まずは、難しいことは考えずに、この動画を見てほしい。
ラーメンのスープをすすって一言。
「あーうめっ」
脇で、この近藤角三郎さん(96)の様子を見守っていた付き添いの金子智紀さん(25)も笑顔になる。
「ね?これでいいじゃないですか。この声さえ聞ければ、これでいいんだってわかるでしょう?」
近藤さんは1ヶ月前、半年の病院生活から退院したばかり。入院中はペースト食しか食べられなかった。
今は、神奈川県藤沢市の看護小規模多機能型居宅介護「ぐるんとびー駒寄」で一時滞在しながら、リハビリを受けている。
この近藤さんがラーメンを楽しむ姿を巡って論争が起きているのだ。
「夜中のラーメン」の動画が炎上
記者が近藤さんの取材をしてみたいと思ったのは、事業所を経営する株式会社「ぐるんとびー」の代表取締役で理学療法士の菅原健介さんがツイートした動画が炎上しているのを見たのがきっかけだ。
10日前までペースト食だった利用者の求めに応じて、深夜に、普通のラーメンを提供している。
この姿に、介護関連の専門職が批判の声をあげた。
病院でペースト食を指示されていたのに、ラーメンを食べさせたら誤嚥の恐れがあるという批判、深夜に救急搬送する事態になった時に病院も手薄なので危ないという批判、高齢者に深夜にラーメンは栄養的に不適切という批判が多い。
なるほど、専門職によるこうした意見ももっともだ。記者は批判した管理栄養士が、患者の希望を叶えるために食の形態を工夫して食べる楽しみを届けている努力もよく知っている。
でも、実際にラーメンを食べているこの男性の美味しそうな表情はどうだ。OKサインを指で作って喜んでいる。
自分だったら、「もう深夜ですし、ラーメンは食べることができないか今度検討してみますから、今は我慢してくださいね」と言われるのがいいか。それとも今、作ってもらって味わえるのがいいか。深夜のラーメンはうまい。
その後、Twitter上で対話が生まれ、利用者の「食べたい」に応えるための努力があったことを理解し合うところまで達したのもさすがプロだなと思った。
このやり取りを見て、私は俄然、興味を持った。まずは、深夜のラーメンがどのような経緯で提供されたのか知りたくて、取材を申し込んだ。
退院直前、弁当写真見て「うまそうだな」
神奈川県藤沢市、小田急江ノ島線の善行駅からタクシーで約10分。マンション1階に今年4月1日にオープンし、地域密着型介護福祉をうたう「ぐるんとびー駒寄」は、全面が窓ガラスになっていて、道ゆく人たちが中をのぞいていく。
「味噌バターラーメンが食べたい」と言う近藤さんの希望を叶えるため、この日は昼ご飯にラーメン屋に行くことになっていた。
私が到着した時は、新しく働く看護師が面接を終えるところだった。
菅原さんが、「これを見ておいてください」と映画『最強のふたり』のDVDを帰り際に渡す。車いす生活を送る大富豪の男性と介護人として雇われた移民の黒人青年が、破天荒な男性の要望に応じるうちに友情を育んでいくストーリーだ。
「僕ら、こっち寄りを目指しているんで。介護かどうかはあとで考えるようにしていますから」と菅原さんが言い、看護師も笑顔で頷く。
近藤さんがラーメンを食べるまでを知っている介護福祉士の斎藤恵さんが、5月1日の退院直前に菅原さんと病院に顔合わせに行った時のことを教えてくれた。
「病院からはペースト食の指示が出ていると聞きました。でも、近藤さんにうちのパンフレットを見せると、お弁当を食べている利用者さんの写真を指差しながら『うまそうだな』と言ったのが第一声でした。近藤さんの場合は、食が生きる意欲につながるのではないかと気づいたんです」
ペースト、歯茎で噛める食、潰したフルーツ 徐々に食形態を上げる
退院後、リハビリのために一時的に滞在することになった近藤さんの体の状態を、嚥下機能に詳しい看護師や理学療法士、介護福祉士らが評価し、「一段階ずつ食形態を上げていきましょう」という意見で一致した。
「本人の食べたいという気持ちを大事にしたい。病院のメニューは決められたものなので、それ故に食べる意欲が湧かなかったのではないかと感じました」
最初は、スーパーで売っているペースト状の介護食から始まり、歯茎でつぶせる軟らかさの介護食、麻婆豆腐、具なしのカレーライスなど少しずつ、形があるものを食べるようにしてもらった。
「半年の入院で体力も落ちていたので、最初は食べるうちに眠ってしまうぐらいでした。徐々に元気が出てきて、『フルーツ食べたい』とおっしゃったのが、食べたいものをリクエストしてくれた初めでした」
缶詰のみかんを潰して食べてもらうと、美味しそうにたいらげた。
すると次は「天ぷらそば」と言い出した。
「『そばかあ』とみんなで悩んだのですが、『カットしてみようよ』と誰かが言って、十分ふやかしたそばを短くカットしたものを食べてもらいました。ペロリと食べて、美味しそうでした」
退院から1週間後、斎藤さんが近藤さんと一緒に公園に散歩に行くと、突如、近藤さんが「ラーメン」「ラーメン」と連呼する。
「何ラーメンがいいんですか?と聞くと、『味噌ラーメン』と言う。連休中ですし、お店はどこも営業自粛中でしたから、『カップラーメンでもいいですか?』と聞いて、一緒にお店に買いに行って選んでもらったのです」
疲れて一度昼寝をした後、起き出してきた近藤さんにカップラーメンを出すと、全部食べ、スープまで飲み干した。
斎藤さんは、介護スタッフに「近藤さん、ラーメンを召し上がるから、食べたいとおっしゃったら作ってあげて」と保管場所を伝えておいた。
