アンチ・エビデンス
──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
本稿は、ストリート・カルチャーの諸々の要素が、原因や責任を問われうる証拠=エビデンスを十分残さないでたちまちに変質し霧散していくという、そうした刹那性を、今日の文化状況に抗するかたちで改めて肯定しようとするものである。2010年代の日本は、生のあらゆる面において、いわば「エビデンシャリズム」(エビデンス主義)が進展している時代ではないだろうか。
さらに、(2)この用語は、日々インターネットのサービスを使用するなかで、そこかしこのサーバーにエビデンスとなりうる痕跡を残してしまう状況、その避けがたさ、またそれを政治的批判なりビジネスなり福祉なりに活用しようとする善意と悪意の混合を指すものでもある。(2)という技術史的に新しい状況が(1)の時代精神に交差することで、際限なく機械的な「あら探し」のゲームが、暇つぶしのマインスイーパーのように可能となっている。エビデンシャリズムは、「実質的に」──とはどういうことか?──重要であると見なされるべきことをそうではないだろうことから峻別するという、根源的に不確かであるしかない判断を、まるで「不潔」として軽蔑しているかのようである。
エビデンシャリズムは現代社会を窒息させている。
企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで「責任の明確化」という一見したところ批判しにくい名目の下、根源的に不確かであるしかない判断「に耐える」という苦痛を、厄介払いしようとしている。
おそらく「非定型的」な判断(ケース・バイ・ケースの判断)に伴わざるをえない個人の責任を回避したいからだ。機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除していけば、根源的に不確かに判断するしかない「いい加減な」、それゆえに「不潔な」個人として生きなくて済むようになる。これは、反−判断である。全員がエビデンスの配達人として滞りなくリレーを続けさえすればよい。こうしたエビデンシャリズムの蔓延は一種の責任回避の現象にほかならない。が、それが示唆するのは、個人が個として否定性に向き合わずに済ませたいという欲望の、肥大ではないだろうか。
問題となる否定性は、痕跡の「不確かさ」であり「変形」であり、また「消滅してしまうこと」である......等々と換言できるだろう。こうした否定性に共通すると目される概念は、「偶然性」である。
実践において、他の可能性を絶対的に押しのける最善の判断を行なうなどということはありえない(本稿ではそのように前提する)。判断は、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、もっと多様にありえた考慮を偶然的に切り捨てて「しまった」結果であるしかない。何かが「実質的に」重要だという判断が、唯一、排他的に真であるわけがない。こうした判断の偶然性をあたかも無化して(エビデンスにもとづいて)判断できるかのような幻想が、今日において「安心」や「安全」という幻想を条件づけているのである。
逆説的に聞こえるかもしれないが、次のように言うべきなのだ。何かを「ある程度」の判断によって、たいしたことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく、漠とした思い出になる......このような、「どうでもよさ、どうでもいい性 whatever-ness」の引き受けは、裏切りの可能性を受忍しつつそれでも他者を信じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任をてきぱき処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことにほかならないのだ、と。
どうでもよさは、説明責任よりもはるかに真摯である。
誤解を避けるために補足する。この問題提起は、エビデンスによる科学的な議論・批判の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが必要なのだ、ということである★1。
どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって強制終了される判断──その「ある程度」──によって調整されるしかない。
いわゆる「反知性主義」において、恣意的にエビデンスを無視したり、恣意的にエビデンスめいたものを喧伝することがあるとして、本稿はその手の「行動力」を支持するものではない。整理しよう。(1)エビデンシャリズムの過剰化に抵抗するという意味で、どうでもよさを擁護する。かつ、(2)どうでもよさを擁護するにしても、ランダムにあるいは恣意的にどうでもよいのではなく、どうでもよさの「ある程度」を判断しなければならない。これは、裏返して言えば、何にどういうエビデンスを要求するのかを一律に形骸的に細かくするのではなく、その「ある程度」をケース・バイ・ケースで判断することがあってよいという権利を確保することである。ところで、反知性主義が批判されるべきであるとすればそれは、反知性主義が、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの大きな暴力を生じうるような向きへ偏らせているからである。しかしながら、次の付言もしておかねばならないだろう。エビデンシャリズムとしての理性を全面化させ、ついに、どうでもよさから局所的な反知性主義が生じうる可能性すら、徹底して摘み取ろうとするに至った社会は、反知性主義が全面化した社会に対してシンメトリカルに位置する、もうひとつの最悪の社会ではあるまいか、と。
