共感できないのに「わかる」と言わない。生きるのが楽になった工夫|朝井麻由美

朝井麻由美|「わかるー!」と言うのをやめた

「共感」が重視される風潮に、疲れを感じることはありませんか。

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は、“ソロ活”の第一人者としても知られる、コラムニストの朝井麻由美さんにご寄稿いただきました。

子どもの頃から「共感」が苦手だったものの、周りから浮いてしまうことがこわくて「わかるー!」の相づちで無理に話を合わせていたという朝井さん。その積み重ねにつらさを感じるようになり、あるときから「わかるー!」の代わりに、別の言葉を使うようになったそうです。

無理に共感するのをやめたことで、見える景色や人との付き合い方はどう変わっていったのでしょうか。

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私は「共感」ができない

いわゆる世間で言われる「女性の特徴」というものの8割が私には当てはまらない。その日一日あったことを聞いてほしいとも思わないし、美容院で髪を切ったことを気づかれたいわけでもない。

「女性は共感の生き物」もそうだ。ひとりひとり違った感性を持つ別の人間である限り、一挙手一投足に共感してもらえるとも思わないし、自分もできない。けれど、どうやら「女は共感を求めている」のだそうだし、そもそも男女関係なくコミュニケーション能力において「共感」は大切な要素らしい。

「共感」が本当に全てなのか……? コミュニケーション=共感って本当なの……? むしろ我々は「共感」に振り回されているところがありやしないか? 自身の体験から生じたこれらの疑問を、この文章を通して改めて考えていきたい。

私にも、かつては「共感しなければならない」と信じて疑わなかった時代があった。

小学校や中学校で定期的に訪れた「○○ちゃんって嫌な子だよね~」と言われるやつ。「わかるー!」と言わないとその矛先が自分に来ることがわかっていたから、例に漏れず「わかるー!」と言った。あれは嘘だ。たいていが、嫌いと思うほどには興味がなかったし、その子に何の感情も持っていなかった。

高校生の頃に、クラスの子たちがとある3年の先輩がカッコいいと盛り上がっていた中で「わかるー!」と話を合わせていた私。もちろんあれも嘘だ。そもそも当時、近眼なのにコンタクトも入れておらず眼鏡もしていなかった私は、その先輩の顔がよく見えていなかった。

けれど言葉とは不思議なもので、口に出すとだんだんそんな気がしてきてしまうのも事実だった。共感の言葉を発することで、その感情をインストールされ、機械のパーツをはめるかのように「嫌い」や「好き」という感情を持たされている感覚があった。

「共感」をベースに人間関係を“どうにかしていた”あの頃の私の中には、本心からそう思って発生した感情というのはどれくらいあっただろう。こういうとき、自分の意見を言える孤高の存在ならばカッコよかったのだけど、残念ながら私には、そういう存在になれるほどの強さはなかった。見よう見まねで周りに合わせるのが精一杯だった。

朝井麻由美|「わかるー!」と言うのをやめた

「わかるー!」を「私はこう思う」に変えてみた

あるとき、こうして生きているとどこかで無理が生じることに気づいた。思ってもいないことを言って、楽しくもないのに笑って、好きでもないものを好きと言っているのだから、そりゃそうだ。

私はもともと「人間関係リセット癖」がかなり強いタイプで、定期的に所属グループをコロコロ変えるところがあった。いわゆる学校内でのグループだけでなく、社会に出てからのコミュニティ的なものも同じで、トラブルなど何かきっかけがあったわけでもなくある日突然顔を出さなくなる、なんてことをよくしていた。ひとつのところにどうしても長くいられなかったのだ。

今思えば、無理に共感して、合わせて、その結果生じた濁りのようなものが溜まりに溜まって閾値を超えたときにリセットしていたのだろう。

このままじゃダメだ。そう漠然と思う中で、「無理をしない」「正直に生きる」を模索するようになった。

そんな中でやめていったひとつに「共感」がある。

私は「共感」をやめた。もちろん、最初は手探りだった。共感できないのに「わかる」と言ってしまうのを少しずつやめ、「私はこう思う」と主語を意識してコミュニケーションを取るようになった。

何が大きな転機だったのか、と言われたら、正直あまりよくわかっていない。たぶん、何らかのセンセーショナルな出来事があって、翌日から大きな転換があった、とかではないのだろう。そういうものがあれば“エッセイっぽくて”いいのだろうけれど、ないものはない。生きる上で徐々にそうなっていった。

強いて言えば、コラムやエッセイを書く仕事をするようになったから、なのだと思う。

実は駆け出しの頃、何かを書こうにも、自分の「好き嫌い」や「喜怒哀楽」があまりにもからっぽで愕然としたことがある。それは、長いこと自分に嘘をつき続けた天罰だった。中身のない「わかるー」を繰り返したせいだ。自分が何が好きで何が嫌いなのか、何に笑い何に泣くのか、自分で自分のことがさっぱりわからなくなっていたのだ。

