カール・ユーハイム(1886〜1945)は、木の年輪をかたどったドイツ菓子バウムクーヘンを日本に伝えたドイツ人。老舗洋菓子メーカー「ユーハイム」(神戸市)の創業者だ。
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今から75年前、1945年8月14日の夕方6時前。神戸・六甲山上のホテルの一室で、ある菓子職人が59年間の生涯を静かに終えた。
「私は死にます……けれど、平和はすぐ来ます」
大きな安楽イスに埋まるように座っていた彼が、息を引き取る直前、妻に伝えた言葉だ。
まるで神のお告げを伝えるような、荘重かつ静かな口調だったという。
職人の名はカール・ユーハイム。木の年輪をかたどったドイツ菓子バウムクーヘンを日本に伝えたドイツ人で、老舗洋菓子メーカー「ユーハイム」(神戸市)の創業者だ。
2度の世界大戦と大震災——歴史の荒波に翻弄されても、職人たちは古きよきドイツ菓子の伝統を守り、安心・安全の菓子づくりを継承してきた。
創業100年を超える老舗は、激動の時代をいかにして乗り越えてきたのか。これまでの歩みをひもときながら、この先の100年を見据えた挑戦を、株式会社ユーハイムの河本英雄社長に聞いた。
第一次世界大戦で日本の捕虜に……全てはここから始まった。
ユーハイム夫妻。
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第一次世界大戦中の1914年、日本はドイツが中国に持っていた権益を狙って大戦に参戦。この年、山東省・青島を占領した。
この地でバウムクーヘンが評判の喫茶店を営んでいたカール・ユーハイムは、身重の妻エリーゼを残し、捕虜として日本へ連行された。
広島の収容所にいた1919年、捕虜の作った物品を展示・販売する催しが開かれた。カールもバウムクーヘンを出品。日本人は、木をかたどった見たこともない菓子を喜んだ。会場は県の物産陳列館。現在の「原爆ドーム」だった。
自分の菓子が受け入れてもらえそうだ ——。そう感じたカールは日本に残る道を選んだ。
その後、ユーハイム夫妻は横浜で店を開いた。ところが1923年9月の関東大震災が一家を襲う。店は倒壊し、カールは大けがを負った。残った財産はポケットに入っていた5円札一枚だけだった。
幸いなことに、妻と長男・長女は全員無事だった。一家は神戸の知人の家に身を寄せた。
「当時、外国人が多かったのは港町の横浜と神戸です。横浜が廃墟になると、外国人らは神戸へと移りました。カールも1923年、神戸1号店をオープンして再起を図りました。今に残る、神戸の洋菓子文化にも大きな影響を与えました」(河本社長)
そして、第二次世界大戦……またも「戦争」がやってきた。
神戸・三宮にあった「JUCHHEIM'S」1号店。神戸で最も古い洋館の一つだった。
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神戸・三宮にあった3階建ての洋館の店舗は、文豪・谷崎潤一郎の『細雪』にも登場し、神戸を代表する店となった。
だが、1937年7月7日に日中戦争が勃発。ユーモアにあふれ茶目っ気たっぷりだったカールは、開戦の知らせに大きくショックを受け、日に日にふさぎこむようになったという。
身体を病んだカールは一時ドイツに帰国するが、これと前後して祖国ドイツがポーランドに侵攻。1940年6月には神戸に戻ったが、翌年には日本も太平洋戦争に突入した。
神戸・三宮にあった「JUCHHEIM'S」1号店の内装。谷崎潤一郎の小説にも登場した。
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材料は手に入らず、菓子づくりもままならない。愛弟子の職人たちの元にも赤紙がやってきた。息子カール・フランツもドイツ大使館から召集され、出征。大戦末期の神戸空襲で、愛する店も焼け落ちた。
1945年8月14日、カールは六甲山上のホテルで妻に看取られながらこの世を去った。終戦の前日のことだった。
戦後、生き延びた愛弟子たちは「ユーハイム」を再興した。
戦後、夫に先立たれたエリーゼがたどった人生も波乱に満ちたものだった。
ユーハイム提供
夫に先立たれたエリーゼがたどった戦後の人生も、波乱に満ちたものだった。
祖国ドイツ、そして第二の故郷となった日本は敗戦国に。出征した息子はドイツ降伏の直前、オーストリアで戦死していた。
財産と工場は連合国側に没収された挙げ句、自身はドイツに強制送還されることになった。