生のあらゆる面がますます形骸的なエビデンシャリズムに拘束されつつあるという今日の文化状況に風穴を開けるのは、まず、前提としては、(a)たちまちに変質し霧散していくこと「も」肯定するという一種の「存在への態度」であり、また、(b)そうした否定性・偶然性を受諾した「ある程度」での判断の責任を、運命的に個人として引き受けることである。
本稿は、ここまでの第1節でいったん幕を閉じるものとし(以上は独立した問題提起として扱われうる)、次節からは、パフォーマティブなテクストとして、たちまちに変質し霧散していくもの、エビデンスを与えることが容易ではないものに導かれながら、想起、装い、書くことについて考察する。
柑橘系の甘酸っぱくハイトーンな匂いを男女ともに身につけるという流行りは、94年に発売のシケワンを嚆矢とする。おそらくそうだった(2000年代に入り、似た傾向は、ブルガリのものやドルチェ&ガッバーナのライトブルーに受け継がれる)。90年代を通して「カルクラ」は、日本の男性身体に甚大な影響を与えたように思われる。シケワンに始まる「ユニセックス香水」のブームもそうだし、カルクラが先導した「ボクサーブリーフ」の爆発的普及は、ぶかぶかのトランクスを過去の遺物にしたかのようだった。
当時の僕は、シケワンから少しズレた選択で個性を表そうとし、同じシリーズのもうひとつ、黒い瓶のck beを買った。確かムスク系の。大学生になった97年かその翌年か、渋谷の西武で買った。あれから20年近く経ち、東京から遠く離れた街で、oneとbeの差異をふたたび嗅ぎ分けている。確かにこういう差異だったと思う。違うけれど似てもいる、同じシリーズの2種。この差異に何かを託すことが、20歳を目前にした自意識の選択だった。20歳を目前にしたその自意識が、きっとほとんど同一の化学的産物として今でも存在している。たんに物理的に。僕の加齢と関係なく、存在していたのだ。中年期に入った今の僕に、改めてその物質を振りかけることもできる。
柑橘系の香水が、まるで呼吸の媒質として漂うかのような時代があった。
柑橘系の香水、ユニセックス香水としての。ジェンダー・セクシュアリティの不確実さ、身体の在りか、身体性......等々は、90年代末の人文学が好んで語ったテーマである。身体の自明性が揺らぎ、身体「性」という抽象概念の解釈で溢れかえっていた。身体のアンチ・エビデンスが時代の問いであった。そう思い出される。揺らぐ。自信なくトランスする。後ろめたく。薄暗く。
急に読者を拡げつつあった「やおい」にしても、薄暗い自嘲性は今のBLよりもっとひねくれていた。また、90年代末のLGBTの不安は、ずっと強いものだった。ダムタイプが『S/N』を初演したのはシケワンの登場と同じく94年で、翌年に中心人物の古橋悌二はAIDSにより死去した。HIVの増殖を抑える決定打としてプロテアーゼ阻害剤が最初にアメリカで認可されたのはその95年であり、96年以後は、複数の薬剤を併用する「カクテル療法」が成立し、HIV感染者の長期生存が可能になる。そうだとしても、偶発的な死の不安はすぐには払拭されなかった、僕の見知った範囲では。
柑橘系の匂い、あれは、ジェンダーの分割をうやむやにする、生殖的ではなく誘惑的な、フェロモンならざるフェロモンである。ないしは、自分自身においてかすかに律動する自己触発の匂い。自分自身と違うけれども似ている者、自分から剥離する分身の可能性の匂いである。分身から分身へ、移ろって霧散していく記憶をたどっている。噴射してしばらく経つうちに、シケワンの匂いは酸味を失っていき、毛布の体臭のような柔らかいラスト・ノートに変わる。
他方で、新宿のゲイ・コミュニティでも──渋谷の側といかなる関係があったのか、エビデンスを求めるのは難しいが──ギャル男は増殖しており、その渦中に足を運んだ。たとえば、歌舞伎町のクラブCODEで開かれていたイベントFRIENDSでは、襟足の長い茶髪で、濃くタンニングし、蛍光色のTシャツを肌に張りつけた者たちはそれなりに存在感を示していた★3。また「画像掲示板」には連日、ギャル男的な風貌で、出会いを求める投稿が見られた。
00年代のストリート・ファッションでは、様々な「〜系」が分立し、それぞれに特化した雑誌が「読者モデル」で賑わい、しだいに、特化した安価なブランドが濫造されるようになり、シーンの動きはそれらのマーケティングと一蓮托生で形骸的になっていった。振り返るならば、00年代の状況は、90年代に活性化した自由な「コーディネート」の結果である。90年代に画期を認める渡辺明日香によれば、89年に始まる渋カジを契機として、90年代には「単品のカジュアルなアイテムを着回すコーディネートが若者ファッションの根底となり、現在も続く流れとなっている」★4。80年代までの、全身をそれによって統一させる他律の中心──デザイナーのコレクション、ブランドの高級性、また「〜族」と呼ばれた集団性など★5──は不可逆に弱体化した、そう言えるだろう。90年代にファッションは断片化されていった。同一平面上で並べ変えるカードゲームになっていった。過去の流行から一部をサンプリングし、変形し、コーディネートの「まとまり」の認知を更新するという過程はファッション史において普遍的であるが、90年代末には、そのこと自体への意識(メタ意識)を強めて──世紀末の「あらゆる可能性は出尽くした」という倦怠感とともに──コーディネートの実験がなされたように思われる。
コーディネートとは、不安な操作である。どんなにシンプルな流行においても不安の余地は消えないはずだ。このシャツにこの靴でいいのか、パンツの腰の位置はこれでいいのか、この靴の汚さはむしろ好ましい範囲に入るのか......といった悩みは、その「ある程度」の妥当性を信じてやりすごすしかない。
要は、人目を気にしているわけで、気にしているその人目が属する文脈に合わせればいいのだとしても、まったく同一の格好をするのは例外的であり、多少は違う選択をせざるをえない以上、その違いが許容される「ある程度」なのかという不安は避けがたく生じる。ましてや、既存の価値観にぶつかる新しいコーディネートを自分なりによしとするのは、あまりに危険な冒険だ。
