すまりんの てくてく ふたり旅

部屋付き温泉のある素敵な宿と美食を求め 夫のすまきと全国飛び回ります!

山内一豊と千代の城✨現存十二天守「高知城」

すまりんたちは南国土佐の高知城にやってきました!

江戸時代から残る現存天守は 東北に1つ 中部に3つ 近畿に2つ 中国に2つ…

北海道と関東と九州はゼロなのですが 四国にはなんと4つも残っています✨

高知城はそのうちのひとつになります(^_-)-☆

それにしても 雲一つない青空に恵まれ お城も映えていますよね✨

 

高知城の案内パネル

 

今に残る高知城の歴史は 山内一豊からはじまります

その生涯は 司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名になりました

「功名が辻」は 2006年にNHKの大河ドラマにもなりましたね(^_-)-☆

上川隆也さんが 山内一豊を...

仲間由紀恵さんが 妻の千代(見性院)を演じられました

 

追手門の脇にある 山内一豊公の銅像✨

戦国時代 土佐から興って四国を統一した長曾我部氏は 豊臣政権下で土佐一国を安堵されましたが 関ケ原では西軍に属して取り潰されてしまいます

 

その後に土佐を与えられたのが 山内一豊でした

 

信長配下の武将 羽柴秀吉の部下として仕官するところから立身出世の道を歩み始めた一豊は 秀吉に従って数々の戦で手柄をあげ 豊臣政権下では遠江掛川5万1000石の大名となりました✨

関ヶ原の折には 下野国小山における軍議(小山評定)で豊臣恩顧の諸将が東軍西軍への去就に迷うなか 一豊は東海道を大坂へ向かうための一拠点として 真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し その歓心を買って東軍にくみしました

その功で 一豊は土佐国 20万2600石の国持ち大名に出世することになったのです✨

 

高知市は土佐の中央にあって 浦戸湾という天然の良港を備えた要地なのですが 河口デルタの低湿地で水害が多発し 長曾我部元親も本拠地としようとしながらあきらめた土地でした

一豊は家臣団や子供まで人足として活用し 湿地を埋め立てて築城を急ぎました💨

すべてが完成したのは一豊の没後 二代目藩主の忠義の代だそうです

 

城は はじめ一豊により「河中山城(こうちやまじょう)」と名付けられましたが 水害の土地に"河中"では縁起が悪いということで「高知」と改名されました☝

 

もうすぐ桜の季節🌸 追手門の前にはぼんぼりが飾られています

天守と大手門(追手門)が共に現存している城は 弘前城・丸亀城とこの高知城だけ!

さらに天守と大手門をセットで撮影できるのは 高知城と丸亀城だけです

 

弘前城と丸亀城のお話はこちらをご覧ください(^_-)-☆

 

逆さ富士みたいに「お濠に映る追手門と天守」を写そうと思いましたが... 

天守は首の先しか見えていませんね^^;

 

重要文化財の追手門櫓門

土佐一国の主にふさわしい重厚な門です✨

 

追手門に加えて 左右に続く矢狭間塀も重要文化財に指定されています✨

矢狭間塀にはユニークな仕掛けがあるようです...

大筒狭間に転用できる「潜戸(くぐりど)」が設けられていたり 虎口脇には「武者隠し」が設けられています

追手門を破って侵入した敵は まず矢狭間塀の裏にいる守備側兵士の制圧にかかると考えられますが その敵を迎え撃つ構造と考えたらよいでしょうか…

 

天守を見上げるお城山への登り口には板垣退助の像があります

「板垣死すとも自由は死せず...」

 

石垣から雨水を逃す石樋(いしどい)の遺構がありました

石垣の上部ではこうなっています⤵

雨の多い高知県…

石垣は水を含み過ぎると崩れる可能性があるので排水には気を配らなければなりません

 

階段を登りきった「杉ノ段」に 山内一豊の妻 千代の銅像がありました

すまりんの頭の中では 千代は完全に仲間由紀恵さんに同化されています^^;

「山内一豊の妻 千代」は良妻の見本とされます✨

ある時 一豊が馬の市に出かけると 見事な名馬が売られていました🐴

欲しいと思いましたが とても買える値段ではありません💦

あきらめて家に帰り 千代に話したところ...

千代はひそかに蓄えていた十両大判のへそくりを渡して 一豊に馬を買わせたということです(^_-)-☆

ドラマでも この場面は たしかありましたね!

やがて 馬揃えの際に一豊の馬が信長の目に留まり それが元で一豊は加増されたということ...