夜中のカツ丼、夜中のラーメンは生きる意欲の回復
しばらく経った日の深夜12時半、目が覚めて起き出してきた近藤さんは、スタッフに「カツ丼食べたい」と言い出した。昼ご飯で残したカツ丼の具の部分を冷蔵庫にしまっておいたのを覚えていたのだ。
夜勤中だった金子さんが電子レンジで温めて、ご飯をよそって盛り付けると、パクパク食べた。「うまい!」。わずか10日ほど前にはペースト食を食べていた人が深夜にカツ丼。介護の常識では考えられないことが目の前で起きた。
これで終わりかと思いきや、今度は3時半に起きてきた近藤さんが「カツ丼お代わり」と言い出した。「もうないですよ」と金子さんが言うと、「じゃあ天丼」と言う。
「天丼もないです。ラーメンだったらありますよ」と言って作り、3分の1ぐらい食べてもらったのが、あの「夜中のラーメン」の映像だ。
金子さんは、「夜中に高齢者にカツ丼やラーメンを食べさせるなんて健康に悪いじゃないかと言う方がいますが、今、やりたいことをやることが本人の意欲や自尊心を回復する。調整して1週間後に用意すると言っても、1週間後にラーメンを食べたいかなんて誰もわからないはずです」と言う。
「『そんなわがまま聞いていられない』と言う人もいますが、やりたいことをやれば落ち着いていく。本人が『夜中に食べると胃がもたれるな』と自分で気づいて、普通の時間に食べるようになりました」
そばで動画を撮って投稿した菅原さんも続ける。
「病院は治療するところであって、暮らしを楽しむところではありません。病院は誤嚥防止のために安全を最優先にせざるを得ないのでしょうし、訴えられるのは怖い。一方で、在宅は暮らしを楽しむところです」
「そして生きる意欲と機能は連動します。食べたい、とか何かをしたいという欲求、生きる意欲が湧くと、機能は上がる。病院は間違っていると言っているのではなく、病院と在宅は役割が違うということなんです」
近藤さんの主治医も、「ご本人が食べたいものを食べてもらっていいです。必要なら意見書を書きますよ」と、菅原さんたちの姿勢を支持してくれているのも心強い。
「目標の最上位は『ほどほどに幸せな暮らし』。『安全』ではない」
高齢者は誤嚥が肺炎につながり、命取りになることがある。
でも、安全ばかりを重視すれば、好きなことは我慢しなくてはならない。
今は新型コロナウイルスの流行でますますリスクがクローズアップされ、暮らしの楽しみよりも、リスクを減らす、なくすことが重視される世の中だ。医療機関や介護事業所であれば、家族からのクレームも怖いだろう。
多くの人の命を預かる介護事業者として、リスクの問題をどう考えるのだろうか。
菅原さんは言う。
「大切なのは何を目指すかだと思っていて、僕らの目標の最上位は、『ほどほどに幸せな暮らし』です。『安全』を最上位にはしない。ほどほど幸せが実現できるなら、安全性は最低限確保しながらも多少下げてもいいと思っています」
最初の契約の時に、本人と家族に「本人主体でほどほどの幸せを目指すので、リスクをある程度引き受けていく」ということを説明し、了承してもらっている。
「拘束しても安全を優先しなければならないことはありますが、100%の安全を求められるなら引き受けるのを断ることもあります。本人の望んでいないことを続けるのは虐待です」
「とはいえ、本人が転んだらほどほど幸せに暮らすことができなくなるし、今の時期にコロナにかかったら間違いなく死ぬ可能性の高い人もいます。マスクも用意し、手指消毒も徹底するなどリスクを最低限にする努力はしますが、食べたいものを食べてもらうために流行が収まっていたら外食だってしてもらう」
菅原さんは2012年、看護師の母が経営する会社で小規模多機能型居宅介護事業所を始め、15年に独立して「ぐるんとびー」を設立した。
独立直前に関わった中咽頭がん末期の男性(享年83)から言われた言葉が、事業方針の原点にある。趣味のプールにもう一度行きたいと言っていたが、病院からは「体力も免疫力も落ちているから」と止められていた。
男性は菅原さんにこう言った。
「人が死んでもいいと言っているのに、やりたいことを止めるのが医療や介護の仕事か。そんな介護や医療ならやめちまえ!」
想定されるリスクも覚悟の上で、一緒にプールに行って1時間ほど水中ウォークを楽しんでもらった。
「最高だったよ。これでいつ死んでもいい。ありがとな!」と男性は喜び、その1ヶ月後に旅立った。
「正しい」を固定しない 「〜もある」の精神で対話する
その男性の姿を胸に、菅原さんは、本人の希望を軸にスタッフが試行錯誤するのを、責任者として覚悟を持って引き受ける。
そのために、スタッフと常に共有している考え方が「正しいを固定化しない」「当たり前を疑う」「諦めずに可能性を探り続ける」ということだ。
そのために「MoR(〜もある)」と、うまくいかないこともあることを引き受けることを掲げている。
「リスクゼロを目指すと管理でガチガチになり、ほどほど幸せな暮らしができなくなります。ほどほどの幸せは、安心できる場所と信頼できる人がいることで成り立ちます」
「そのために、専門性を振りかざすことなく、全ての職種は対等な立場で本人のハッピーを創るために、違う意見の人と対話をしながら、余白をどう生み出すか考える。〜もあるを受け入れ、間違いをその都度、変更することも頭に入れながら、個別に『ほどほどの幸せ』をカスタマイズしていきたいと考えています」