コーディネートの冒険が頻発する時代があるとして、そのための条件は、コーディネートの不安を快楽に転じることであるだろう。不安=快楽。違和感を納得に置き換える。これは一種のマゾヒズムである。コーディネートのマゾヒズム、あるいは弁証法。それが90年代からしばらくの間は活発であったように思われる。けれどもその後、定住できる「〜系」や「クラスタ」が明確に、エビデントになり、安心という幻想が増大し、不安を「あえて」快楽に転じるモチベーションは弱まり、コーディネートの不安はたんに迷惑なものになっていったのではないか。安価にそれらしい一揃いを買わせるビジネス──ギャル男の場合は、渋谷109-2、後の109 MEN'Sの成立──によってコーディネートの不安は骨抜きにされ、そのビジネスも形骸化したことで、90年代の延長上としての00年代ストリート・ファッションは終焉した。コーディネートのマゾヒズム、弁証法は、安心の優位によって抑圧されていった。
90年代がコーディネートの自由化という点で画期的であったとすれば、その自由は、(i)もはや何でも並列化の時代であり、だからこそ(ii)どうしたらいいか決定打がなく、しかしまだ(iii)決定的な未知がありうるのかもしれない、という三重の否定性を含んでいたように思われる。90年代のコーディネートは、こうした否定性の陰を帯びた断片を寄せ集め、「レイヤード」を構築した。いわば、それは「様々なる否定性のコーディネート」であった。
00年代後半、身体のほとんどをそれでカバーしても許容されるようになったファスト・ファッションは、様々なる否定性をコーディネートする苦痛を解消してくれるサービスであり、メンタル・ケアの一環である。ファスト・ファッションは、私服のビジネス・スーツ化であり、それは文言を整えられた事務書類で身を護ることであり、それを提示していさえすれば後ろめたくはない。
10年代に109 MEN'Sは、似たようなというか、ほとんど同一のアイテムを呼び込みの声で売りつけようとする、観光地のおみやげ屋の並びのごとくになっていった。あるいは、似たり寄ったりのキャバクラの看板や、出会い系のスパムメールのようになっていった。こうした状況に対し、90年代的ストリートの観点から批判を向けるのは容易である。しかし、僕は一抹の迷いを──不安を──感じる。この状況は、弁証法が弛緩した末路として批判されうるにしても、徹底した形骸化に身を沿わせることこそ否定性の徹底であるという解釈もまた可能だろうからだ。似たり寄ったりの安価なアイテムに積極的に身を滑り込ませ、自分をスパムメール化する......こんな酔狂を「あえて」倒錯的な快楽(否定性から転化された快楽)にできるのだとすれば、その態度は紛うことなく90年代的なものの延命にほかなるまい。まったく「素で」身体をスパムメールのようにして平気であることと、「あえて」そうすることの間には、欲望の構造を分かつ決定的な切断線が走っているはずである。
90年代的ストリートは、テレビと雑誌と固定電話の時代であったそれ以前と、GoogleおよびSNSの全面化へ向かうそれ以後から技術史的に区別される中間である。僕も含まれる「ポスト団塊ジュニア世代」はそこにおいて、仮でしかない複数の、違うけれども似ているあれこれを渡り歩いていた。浮動するそれらの断片的な否定性を快楽として味わおうとした。マゾヒズムとして。
断片から断片へ。繰り返される「あるいは」の、小さな否定性。
複数の「あるいは」──都市のそこかしこ、かつ、人目につきすぎないでいることが可能だとまだ信じられていた初期のウェブのそこかしこ。この意味での90年代的ストリートは00年代の後半に途絶えた。断片的な否定性という快楽の契機は、ほとんど解消されたように思われる。Googleの検索結果を安心して知識の根拠にし、SNSで同一のアカウントに定住し続ける。同一のアカウントで無料の通話もできる。こうした技術的変化によって政治への介入を起こすことができるようにもなった。しかし、こんなヴァーチャル・リアリティは、作業スペースを増やしてくれる、正しく労働的なヴァーチャル・リアリティであり、そうでしかない。机をもう一つ買い足すようなことだ。ヴァーチャルやサイバーという語に託されていた曖昧な快楽、エロティシズムは、決定的に蒸発してしまった。というよりむしろ、僕は、かつてのあのエロティシズムとは何だったのかと、真顔で問い直しているのだ。エビデンスの事務室と化したインターネットに、柑橘系の匂いが漂うことはもはやない。
00年代の半ばまで、柑橘系の匂いはインターネットの匂いでもあった。
僕の思考は、今もなお、90年代に身体をどう生きたかによって規定されている。僕は、否応なく90年代の亡霊であり続けている。
『動きすぎてはいけない』も『別のしかたで』も、断片と仮固定をめぐる考察である。それは、90年代的ストリートの亡霊を分析的な言葉で鎮めようとする、そうしてかえって古傷を騒めかせる挙措なのだろうか。サンプリングされた過去の断片を、寄せ集め、重ね、ズラし、仮固定から仮固定へ移ろうこと。東の『動物化するポストモダン』に倣い、ポストモダンを「組み合わせ」の時代であるとするならば、それはまたコーディネートの時代とも言い換えられる★6。あるいはカクテルの時代とも。90年代から00年代初めにかけての様々なる否定性のコーディネートは、もはやサンプリングでよいという居直り──ポストモダンの居直り──と、なおも残存していた「大文字の」すなわち「決定的な」新しさの希求──疲弊したモダニズム──とが、互いに足を引っ張り合うさなかで、過渡的に起きていた現象ではないだろうか。
