違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

終わりの始まり

人や組織が成功や成長を望む時、そこには必ずマインドセットがある。

 

マインドセットとは要は気の持ちようを意味するのだが、日本語としては価値観とでもなるだろうか、じゃあどんな価値観かというと自己啓発的なものだ。

 

具体的には、『目標を設定しろ』『努力しろ』の類だ。

 

大事なことは、マインドセットは直線的なものを描きがちという点だ。

 

もっと言うと、自分に都合が良いようにイメージを描きがちになる。

 

成功や成長の理想は右肩上がりの直線だから。

 

それが良いか悪いかはともかく、それでは通用しないことには目を向けなくなるようになるのがマインドセットに取り憑かれた人の特徴だ。

 

マインドセットは信念とも言えるが、限りなく洗脳されてる状態でもある。

 

マインドセットに取り憑かれると思考も直線的になる、つまり自分に都合が良いことは全肯定で都合が悪いことは全否定。

 

トランプ大統領やその取り巻きの振る舞いや発言を見ていると、現在のアメリカを動かすのはマインドセット脳だと感じる、その度合いは前回のトランプ時代を大きく超えてるように感じるのは、前回に比べて恨みや怒りの感情がさらに増幅されているのだろうと思ってしまう。

 

強烈なマインドセットはより一層ベクトルの一直線化を加速させるが、その裏で蔑ろにされるのが一直線とは相容れない流れや循環によって成り立っている営みや現象だとすると長続きはできるわけない。

 

 

現代は『終わりの始まり』であり『始まりの始まり』でもありそうだ。

 

AIが一般名詞になって10年

わたしの記憶ではAI(人工知能)が一般名詞として浸透し始めたのは2015年から2016年だった。

 

タイトルの中にAIと入った本が話題になっていた。

 

その頃は『AIって何だっけ?』、『ああそうだ人工知能だった』、そんなやりとりがされていた。

 

AI(人工知能)が何なのか、どういう働きをするかよりも、AIが人工知能であることを知ることだけで満足していた。

 

その後電子機器の裏方として機能してることが認知されるようになった。

 

スマホやカメラなどが急速に高性能化したのはAIが機能してるからだと納得するようになったが、肝心のAIについてはさっぱり分からないという人がほとんどだった。

 

その後コロナ禍があったり戦争が始まるなど世は混沌とし出したが、そんな頃に生成AIであるChatGPTが出た。

 

AIも良く理解できてないところに生成AIという新ジャンルが登場した。

 

それまでのAIと違って生成AIは裏方で働く存在から相棒に近い存在になったような気がした。

 

検索エンジンにいろいろ相談してもその結果に対して相棒のような信頼感や頼もしさは感じることはなかったが、生成AIに対してはそれが感じられるのだ。

 

常に正解やベストを提示してるとは思えなくても相談相手としては合格点がつけられるのだ。

 

技術を取り巻く世界は昔から日進月歩なのに加えて情報の陳腐化のスピードはとても速くなっている。

 

AIが一般名詞として認知されるようになって10年で、何となくであっても使ってる人にとっては擬人化された存在に近付いてるように感じられてるはず。

 

AIの進化は今後どのようなベクトルを描くのだろうか?

 

嫌われ者の末路は?

今日、米電気自動車(EV)大手テスラの株価が、昨年12月中旬に付けた史上最高値から2カ月半で4割安と急落しているというニュースが流れていた。

 

これまでもイーロン・マスクの行動や発言が株価や業績に悪影響を及ぼすことはあったが、これまではあくまでも自身が展開するビジネスに良かれと思っての行動に見えていたが、トランプ大統領の再選以降のイーロン・マスクを見てると自身のビジネスに対して興醒めしてるのではと感じてしまう。

 

テスラの場合は主要な顧客はエンドユーザーなのでイーロン・マスクが嫌われると業績に悪影響が生じるのは分かりやすいが、スペースXの場合は顧客は政府や企業なのでエンドユーザーの反応とは違ってくるだろうが、嫌われ続けるようになると政府や企業も離れるようになるだろう、嫌われる人と関係が密接な人は最後は嫌われるのが宿命だ。