 

ところで 千代の出身地は岐阜県の郡上八幡とされています(諸説あります)

その縁で 郡上八幡にも千代と一豊の銅像が建てられていますが やっぱり馬と一緒でした

 

高知城のお話に戻ります...

杉ノ段には 井戸がありました

城内には14の井戸があったそうですが この井戸が一番水質が良かったので 藩主の住まう二の丸御殿ではこの水を使ったといわれます☝

 

杉ノ段から見る 三ノ丸の石垣

 

高知城は梯郭式の平山城です

梯郭式の縄張りでは 本丸は偏った位置に配置されます
断崖や湖沼などに面していて そちらから攻めるのが難しい城に採用されます

 

高知城でも本丸が外郭に面しているので 天守の近くまで来れますが 高い石垣に阻まれてしまいます

本丸に行くには ここから右まわりに三ノ丸・二ノ丸を抜けていかなければなりません

 

鉄門(てつもん)跡を越えて 三ノ丸へ...

※本丸にも 黒鉄門(くろがねもん)があるので混同しないように注意です!

 

正面に「詰門(重要文化財)」が見えてきました

右が二ノ丸  左が本丸の石垣で 二ノ丸と本丸の間の堀切を塞ぐ門であると同時に 二ノ丸から本丸に渡る橋の役割を果たしています

 

ずいぶん天守が近づきましたが 本丸へ行くには また一旦天守から離れる方向へ進まなくてはいけません💨

高知城の天守は 山内一豊が転封してくる前の居城だった「掛川城」のものを模したと伝わります

 

ちなみに こちらが掛川城の復元天守⤵

この時も青空に恵まれ お気に入りの1枚です(*^^*)

たしかに高知城と雰囲気が似ていますよね...

掛川城の天守は 1854年の安政東海地震で倒壊して以来再建されませんでしたが 平成6年に木造復元天守として再現されました✨

その際には逆に 現存する高知城の天守を模して復元されたそうですよ(^_-)-☆

 

 

二ノ丸まで登ってきました!

二ノ丸からさきほどの詰門を見たところです⤵

下が門で 上が渡り廊下の橋になっています

 

いよいよ詰門を渡って 本丸に行きます

高知城の本丸は 江戸期の建造物がすべて残っているという大変貴重な場所なので 城マニアのすまきは大興奮です!

本丸御殿は 「懐徳館」という名が付けられて保存されてきました

 

詰門の内部には いくつも部屋が仕切られています

家老たちがここに詰めて藩主に伺候したので「詰門」といわれたそうです

 

本丸に入りました

今に残る多くのお城は 本丸に登れば石垣からの眺望が見晴らせますが 本来はこんなふうに櫓や塀で囲まれた空間だったのだということがよくわかりますね

 

こちらが「本丸御殿(重要文化財)」の入り口 式台玄関です⤵

 ※式台は玄関の上り口に設けられた板敷のこと

格式高い式台玄関は 本来高貴な人のみが使用する入り口です✨

入場料を払えば誰でも玄関から御殿に入れるようになったのは 今の世の中だからこそですね(^_-)-☆

 

大河ドラマに使用された 千代の打ち掛けが展示されていました⤵ 

仲間由紀恵さんが着用されていたものです✨

 

本丸の限られた敷地内に コンパクトに「御殿」がおさめられています

江戸時代からそのままの姿で城内に現存する「御殿」はたったの4つ…

川越城・掛川城・二条城と この高知城にしか残されていません

そして本丸御殿が残るのは高知城だけなのです✨

 

山内家の家紋「三つ柏」

柏の葉は 次の若葉が出てから落葉するため 子孫をつなぐ縁起の良いものとして 武家に好まれました

土佐藩の岩崎弥太郎が三菱を創設した時 この家紋をヒントにスリーダイヤのマークを作ったのは けっこう有名な話ですね(^_-)-☆

 

こちらは御殿に付随する「納戸蔵」(重要文化財)

 

鴨居が低かったです

すまきの身長は176㎝(←おおよそで"175㎝"と言ったら訂正してきます💦笑)ですが 外国人の観光客には大柄なかたも多いので 頭上注意ですね!

 

外された欄間が展示されていました

 

こちらが有名な「うちわけ波の欄間」です⤵

ものすごくモダンですよね✨

なんとなく 土佐の鯨の潮吹きを連想してしまいました🐳(笑)

そういえば...

土佐藩最後の藩主 山内容堂公 もこの御殿を愛用されていて ご自身を「鯨海酔侯」と号されていましたが 本当に何か関係あるのかな?