00年代が進むにつれ、データベースにもとづく組み合わせのシャッフルをそれで必要十分にクリエーションであると認めてしまうことをめぐる不安は薄れていった。つまり、そうしたクリエーションは新しさとして小文字でしかない、というモダニスト的な否定性はもう含ませなくなっていったように思われる。逆に、90年代末のあれら不安に揺らぐストリートの者たちは──おそらくはギャル(男)も含めて──、なおも余分にモダニストであった。
以上のことは芸能界におけるイケメン像の変化に対応する、すなわち、これまで支配的であったジャニーズやジュノン的な「かっこかわいい」には女顔の様相があったのに対して、とりわけ、00年代後半にかけて圧倒的に勢力を強めていったEXILE(および2010年に結成された三代目J Soul Brothers)の精悍な、ゴツゴツした質感のアピールは「ストレート性」に偏っており、それは、ジェンダーをめぐる捻れはもう時代遅れだと宣告しているかのようでもある。
90年代的な揺らぎの身体論などもう時代遅れだ、と。
往年のヤマンバをさらにデコラティブにして復権させた「黒ギャル」(サークルBlack Diamond)は──これもマニエリスム的であるが──、組織的にツイッターで宣伝し、海外でのメディア出演のためにクラウド・ファンディングで資金を集めたり、知名度を上げた結果、渋谷に「ガングロカフェ」を開設するなど、グローバリズムに乗った活躍を見せている。一方、ギャル「男」をそんなしたたかさで復権する動きは、寡聞にして知らない。ギャル男はギャルの後追いだったわけで、今でも前衛は、彼女らの分離派的勇気に懸かっている。
こうしたすべてはグローバリズムに関係している。黒ギャルは、以前から現代日本のひとつの記号としてギャルが言及されてきたことに意識的に乗っている。他方、ポスト・ギャル男の短髪化は、グローバルに共通のわかりやすい男性イメージが日本で改めて共有されている現象であるだろう。10年代の短髪男性は、保守的な日本男児というよりも、東アジア人男性というトランス・ナショナルな性格を強めているように思われる。また、海外に広くファンをもつヴィジュアル系がJ-POPのグローバル化にとって重要なジャンルであることは周知の通りだ。こうした概況から言えば、ギャル男は、ひたすらにたんなるドメスティックな現象でしかなかったと言わざるをえないのではないか★9。
以上を書きながら僕は、2013年に台北での国際カンファレンスに参加した際、受付の女性が、旧ギャル男的な僕の髪を指差して「Very Japanese!」と言ったのを思い出している。ギャル男が、ギャルとは違って、結局は日本という田舎に閉じた現象として消費され霧散していったのは、基本的に派生的でしかないそれを言説化する熱意が国内外どちらにおいても十分に起こらなかったからだろう。けれども僕は、ギャル男の実験性と後衛性の半端な混合を、依然として愛惜せざるをえないのであり、渋谷と新宿をおそるおそる往還した半−当事者として、かろうじて語れる範囲の設定をこれまでも試してきたのだ★10。
今、90年代的ストリートの形象を思い出すこと、それは、激烈なグローバル化に合わせエビデントに身を固める手前で揺らいでいた身体・資料体(コルプス)の、不安のマゾヒズムを喚起することにほかならない。そしてそのことは、一時代の確認というよりも、不安のマゾヒズムの再起動でなければならず、ゆえに、落ち着き払ってエビデントになされるのであれば本質を毀損されるタスクなのであり、気配として匂いとして、霧散の途上にあるものを記述するという無理に苦しむレトリックによって語るしかないのだ。分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実に届きかねない過剰な共有性の、接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。
1 エビデンシャリズム批判
本稿では、エビデンス(カタカナで言われる、広い意味での証拠・証憑、質的であるより量的なものを望む傾向がある)を残し続けなければならない、エビデンスを挙げていわゆる「説明責任」(アカウンタビリティ)を果たせるようつねに準備しておかねばならない──その種の説明はしばしばひどく形骸化しているが──、という強迫的な「正しさ」の緊張感をいや増しに増すことを「エビデンシャリズム」と名づける。(1)この用語は、エビデンスが健全な議論には必要だという「実証主義」とは区別されるべき、たんに手続きにこだわる強迫神経症的な態度であり、トリビアル(些末に自明)と思われる事柄についても、データや文書といった原則として有形なエビデンスを要求する、という過剰さを意味するものと理解されたい。多くの場合、エビデンスは、文字通りに反復、移転可能なものであることが求められるのであり、「差異を含んで反復可能」では不十分である。つまり、揺れのある証言や解釈など、想像の可塑性に依拠せざるをえないものは、棄却されがちである。エビデンシャリズムには、互いの想像を信じ合う者としての、あるいは裏切り合うかもしれない人間を不在にしたい、という欲望すら含まれているように思われる。さらに、(2)この用語は、日々インターネットのサービスを使用するなかで、そこかしこのサーバーにエビデンスとなりうる痕跡を残してしまう状況、その避けがたさ、またそれを政治的批判なりビジネスなり福祉なりに活用しようとする善意と悪意の混合を指すものでもある。(2)という技術史的に新しい状況が(1)の時代精神に交差することで、際限なく機械的な「あら探し」のゲームが、暇つぶしのマインスイーパーのように可能となっている。エビデンシャリズムは、「実質的に」──とはどういうことか?──重要であると見なされるべきことをそうではないだろうことから峻別するという、根源的に不確かであるしかない判断を、まるで「不潔」として軽蔑しているかのようである。
エビデンシャリズムは現代社会を窒息させている。
企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで「責任の明確化」という一見したところ批判しにくい名目の下、根源的に不確かであるしかない判断「に耐える」という苦痛を、厄介払いしようとしている。
