今日のグルーヴ〈394〉
アインシュタインが、死とはモーツァルトが聴けなくなることだ、と言った話は有名だが、言い得て妙である。
確かに、そのような側面はあるだろう。ただ、私はモーツァルトだけではないし、一部に限定したくない、というよりできない。
例えば、チャイコフスキー。たくさんの名曲が残されているが、中でも、三大バレエ曲。どの曲も素晴らしいが、一つ挙げるとなると、私はやはり「白鳥の湖」になる。
白鳥の湖というと、ハイライト版で聴く方が圧倒的だと思うが、全曲を聴いた人がどのくらいいるのだろうか。圧倒的に少ないと思う。
白鳥の湖は、いわゆる有名な曲も素晴らしいが、実は、ほかに名曲がたくさんある。これらの隠れた名曲を聴かないで、一生を終えてしまったとしたら、余計なお世話かもしれないが、これは痛恨の極みなのではないか。聴いてしまった人間の実感である。
とはいえ、かつて私も全曲を通して聴くことは、ほとんどなかった。昔あるとき、バレエの伴奏として演奏に参加したときに、ほぼ全曲を知ったのである。そういうきっかけでもないと、全曲を聴くことは、バレエの公演以外ではなかなかないと思われる。
尤も全曲と言っても、どれが最終版なのか分からないし、そもそもそういうものがあるとも思えない。曲の順番も変われば、バレエの都合によって、曲の寸法も変わる。
しかも、白鳥の湖の結末は、諸説あるが、実演では、悲劇とハッピーエンドと両方ある。
以上のことから、白鳥の湖をバレエ公演で聴くことは、ほとんど一期一会に近い。
しかし、そもそも、何がハッピーエンドなのか、何が悲劇なのか、これもよく分からない。
オデット(白鳥)と結ばれたいのに、オディール(黒鳥)に騙されてしまうジークフリート(王子)であるが、この世で結ばれず、あの世で結ばれるのであれば、これはハッピーエンドなのではないか。
どっちに転んでも、結末というものをどちらかに限定することは困難なのではないか。ハッピーエンドで終わらせてもそれは嘘くさい。何故か人々は、悲劇を求め期待する。
しかも、オディールは、現代で言えば、悪女ということになるのだろうが、悪女でもいい、と思うのが男の愚かなところなのである。