 

御殿の庭からは 塀越しに高知城下を望むことができます(*^^*)

本丸の限られた空間にキチキチに建てられた御殿なので 縁側から塀までが近いです

 

塀には物見窓が設けられ 御殿からこっそり城下の様子をうかがえます...

 

外側から見るとこんな感じです⤵

 

こちらは 縁側から上段の間を見たところ

山内容堂公の詩(複製)が掛けてありました

 

格式高い格天井に 床の間・違い棚... 典型的な書院造りですね✨

 

奥に見える扉は 帳台構え

小部屋になっていて警護の者が詰めたことから「武者隠し」とも呼ばれます

 

廊下をはさんで 雪隠の間(トイレ)がありました

こちらは藩主専用のものになります

 

上段の間の裏側から すぐに天守に入ることができました

天守の内部には お城の模型が展示されていました

冒頭で触れましたが 高知城天守は 現存12天守のひとつ✨

外観は4重  内部は6階建て...

入母屋造りの屋根の上に高欄付きの望楼をのせた「望楼型天守」で 重要文化財に指定されています✨

一般に天守の形式は望楼型から層塔型に進化していったので 高知城天守は古いスタイルを残す天守ということになります

けれど 高知城天守の建設時は すでに層塔型がトレンドの時代だったようなので 山内一豊にはこだわりがあったのかもしれませんね(^_-)-☆

 

窓から外をのぞくと 詰門と二ノ丸が見えました

 

石落とし

外から見るとこうなっています⤵

 

他にもいろいろな資料が展示されていました

高知城の階段も かなり急勾配です

最初の天守は 慶長8年(1603年)に完成したと考えられていますが 享保12年 (1727年) の大火によって焼失し 現存天守は寛延2年(1749年)年に再建されたものだそうです

二ノ丸御殿や三ノ丸御殿も現存していたら さぞかし壮観だったことでしょう✨

 

窓は防火のための漆喰塗りの扉で蓋ができるようになっていました

 

3階部分の入母屋屋根には大きな破風(はふ)がついていますが ...

破風の内側が「破風の間」になっています⤵

 

壁に狭間(さま)■■が開けられていますが 蓋されていました

 

階段が急なので さすがに手すりを持たないと危険です💦

 

6階の望楼部分に到着🚩

擬宝珠(ぎぼし)のついた漆塗りの高欄✨は一番格式の高い高欄で 設置に際しては幕府から難癖が入ったそうですが こだわりの強い一豊は 家康に直談判して許しをもらったと伝えられています...

現在では高知城のものが唯一となっています⤵

ピカピカにゃ✨

 

当時のままの本丸を見下ろすと 見事に瓦屋根が連なっています

↑ すまきのお気に入り写真だそうです

それぞれに 名前を付けておきますね(^_-)-☆

 

こちらは本丸御殿の屋根を見下ろしたところ⤵

御殿のお庭も見えていて 庭の向こうには高知城下が広がっています(*^^*)

 

左手下には 追手門があります⤵

🔍

 

詰門と二ノ丸の方向です

 

天守から渡り廊下を通って 上の写真に写っている東多聞から廊下門の方へと行くことができます🐾🐾

 

東多聞の内部

 

こちらは西多聞を外から見たところ

 

本丸の入り口は 二ノ丸から詰門を渡って 廊下門を通って入ってくるルートの他に 黒鉄門を通るルートがあります

こちらも重要文化財です✨

 

高知城の三ノ丸に 桜の標準木がありました

今年 (2024年) は 高知が全国に先駆けて開花宣言をしたそうです🌸

この木が一番乗りということですね(*^^*)

 

かつては すまりんの故郷である宇和島市が開花宣言一番乗りの常連だったのですが 宇和島測候所が無人化され 宇和島は開花観測の拠点からはずれてしまいました^^;

ちなみに宇和島城も小さいながら現存十二天守のひとつなのですよ(^_-)-☆

そのお話は またいずれかの時に...

 

抜けるような青空と 高知城✨

昼間の姿も素晴らしいですが  なんとこの高知城!!

大阪城・高田城(新潟県)とともに「日本三大夜城」に選出されたそうです✨

夜の景色も魅力的ということでしょうね...

 

残念ながら すまりんたちはまだ夜の高知城を見たことがないので^^;

高知城の公式ホームページより写真をお借りしました⤵

12月6日から来年 (2025年) 1月13日まで「シャドウアップ高知城」と題した光と影のイベントも開催されるそうです✨

楽しそうですね(*^^*)

 

今回のお話は以上です

 

次回は 四万十川の川下りのお話です