おそらく「非定型的」な判断(ケース・バイ・ケースの判断)に伴わざるをえない個人の責任を回避したいからだ。機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除していけば、根源的に不確かに判断するしかない「いい加減な」、それゆえに「不潔な」個人として生きなくて済むようになる。これは、反−判断である。全員がエビデンスの配達人として滞りなくリレーを続けさえすればよい。こうしたエビデンシャリズムの蔓延は一種の責任回避の現象にほかならない。が、それが示唆するのは、個人が個として否定性に向き合わずに済ませたいという欲望の、肥大ではないだろうか。
問題となる否定性は、痕跡の「不確かさ」であり「変形」であり、また「消滅してしまうこと」である......等々と換言できるだろう。こうした否定性に共通すると目される概念は、「偶然性」である。
実践において、他の可能性を絶対的に押しのける最善の判断を行なうなどということはありえない(本稿ではそのように前提する)。判断は、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、もっと多様にありえた考慮を偶然的に切り捨てて「しまった」結果であるしかない。何かが「実質的に」重要だという判断が、唯一、排他的に真であるわけがない。こうした判断の偶然性をあたかも無化して(エビデンスにもとづいて)判断できるかのような幻想が、今日において「安心」や「安全」という幻想を条件づけているのである。
逆説的に聞こえるかもしれないが、次のように言うべきなのだ。何かを「ある程度」の判断によって、たいしたことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく、漠とした思い出になる......このような、「どうでもよさ、どうでもいい性 whatever-ness」の引き受けは、裏切りの可能性を受忍しつつそれでも他者を信じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任をてきぱき処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことにほかならないのだ、と。
どうでもよさは、説明責任よりもはるかに真摯である。
誤解を避けるために補足する。この問題提起は、エビデンスによる科学的な議論・批判の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが必要なのだ、ということである★1。
どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって強制終了される判断──その「ある程度」──によって調整されるしかない。
いわゆる「反知性主義」において、恣意的にエビデンスを無視したり、恣意的にエビデンスめいたものを喧伝することがあるとして、本稿はその手の「行動力」を支持するものではない。整理しよう。(1)エビデンシャリズムの過剰化に抵抗するという意味で、どうでもよさを擁護する。かつ、(2)どうでもよさを擁護するにしても、ランダムにあるいは恣意的にどうでもよいのではなく、どうでもよさの「ある程度」を判断しなければならない。これは、裏返して言えば、何にどういうエビデンスを要求するのかを一律に形骸的に細かくするのではなく、その「ある程度」をケース・バイ・ケースで判断することがあってよいという権利を確保することである。ところで、反知性主義が批判されるべきであるとすればそれは、反知性主義が、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの大きな暴力を生じうるような向きへ偏らせているからである。しかしながら、次の付言もしておかねばならないだろう。エビデンシャリズムとしての理性を全面化させ、ついに、どうでもよさから局所的な反知性主義が生じうる可能性すら、徹底して摘み取ろうとするに至った社会は、反知性主義が全面化した社会に対してシンメトリカルに位置する、もうひとつの最悪の社会ではあるまいか、と。
生のあらゆる面がますます形骸的なエビデンシャリズムに拘束されつつあるという今日の文化状況に風穴を開けるのは、まず、前提としては、(a)たちまちに変質し霧散していくこと「も」肯定するという一種の「存在への態度」であり、また、(b)そうした否定性・偶然性を受諾した「ある程度」での判断の責任を、運命的に個人として引き受けることである。
本稿は、ここまでの第1節でいったん幕を閉じるものとし(以上は独立した問題提起として扱われうる)、次節からは、パフォーマティブなテクストとして、たちまちに変質し霧散していくもの、エビデンスを与えることが容易ではないものに導かれながら、想起、装い、書くことについて考察する。
2 霧散するものへ
2014年の末、梅田のドン・キホーテでシャンプーか何かを買うついでに香水のコーナーに寄って、カルバン・クラインのck oneを見つけ、久しぶりに特徴を確かめていた。この「シケワン」は1990年代に一世を風靡した香水である。今手に入るそれが、発売当初とまったく同一の成分かはわからない。が、ともかくもそれは、無色半透明の平たいガラス瓶に灰色のロゴを載せているあのシケワンであり、その匂いは、僕が初めて香水というものを意識したときのあの匂いにほかならないと思われた。柑橘系の甘酸っぱくハイトーンな匂いを男女ともに身につけるという流行りは、94年に発売のシケワンを嚆矢とする。おそらくそうだった(2000年代に入り、似た傾向は、ブルガリのものやドルチェ&ガッバーナのライトブルーに受け継がれる)。90年代を通して「カルクラ」は、日本の男性身体に甚大な影響を与えたように思われる。シケワンに始まる「ユニセックス香水」のブームもそうだし、カルクラが先導した「ボクサーブリーフ」の爆発的普及は、ぶかぶかのトランクスを過去の遺物にしたかのようだった。
