3. 『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー(河出文庫)
ガザで突然あのようなことが起こってから、パレスチナの作家カナファーニーの作品集を手に取った。とりわけ圧倒されたのが、故郷を追われ一夜にして難民となった子供時代の記憶を綴った短編『悲しいオレンジの実る土地』だ。これまで色々と読んできた中でも極めつけに恐ろしい作品だった。状況を掴みきれない子供として作者が生きた忌まわしいあの時のことを、読む側はその場にいるかのように追体験することになる。トラックに乗せられた後一気に押し寄せてきた極度の緊迫と恐怖、大人たちから立ち上る悲憤と絶望。平和な日常の象徴そのものだった畑のオレンジを置き去りにした時、明るい色の果実はもはや全く違う意味をもつものとなる。
日々ガザの惨状を伝える映像に接しその状況に慣れつつあるーそんな情けない時に読んだこの作品によって、何十年も前にパレスチナで起きた恐ろしい数日間に放り込まれ、悲惨と悲嘆の核に触れることができた。これもひとえにカナファーニーが子供として全感覚で記憶したあの時のことを、決して褪せることのない言葉に結晶化して残してくれたからである。言葉の力、文学の力を思い知る読書体験でもあった。
『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館新書) 橘玲
『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書) 三牧聖子
『訂正する力』(朝日新書)東浩紀
『きみのお金は誰のため: ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」 』(東洋経済新報社)田内学
2023年のフランス関連の新刊
『シャンソンと日本人』 (集英社新書)
生明俊雄著シャンソンがいかに日本のポピュラー音楽の礎となり、日本人の音楽観に影響を与えてきたか。100年にわたる歴史と変遷、そこに躍動するアーティストたちのヒューマンドラマにスポットを当てた初めての書。
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『エタンプの預言者 単行本』アベル・カンタン著
フランスでゴンクール賞ほか6賞ノミネート。白人男性65歳、元大学教師。リベラルで、しがらみのないインテリのつもりだった。まちがえた選択をし続けて65年。どうやら私は、社会から取り残されたらしい…
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『フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書』シャルル・ペパン著
『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』に続く、シリーズ第2弾。仏の人気哲学者が西欧哲学の真髄を明快に解説したベストセラー教科書。60人に及ぶ哲学者に言及しながら、「主体」「文化」「理性と現実」「政治」「道徳」といったテーマを解き明かす。
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『パリの空の下ジャズは流れる』宇田川悟著
フランスにおいて異質の音楽として出発したジャズが、どのように受容・発展・普及したか、そしてどのように、20世紀のフランスと世界の芸術と文化の王道を歩んだか。
https://amzn.to/49fgFY8
『おとうさん、いっしょに遊ぼ ~わんぱく日仏ファミリー! ~ 』じゃんぽ~る西著(フィールコミックス)
父として、そして漫画家として、「絵本」が子供を惹きつけるその謎を探るべく、「絵本考察」の旅に出る!?家族の日常を唯一無二の視点で切り込む、新感覚コミックエッセイ。
https://amzn.to/3PVJSjo
『フランス語をはじめたい! 一番わかりやすいフランス語入門』 (SB新書)
清岡智比古著フランス人について楽しく知れて、気づいたらフランス語が勉強できる、そんな新感覚のフランス語本。
https://amzn.to/48W1pPd
当サイト の管理人。大学でフランス語を教えています。
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