それでも、カールが日本に根づかせたバウムクーヘンの灯は消えなかった。
戦争を生き延びた愛弟子たちは、資金を持ち寄って「ユーハイム」を復興。1953年にはエリーゼを再び日本に呼び寄せた。
1948年、ユーハイム商店の前にて。カールの愛弟子たちは、資金を持ち寄って「ユーハイム」を復興させた。
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一時は経営難もあったが、バターの仕入れ先だった河本春男氏(河本社長の祖父)を経営陣に招き入れ、再建に成功。これを見届けたエリーゼは1971年、神戸の地で息を引き取った。80歳だった。
以来、カールとエリーゼの遺志を引き継いだ「ユーハイム」は、年商300億円企業へと成長した。
時代は変わっても、バウムクーヘンのレシピは変わらない。
基本を守り、100年続くユーハイムの「バウムクーヘン」。親子3〜4世代にわたって愛されている稀有な菓子でもある。
撮影:吉川慧
ユーハイムの代名詞である「バウムクーヘン」。大きな戦争や関東大震災に翻弄されてもなお、創業以来レシピは変わっていない。
基本は卵、小麦粉、砂糖、バターの4種類。割合は2:1:1:1だ。
今では多くのメーカーやパティシエが創意工夫にしのぎを削る。駅の売店やデパ地下には、いくつもの店舗のバウムクーヘンが並ぶ。
そうした流行のものと比べると、ユーハイムのものは「しっかり」とした生地という印象を持つだろう。ただ、口に入れると、ほどよくしっとりとした食感が舌を包み込む。
甘すぎず、硬すぎず、それでいて口の中で生地がほどよく溶ける。基本を守り、100年続く素朴でやさしい味は、食べる人に安心感を与える。親子3〜4世代にわたって愛されている菓子でもある。
純正自然、昔ながらのドイツ菓子づくりを貫く。
株式会社ユーハイムの河本社長は「『自然に逆らわない』というドイツ菓子の考え方を重んじ、創業者のレシピを守り続けています」と語る。
撮影:吉川慧
ユーハイムが守り続けてきたバウムクーヘン、そしてお菓子づくりの哲学について河本社長はこう語る。
「バウムクーヘンをずっとずっと作り続けていく中で、『自然に逆らわない』というドイツ菓子の考え方を重んじ、創業者のレシピを守り続けています」
「1969年には『純正自然』の菓子づくりを目指す社内ガイドラインを作成しました。この『純正自然』こそがユーハイムの社是でした」
その上で創業者のレシピを変えず、時代ごとの職人たちは、よりおいしい菓子づくりの技術を代々磨き込んできた。
それは「大量生産、大量消費」のうねりが訪れた高度経済成長期でも変わらなかった。
「食品添加物が生まれ、世の中的には食品工場でも労働生産性を上げていくことが正義という風潮がありました」
それでもユーハイムは、創業者カールのレシピを守り続けた。
「ジャーマンコード」と呼ばれるドイツのお菓子づくりの基準でも「油脂はバターのみ」「膨脹剤を使わない」など、色々な約束ごとが記されている。
「もちろん全国にバウムクーヘンを届けるためには、添加物を使った大量生産が必要だという考えもありました。添加物を使えば、確かに生産性はよくなる。熟練職人でなくとも、同じ商品を安定的につくれるようになりますから」
「でも、それに前会長は疑問を持った。効率化によって、歴代の職人が受け継いできたお菓子の技術や感覚、味が失われることにアンチテーゼを持っていました」
撮影:吉川慧
より多くの人に、よりおいしいお菓子をつくるにはどうすればいいか。そこには「昔ながらのドイツの菓子づくりの思想がある」と河本社長は考える。
「自然の果物や穀物などを、よりおいしくする。それがドイツの菓子づくりの基本です」
これまでもユーハイムでは創業レシピを変えるのではなく、レシピに合わせてバウムクーヘンが生産できるよう、職人たちは知識と技術を駆使して道具や機械づくりに取り組んできた。
「安易に乳化剤や添加物に頼らず、しっかりとお菓子づくりを継承していこうという根底があります。創業以来の精神がずっと受け継がれてきた職人気質の会社だったことも影響していると思います」
職人がドイツの国家資格「マイスター」を取得するための社内制度もある。「本物」を作り続けるための企業努力だと、河本社長は語る。
「ユーハイムは『職人を大切にする』だけではなく『職人がベース』の会社ですから、菓子づくりの信念を曲げるようなことはやりません。お客様に安心して安全なお菓子を食べていただくためにも、職人の菓子づくりをサポートする姿勢を重んじています」
ユーハイム