当時の僕は、シケワンから少しズレた選択で個性を表そうとし、同じシリーズのもうひとつ、黒い瓶のck beを買った。確かムスク系の。大学生になった97年かその翌年か、渋谷の西武で買った。あれから20年近く経ち、東京から遠く離れた街で、oneとbeの差異をふたたび嗅ぎ分けている。確かにこういう差異だったと思う。違うけれど似てもいる、同じシリーズの2種。この差異に何かを託すことが、20歳を目前にした自意識の選択だった。20歳を目前にしたその自意識が、きっとほとんど同一の化学的産物として今でも存在している。たんに物理的に。僕の加齢と関係なく、存在していたのだ。中年期に入った今の僕に、改めてその物質を振りかけることもできる。
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柑橘系の香水が、まるで呼吸の媒質として漂うかのような時代があった。
柑橘系の香水、ユニセックス香水としての。ジェンダー・セクシュアリティの不確実さ、身体の在りか、身体性......等々は、90年代末の人文学が好んで語ったテーマである。身体の自明性が揺らぎ、身体「性」という抽象概念の解釈で溢れかえっていた。身体のアンチ・エビデンスが時代の問いであった。そう思い出される。揺らぐ。自信なくトランスする。後ろめたく。薄暗く。
急に読者を拡げつつあった「やおい」にしても、薄暗い自嘲性は今のBLよりもっとひねくれていた。また、90年代末のLGBTの不安は、ずっと強いものだった。ダムタイプが『S/N』を初演したのはシケワンの登場と同じく94年で、翌年に中心人物の古橋悌二はAIDSにより死去した。HIVの増殖を抑える決定打としてプロテアーゼ阻害剤が最初にアメリカで認可されたのはその95年であり、96年以後は、複数の薬剤を併用する「カクテル療法」が成立し、HIV感染者の長期生存が可能になる。そうだとしても、偶発的な死の不安はすぐには払拭されなかった、僕の見知った範囲では。
柑橘系の匂い、あれは、ジェンダーの分割をうやむやにする、生殖的ではなく誘惑的な、フェロモンならざるフェロモンである。ないしは、自分自身においてかすかに律動する自己触発の匂い。自分自身と違うけれども似ている者、自分から剥離する分身の可能性の匂いである。分身から分身へ、移ろって霧散していく記憶をたどっている。噴射してしばらく経つうちに、シケワンの匂いは酸味を失っていき、毛布の体臭のような柔らかいラスト・ノートに変わる。
3 コーディネートの不安
DCブランドを好む家庭で育った僕は、団塊の世代に続く「シラケ世代」の両親から自分の身体を──性的な存在として──独立させるために、90年代末、まずは若いデザイナーの実験に惹かれ、そのうえで遅まきながら『men's egg』の流れに近づき、ギャル男「のよう」に装う時期へ向かった。その界隈の団体活動には参加しておらず、何をどう身につけるのかは、雑誌と断片的な観察から知るしかなかった。00年代を通し、渋谷センター街の「プリクラのメッカ」周辺で、雑誌に捕捉されていない事象を探していた。細かな逸脱は、消え去っていく途中で「目撃」せねばならない★2──雑誌のスナップは、たいていアメカジの変種に収まる、整えられたものであり、対して現場においては、より「ヤンキー的」なディテール、オーバー・サイズのスウェットのだらしなさの「ある程度」の演出や、奇妙な重ね着の工夫などが、豊かに観察された。他方で、新宿のゲイ・コミュニティでも──渋谷の側といかなる関係があったのか、エビデンスを求めるのは難しいが──ギャル男は増殖しており、その渦中に足を運んだ。たとえば、歌舞伎町のクラブCODEで開かれていたイベントFRIENDSでは、襟足の長い茶髪で、濃くタンニングし、蛍光色のTシャツを肌に張りつけた者たちはそれなりに存在感を示していた★3。また「画像掲示板」には連日、ギャル男的な風貌で、出会いを求める投稿が見られた。
00年代のストリート・ファッションでは、様々な「〜系」が分立し、それぞれに特化した雑誌が「読者モデル」で賑わい、しだいに、特化した安価なブランドが濫造されるようになり、シーンの動きはそれらのマーケティングと一蓮托生で形骸的になっていった。振り返るならば、00年代の状況は、90年代に活性化した自由な「コーディネート」の結果である。90年代に画期を認める渡辺明日香によれば、89年に始まる渋カジを契機として、90年代には「単品のカジュアルなアイテムを着回すコーディネートが若者ファッションの根底となり、現在も続く流れとなっている」★4。80年代までの、全身をそれによって統一させる他律の中心──デザイナーのコレクション、ブランドの高級性、また「〜族」と呼ばれた集団性など★5──は不可逆に弱体化した、そう言えるだろう。90年代にファッションは断片化されていった。同一平面上で並べ変えるカードゲームになっていった。過去の流行から一部をサンプリングし、変形し、コーディネートの「まとまり」の認知を更新するという過程はファッション史において普遍的であるが、90年代末には、そのこと自体への意識(メタ意識)を強めて──世紀末の「あらゆる可能性は出尽くした」という倦怠感とともに──コーディネートの実験がなされたように思われる。
コーディネートとは、不安な操作である。どんなにシンプルな流行においても不安の余地は消えないはずだ。このシャツにこの靴でいいのか、パンツの腰の位置はこれでいいのか、この靴の汚さはむしろ好ましい範囲に入るのか......といった悩みは、その「ある程度」の妥当性を信じてやりすごすしかない。