それでも、この仕事をしていると、否が応でも自分の内面について考え続けざるを得なくなる。自分の中に確たる主張がないと、何も書けないからだ。

自己主張をする上でひとつとても大事なことがあるのも、同時に学んでいった。それは、「相手の考えを否定する意図はない」と丁寧に伝えることだ。

公私を問わず「共感」をやめた代わりに、具体的には以下の言葉を多用するようになった。

  • 「私は」それに共感はしないけど、理解はしたよ
  • ダメとかじゃなくて、自分の中にその考えがなくてシンプルに疑問だから教えて?
  • 「否定」しているわけではなく、あくまでも「私が」こう思っただけの話ね

自分の考えを言うときは、常に主語が自分であるかどうかを厳しくチェックするようにしている。あくまでも私の話であり、私がこう思うだけであり、他の意見があってもいい。その姿勢を徹底しないと、その主張によって傷つく人が必ず出てしまうから。

「共感」を捨てて、自分の意見を正直に表明する怖さはもちろんあった。自己主張というのは、自分の発言に自分で責任を取ることだ。その意見が世間とズレていたら、後ろ指をさされるかもしれない。「おかしな奴」と思われてしまうかもしれない。嫌われることだってあるだろう。

「私はこう思っている」という太い太い幹が自分の中にそびえ立っていないと、他人の顔色をうかがうことをやめられなかった。誰になんと言われようと、自分は自分。そう思えるようになって、ようやく私は共感の呪縛から解き放たれた気がする。

朝井麻由美|「わかるー!」と言うのをやめた

「人と違ってはいけない」から「違うからこそおもしろい」への転換

さて、「共感」をやめた私は、周りから友達が減ったのだろうか?

かつて、「共感」していないと輪からあぶれると思って、無理して必死に共感していたわけだが、やめてみてどうなったのだろうか、という話をしたい。

結論から言うと、周りから人が減るどころか、増えた可能性すらある。

思ったことを思った通りに言っても、意外と煙たがられることはなかった。むしろ、自然と気が合う人だけが周りに集まってくれるようになった。また、そういう私を面白がってくれる人も少なくない。「嫌なときは嫌と絶対に言ってくれる安心感があるから、付き合いやすい」「こっちも気を使わなくて済む」とすこぶる評判だった。

正直者ライフisハッピー。

それに、人と意見が違うことって、本来、面白いはずなのだ。自分の持つ感性ではその考えに到達しないけれど、他者の話を聞くことでそれを追体験することならできる。まあ、話を聞いて追体験したところでたぶん「共感」はしないのだけど、そういう考え方もあるのだなぁ、という発見にはなる。

仮に「共感」しないことで仲良くなれなかった人がいたとしても、それはそれでいいんじゃないかと思う。友達100人はいないかもしれないけれど、少ないながらも密度の濃い友達っていいものだ。

それでもときどき主張するのが怖くなるときは、いつもある言葉を思い出す。

「勇気あるマイノリティーを」

大学の入学式で学長から言われた言葉だ。人に合わせず、自分の本心を主張するのは、時にマイノリティーになるけれど、そこに勇気を持ってほしい、という意味である。当時、言われた瞬間にピシャーンと雷が落ちた……ならカッコよかった(し、“エッセイっぽい”)のだけど、じわじわとゆっくりしたペースでしか言葉をモノにできない私は、社会に出てしばらくしてから時間をかけてこの言葉を咀嚼(そしゃく)していった。

「意見が違う=敵」ではない

「わかるー!」をやめたことで、世界の見え方も変わったように思う。

「自分は自分、他人は他人」がほぼ完璧にできるようになったのは収穫だった。これ、言うは易く行うは難しの代表格ではないだろうか。本来、他人のことなんて自分とは無関係なはずなのに、人はなぜか他人と自分を重ね合わせて、自分と違うと思ったら批判してしまうことがよくある。

SNSで顔も名前も知らない誰かの行動に怒り、意見する。

友達が自分の好きな作品やキャラクターを「嫌い」と言っていると嫌な気持ちになる。自分が仲のいいAさんのことを「あの人(Aさん)苦手なんだよね」と言われると、否定したくなる。

そんな負の感情のやり取りが、毎日絶えずどこかで行われている。
他者と自分を切り分けて考えることは、それほどまでに難しい。

自分と同じ人間はひとりも存在しないのだから、自分と同じ見方で物事を見る人はいない。つまり、好き嫌いが一致しないことの方が、また意見が一致しないことの方が多いはずなのだ。冷静に考えれば当たり前のことなのに。

これって「コミュニケーション=共感」とされている言説の、悪しき影響もあるのではなかろうか。私たちは無意識に「共感しないとダメ」と思わされていないだろうか。

「意見が違うのは、敵じゃない」。みんながみんなこう思える社会になったら、きっと誰もが今よりずっと生きやすくなる。

……と、このように「私は」思うのだ。これを読んで、そう思わない、共感できない、と思った方がいたとしても、それはそれでいいのですと添えて、筆をおく次第でございます。

編集:はてな編集部

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著者:朝井麻由美(あさい・まゆみ)

朝井麻由美さんプロフィール画像

ライター・コラムニスト。「一人焼肉」「一人カラオケ」など一人を楽しむ生活を送るうちに、コラムの連載、書籍「『ぼっち』の歩き方」の出版など「ソロ活」の第一人者に。他著書に「ひとりっ子の頭ん中」。最新刊の「ソロ活女子のススメ」(大和書房)はテレビ東京で連続ドラマ化。テレビ東京「二軒目どうする?」出演中。
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