2020年3月には、添加物を使わない「純正自然宣言」を発表した。
20年かけて、仕入れ元のメーカーの協力と職人たちの努力によって、「純正自然」を掲げるための難関だったコーティングチョコレートに使われていたレシチン(乳化剤という添加物)を使わないバウムクーヘンの開発に成功したのだ。
「自然に逆らわない」というドイツ菓子の考え方を実践してきたユーハイムにとっての悲願だった。
大切なのは「何のために菓子をつくるのか」と問い続けること。
撮影:吉川慧
今日までのユーハイムの歴史を振り返って、河本社長はその根底にある哲学をこう説く。
「これまでも、そしてこれからも、私たちはまず『お菓子が好き』であることを大切にしています」
「そして『菓子づくりを通して何をしたいのか』『本当においしいものを世の中に届けたいか』『何のために菓子をつくるのか』と問い続けています」
「何のためにお菓子をつくるのか。創業者、そして先代会長以来、ユーハイムでは単なるお菓子づくりではなく『世の中を平和にする』『世の中をよくする』ための菓子づくりをやっていこうという職人が多いです」
震災、バブル崩壊、コロナ禍……「100年続けば、いいときもあれば、悪いときも必ずある」
ユーハイム東京支社。本棚には菓子に関する古今東西の本がずらりと並ぶ。
撮影:吉川慧
そんなユーハイムにも、新たなピンチがやってきた。新型コロナウイルスの感染拡大——。百貨店の休業やお土産需要の低迷など、例年にはない機会損失が見込まれる。
それでも河本社長は「菓子職人にとってピンチはチャンス」と前を向く。
「100年続けば、いい時もあれば、悪い時も必ずある。その繰り返しです。悪いことを何度も乗り越えていく。それが“続く”ということなのでしょう」
1995年には神戸を襲った阪神淡路大震災があった。創業者のユーハイム夫妻と同じく、震災でまたしても菓子づくりが危機を迎えた。
「死ぬ気になって頑張らないと生き残れないぞという危機感がありました」と河本社長は回顧する。
「直前にはバブル崩壊もあり『こんなにおいしいのに、どうして売れないんだろう……』と悩み続ける日々も続きました。でも、そこで気づいたんですね。自分たちの魅力をちゃんともう一度考えて、お客様に伝えないといけない」
原点に返って、ユーハイムの哲学をもう一度伝えたことで、復活の兆しが見えてきたのだという。
「食の安心・安全を求めるお客様の声も日に日に増していましたが、私たちの菓子づくりの哲学や50年前から『純正自然』を目指してきた試みがうまく時代に合致したことも、復調の背景にあったと思います」
「世の中の価値観や新しい常識を学びつつも、自分たちの魅力を見失わないようにすることが大切なんだと思いました」
バウムクーヘンの里帰りを目指して……「世界にはお菓子がもっと必要です」
河本社長が見せてくれたお菓子の型紙を紹介する本。愛らしい姿の動物がたくさん描かれていた。
撮影:吉川慧
2019年からは、海外のトップパティシエと組んでバウムクーヘンの技術をヨーロッパに復活させようというプロジェクトを始めた。
意外な話だが、河本社長によると発祥国のドイツではあまりバウムクーヘンは食べられないそうだ。
「1900年代初頭には、ドイツにもコトブス、ドレスデン、ザルツヴェーデルが3大発祥地として賑わいました。ところが、二度の大戦と東西ドイツの分裂でバウムクーヘンは下火になったようなのです」
これらの地域は、いずれも東ドイツ地域。戦後は材料が手に入りにくく、菓子づくりには厳しい事情もあったようだ。
バウムクーヘンを1本つくるのにも専用の機械が必要。職人がつきっきりで生地をかけ、焼き続けなければならない。
「日本でバウムクーヘンが100年を迎えた年、コトブスではバウムクーヘン誕生から200年だったのですが、つくり手が途絶えてしまったんです」
「いまの日本は平和で、いつでもバウムクーヘンが食べられます。でも、ドイツを見ると100年後はどうなっているかわかりません。バウムクーヘンの灯を守り続けたい。ドイツでバウムクーヘンを復活させることも私たちの責任だと思っています」
「世界にはお菓子がもっともっと必要です。そして、もっともっとおいしいお菓子ができると信じています」
「平和」だからこそ、おいしいお菓子をつくることができる。そして、お菓子を食べられることは、平和の証なのだ ——。
ユーハイム一家とバウムクーヘンがたどった数奇な運命は、そう教えてくれているかのようだ。
カール・ユーハイムは生前、ユーハイム社員にこんな言葉をのこしている。
「平和を創り出す人たちは幸せである」
(取材・文:吉川慧)