要は、人目を気にしているわけで、気にしているその人目が属する文脈に合わせればいいのだとしても、まったく同一の格好をするのは例外的であり、多少は違う選択をせざるをえない以上、その違いが許容される「ある程度」なのかという不安は避けがたく生じる。ましてや、既存の価値観にぶつかる新しいコーディネートを自分なりによしとするのは、あまりに危険な冒険だ。
コーディネートの冒険が頻発する時代があるとして、そのための条件は、コーディネートの不安を快楽に転じることであるだろう。不安=快楽。違和感を納得に置き換える。これは一種のマゾヒズムである。コーディネートのマゾヒズム、あるいは弁証法。それが90年代からしばらくの間は活発であったように思われる。けれどもその後、定住できる「〜系」や「クラスタ」が明確に、エビデントになり、安心という幻想が増大し、不安を「あえて」快楽に転じるモチベーションは弱まり、コーディネートの不安はたんに迷惑なものになっていったのではないか。安価にそれらしい一揃いを買わせるビジネス──ギャル男の場合は、渋谷109-2、後の109 MEN'Sの成立──によってコーディネートの不安は骨抜きにされ、そのビジネスも形骸化したことで、90年代の延長上としての00年代ストリート・ファッションは終焉した。コーディネートのマゾヒズム、弁証法は、安心の優位によって抑圧されていった。
90年代がコーディネートの自由化という点で画期的であったとすれば、その自由は、(i)もはや何でも並列化の時代であり、だからこそ(ii)どうしたらいいか決定打がなく、しかしまだ(iii)決定的な未知がありうるのかもしれない、という三重の否定性を含んでいたように思われる。90年代のコーディネートは、こうした否定性の陰を帯びた断片を寄せ集め、「レイヤード」を構築した。いわば、それは「様々なる否定性のコーディネート」であった。
00年代後半、身体のほとんどをそれでカバーしても許容されるようになったファスト・ファッションは、様々なる否定性をコーディネートする苦痛を解消してくれるサービスであり、メンタル・ケアの一環である。ファスト・ファッションは、私服のビジネス・スーツ化であり、それは文言を整えられた事務書類で身を護ることであり、それを提示していさえすれば後ろめたくはない。
10年代に109 MEN'Sは、似たようなというか、ほとんど同一のアイテムを呼び込みの声で売りつけようとする、観光地のおみやげ屋の並びのごとくになっていった。あるいは、似たり寄ったりのキャバクラの看板や、出会い系のスパムメールのようになっていった。こうした状況に対し、90年代的ストリートの観点から批判を向けるのは容易である。しかし、僕は一抹の迷いを──不安を──感じる。この状況は、弁証法が弛緩した末路として批判されうるにしても、徹底した形骸化に身を沿わせることこそ否定性の徹底であるという解釈もまた可能だろうからだ。似たり寄ったりの安価なアイテムに積極的に身を滑り込ませ、自分をスパムメール化する......こんな酔狂を「あえて」倒錯的な快楽(否定性から転化された快楽)にできるのだとすれば、その態度は紛うことなく90年代的なものの延命にほかなるまい。まったく「素で」身体をスパムメールのようにして平気であることと、「あえて」そうすることの間には、欲望の構造を分かつ決定的な切断線が走っているはずである。
4 90年代の弁証法
90年代的ストリートは、象徴的な街(路)に通いながらも同時に、そこから解離している状態、別のレイヤーが被さっている状態が、当時は情報通信技術の過渡期(ポケットベル、PHSと携帯電話の混在、Google以前のインターネット)であったがために、不十分にしか実現されていなかったことをその条件としていた。街の溜まり場も、インターネットのチャットや掲示板も、互いに縫い合わせられていないバラバラのアジールであり、そこで「やらかす」にしても程度によっては水に流される、そう信じられる領域だった。「リツイート」や「シェア」──による連帯と炎上──以前の状況である。情報通信技術の過渡期におけるリアル/ヴァーチャルの断片的で不安定な「レイヤード」構造は、まさしくあの「手紙は届かないことがありうる」という、東浩紀が1998年の『存在論的、郵便的』で論じたデリダのテーマを生々しく読むにふさわしい環境だった、つまり、メッセージが──自分から滲み出し漂っていく分身としてのメッセージが、意図せざる経由地を転々としたあげくどこかで永久に行方不明になるだろうと、あるいは要するに、いくらか誤解を経たあげく水に流されてしまうだろうと、そう信じられたということだ。アイロニカルな放言も、煙草の煙も、香水の霧も、分身として辺りに漂い出し、そして永久に行方不明になるだろうと、そう信じられていた。煙草の煙が「誤配」された先で、副流煙による発がん率の上昇を健康保険なり生命保険なりの計算に入れて抗議するようなエビデンシャリズムは、まだ優勢ではなかったのである。90年代的ストリートは、テレビと雑誌と固定電話の時代であったそれ以前と、GoogleおよびSNSの全面化へ向かうそれ以後から技術史的に区別される中間である。僕も含まれる「ポスト団塊ジュニア世代」はそこにおいて、仮でしかない複数の、違うけれども似ているあれこれを渡り歩いていた。浮動するそれらの断片的な否定性を快楽として味わおうとした。マゾヒズムとして。
断片から断片へ。繰り返される「あるいは」の、小さな否定性。
複数の「あるいは」──都市のそこかしこ、かつ、人目につきすぎないでいることが可能だとまだ信じられていた初期のウェブのそこかしこ。この意味での90年代的ストリートは00年代の後半に途絶えた。断片的な否定性という快楽の契機は、ほとんど解消されたように思われる。Googleの検索結果を安心して知識の根拠にし、SNSで同一のアカウントに定住し続ける。同一のアカウントで無料の通話もできる。こうした技術的変化によって政治への介入を起こすことができるようにもなった。しかし、こんなヴァーチャル・リアリティは、作業スペースを増やしてくれる、正しく労働的なヴァーチャル・リアリティであり、そうでしかない。机をもう一つ買い足すようなことだ。ヴァーチャルやサイバーという語に託されていた曖昧な快楽、エロティシズムは、決定的に蒸発してしまった。というよりむしろ、僕は、かつてのあのエロティシズムとは何だったのかと、真顔で問い直しているのだ。エビデンスの事務室と化したインターネットに、柑橘系の匂いが漂うことはもはやない。