 

さらに今日はトランプ大統領とゼレンスキー大統領の間に亀裂が入ったと思わせるニュースも流れていた。

 

トランプ大統領とイーロン・マスクは信頼関係で結びついてるというよりももお互いに相手を利用しようという思いがたまたま最高のタイミングで噛み合ったことで関係が成立したかもしれないが、そして互いに有能なディールの達人には違いないが、その分だけ敵も多いし嫌われてもいる。

 

嫌われることを恐れる必要がないくらいの大義名分があれば良いが、大義名分すら無い嫌われ行動の積み重ねがどのような結果に繋がるのか?

 

 

世界はどう反応するのだろうか。

 

値上げの後に起きること

米に限らず何でも値上がりする昨今、テレビで放送される外食の飲食番組を見ていて芸人やレポーターが「これが〇〇円なんて安いな!」と言うのを聞くたびに、そんなこと思ってる視聴者は誰もいないだろうと思っていた。

 

内心では高過ぎると思いながらも買う人がいるのは、その人なりの価値判断やここで使ったからあそこでは使わないという調整をかけているのは間違いない、と思っていた。

 

値上げがすべて正当化されかつみんながハッピーになんてなれるわけないと思っていた。

 

だとしたらそういう情報が出てくるのは時間の問題だろうと思っていた。

 

そうしたら予想外のところからそれっぽい話が出てきた、次の記事だ。

 

「1000円超えは当たり前」「牛丼チェーンのが安い」との声もあるが…。ココイチ「高級化で客数減」に見るカレー業界の“変容”

 

記事もおもしろいが、本当におもしろいのは寄せられてるコメントの方だ。

 

今だったら値上げするには良いタイミングだ、みんなが値上げしてるからどさくさに紛れるからだ。

 

どんなビジネスでも取り扱ってる商品よりも、どんな顧客層に支持されてるかが重要なのだ。

 

値上げをするならばそれを正当化できるだけの要素を顧客側に提示できなければただ単にコスパが悪いだけに過ぎない。

 

コスパが悪いと知りつつ買うのは顧客には屈辱以外の何者でもない。

 

元々高級を売りにして展開してたり、スペシャルな何かを提供してたようなビジネスならばコスパなどという壁にはぶち当たりにくいだろうが、そうでないビジネスは仕入れが上がったから値段を上げますというのは既存客を逃すことにしかならないだろう。

 

食費はケチるには限度があるからエンゲル係数なんて尺度が存在するが、他の分野にも名称こそついてないが似たような原理は働くはず。

 

いろんなものが値上がりするのはしょうがないと思われてるが、値上げの後に何が起きるか、今後どんどん情報が出るだろうが、かなりの時間差を経た後で現象が顕在化するかもしれない。

 

『達観』を意識しよう

21世紀に入るとデジタルと通信の組み合わせから避けた生活は送れないようになった。

 

携帯電話は使わないという人はごく稀にいるが、そういう人ですら生活の周りはデジタルと通信に囲まれている。

 

あまり興味や関心が無い人でも、これまでデジタルデバイスや通信デバイスやその関連コストにトータルでいくら掛けてきたかが分かるとゾッとするだろう。

 

どんなデバイスであれ購入時には一定の完成度があるが、確実に翌年には型遅れになる、まるで完成品だったものが実は不完全だったと知らされるように。

 

デジタルと通信が絡む分野ではハードウェア以上にソフトウェアも存在感をアピールしてくる。

 

一定の完成形としてリリースされるソフトウェアやアプリは日進月歩でアップデートが繰り返される。

 

アップデートが繰り返されたソフトウェアはハードウェアの要求水準を上げ、ハードウェア単体としては正常でもソフトウェアを動かすことができなくなり、アナログ時代のような『腕(=人間の実力)でカバーする』と言ったようなことが難しくなった。

 