00年代の半ばまで、柑橘系の匂いはインターネットの匂いでもあった。
僕の思考は、今もなお、90年代に身体をどう生きたかによって規定されている。僕は、否応なく90年代の亡霊であり続けている。
『動きすぎてはいけない』も『別のしかたで』も、断片と仮固定をめぐる考察である。それは、90年代的ストリートの亡霊を分析的な言葉で鎮めようとする、そうしてかえって古傷を騒めかせる挙措なのだろうか。サンプリングされた過去の断片を、寄せ集め、重ね、ズラし、仮固定から仮固定へ移ろうこと。東の『動物化するポストモダン』に倣い、ポストモダンを「組み合わせ」の時代であるとするならば、それはまたコーディネートの時代とも言い換えられる★6。あるいはカクテルの時代とも。90年代から00年代初めにかけての様々なる否定性のコーディネートは、もはやサンプリングでよいという居直り──ポストモダンの居直り──と、なおも残存していた「大文字の」すなわち「決定的な」新しさの希求──疲弊したモダニズム──とが、互いに足を引っ張り合うさなかで、過渡的に起きていた現象ではないだろうか。
00年代が進むにつれ、データベースにもとづく組み合わせのシャッフルをそれで必要十分にクリエーションであると認めてしまうことをめぐる不安は薄れていった。つまり、そうしたクリエーションは新しさとして小文字でしかない、というモダニスト的な否定性はもう含ませなくなっていったように思われる。逆に、90年代末のあれら不安に揺らぐストリートの者たちは──おそらくはギャル(男)も含めて──、なおも余分にモダニストであった。
5 ポスト・ギャル男
2015年3月末の午前11時、僕は円山町の坂を下り、Bunkamuraの脇をドン・キホーテの方へ歩き出す。薄曇りで暖かい。H&Mの口紅のようなネオンが視界に入ってくる。Book1st.があった。巨大な仏像があるという居酒屋もあったはずだ。あれもなくなったのだろうか。そのことは確かめていない。*
- 『men's egg』2007年10月号
- 『BITTER』2015年4月号
以上のことは芸能界におけるイケメン像の変化に対応する、すなわち、これまで支配的であったジャニーズやジュノン的な「かっこかわいい」には女顔の様相があったのに対して、とりわけ、00年代後半にかけて圧倒的に勢力を強めていったEXILE(および2010年に結成された三代目J Soul Brothers)の精悍な、ゴツゴツした質感のアピールは「ストレート性」に偏っており、それは、ジェンダーをめぐる捻れはもう時代遅れだと宣告しているかのようでもある。
90年代的な揺らぎの身体論などもう時代遅れだ、と。
- 『Men's SPIDER』2015年3月号
いずれも図版提供=千葉雅也
往年のヤマンバをさらにデコラティブにして復権させた「黒ギャル」(サークルBlack Diamond)は──これもマニエリスム的であるが──、組織的にツイッターで宣伝し、海外でのメディア出演のためにクラウド・ファンディングで資金を集めたり、知名度を上げた結果、渋谷に「ガングロカフェ」を開設するなど、グローバリズムに乗った活躍を見せている。一方、ギャル「男」をそんなしたたかさで復権する動きは、寡聞にして知らない。ギャル男はギャルの後追いだったわけで、今でも前衛は、彼女らの分離派的勇気に懸かっている。
こうしたすべてはグローバリズムに関係している。黒ギャルは、以前から現代日本のひとつの記号としてギャルが言及されてきたことに意識的に乗っている。他方、ポスト・ギャル男の短髪化は、グローバルに共通のわかりやすい男性イメージが日本で改めて共有されている現象であるだろう。10年代の短髪男性は、保守的な日本男児というよりも、東アジア人男性というトランス・ナショナルな性格を強めているように思われる。また、海外に広くファンをもつヴィジュアル系がJ-POPのグローバル化にとって重要なジャンルであることは周知の通りだ。こうした概況から言えば、ギャル男は、ひたすらにたんなるドメスティックな現象でしかなかったと言わざるをえないのではないか★9。
以上を書きながら僕は、2013年に台北での国際カンファレンスに参加した際、受付の女性が、旧ギャル男的な僕の髪を指差して「Very Japanese!」と言ったのを思い出している。ギャル男が、ギャルとは違って、結局は日本という田舎に閉じた現象として消費され霧散していったのは、基本的に派生的でしかないそれを言説化する熱意が国内外どちらにおいても十分に起こらなかったからだろう。けれども僕は、ギャル男の実験性と後衛性の半端な混合を、依然として愛惜せざるをえないのであり、渋谷と新宿をおそるおそる往還した半−当事者として、かろうじて語れる範囲の設定をこれまでも試してきたのだ★10。
今、90年代的ストリートの形象を思い出すこと、それは、激烈なグローバル化に合わせエビデントに身を固める手前で揺らいでいた身体・資料体(コルプス)の、不安のマゾヒズムを喚起することにほかならない。そしてそのことは、一時代の確認というよりも、不安のマゾヒズムの再起動でなければならず、ゆえに、落ち着き払ってエビデントになされるのであれば本質を毀損されるタスクなのであり、気配として匂いとして、霧散の途上にあるものを記述するという無理に苦しむレトリックによって語るしかないのだ。分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実に届きかねない過剰な共有性の、接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。