つまり、デジタル&通信を背景に生まれるモノは永遠に完成しないので一つのものを大事にずっと使い続けるということが困難になると宿命づけられている。

 

もう少し抽象的に表現すると、完成形のように見えた『結果』ですら常に『プロセス』の途上に過ぎないのだ。

 

アナログの場合は『これで十分』という完成形が存在できたが、デジタル&通信の場合は『これで十分』は完成形ではなく妥協や諦めであり美しく表現するなら達観だ。

 

達観の対義語は執着や固執。

 

妥協や諦めと考えると残念感があるが、達観と捉えると悪い気はしない。

 

武士は食わねど高楊枝に通じる清々しい潔さすら漂ってくる。

 

軌道修正したいなら

久しぶりに養老孟司先生のYoutubeを見た。

 

以前はよく見ていたが気がつくと随分見てなかった。

 

Youtubeを開くと最近見てないのに養老先生の講演が上がっていたので見た。

 

久しぶりに見た養老先生の話はやっぱり新鮮で面白かった。

 

その中の一節。

 

以下は養老先生の言葉。

 

『皆さんのお腹の中に細菌ってどのくらいいるか知ってますか?』

 

『ぼくが学生の頃の学者は一億って言ってたんですよ』

 

『今は学者はなんて言ってるか知ってますか、お腹の中の細菌の数を』

 

『100兆ですよ』

 

『皆さん100兆の細菌を腹の中に抱えていて最近の流行りが何だか知ってますか?』

 

『除菌ですよ』

 

 

 

『みんな一緒に生きてるんですよ』

 

『どこまでが自分か分からないでしょ』

 

 

 

 

『みんな繋がってるんですよ』

 

 

 

以上のような話から始まったのは人は何のために生きるかというテーマ。

 

 

どのように生きるのが自分にとっての正解かは人それぞれだろうが、世の多くの人がきっとピントが外れたことに腐心してることを感じさせてくれる。

 

 

養老孟司先生の話は羅針盤のようだ。

 

人間とは…

生まれてくる赤ちゃんは母親のお腹で育つ際に人類の進化の歴史を超高速で再現してるらしい。

 

多分正しい話に思えるが、その通りならば原始時代の赤ちゃんと現代の赤ちゃんでは母親のお腹で過ごす期間は同じ十月10日だとしてもそこで繰り広げられてるドラマは大きく違うのかもしれない。

 

50年前の子供よりも今の子供の方が歴史の教科書の内容も50年分増えているであろうように、50年でも結構違いがありそうだが、それが数万年に、少なくとも数千年にはなるのだから。

 

 

それに加えてこの100年〜200年で人類はエネルギーやテクノロジーを使うようになったことで数万年に匹敵するくらいの生き方の変化の中にいると思うと、今という時代に生きていても世代が違えば結構違いが生じるのは不思議ではない。

 

大きな変化を遂げたものには食べ物や調理法もある。

 

身体的な変化や寿命の伸びは医学の発達というよりも食べ物や綺麗な水のおかげの方が大きく貢献してるように感じる。

 

重労働と表現すると奴隷的に感じるが、プロスポーツと表現したらまるで印象は変わる。

 

人間はもちろん全ての生き物の生きる目的は元々は生き続けて子孫を残すことだとされてるが、人間の生きる目的だけは大きく変化してるように感じる。

 

子孫を残すことよりも自分の幸せの方が大事な人の方が増えてそうだ、他の動物や生き物にも同じような変化は起きているのだろうか?

 

戦争をはじめ理不尽な出来事は一向に無くならないが、それらすら独り善がりな幸せ追求から生じているとしたら根は同じになる。

 

ロビン・ダンバーが唱えたダンバー数とは、人間が互いに良好なコミュニケーションを取れる最大数はおよそ150人という説。

 

これは今も昔も同じらしい。

 

一人一人が自分の幸せを最優先するとしてその際に自分と同様に幸せを考えてあげられる人は何人いるのだろうか。

 

 

多分人間は自分の幸せに関して悩む生き物になっている。

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