建築コンペティションの政治学──新国立競技場コンペをめぐる歴史的文脈の素描
1. 新国立競技場コンペの諸問題
建築設計競技(以下コンペ)の適正な運用については、国際的な指針・基準が整備されてきた歴史がある。19世紀からのRIBA(王立英国建築家協会)による模索を経て、1920年前後からはCIAM(近代建築国際会議)、20世紀後半はUIA(国際建築家連合)が主導してきた
(1)コンペは参加資格を問わない「公開」が原則だが、今回のコンペはスタジアムの設計経験や諸外国の建築家協会賞、プリッツカー賞などの受賞履歴で応募資格を限定しており、実質的にはかなりクローズドな競技であった 。
(2)2012年7月20日の要項公開から同年9月25日の応募案提出期限まで2ヶ月程度しかない異例のタイト・スケジュール。2019年ラグビー・ワールド・カップおよび2020年東京オリンピックの会場となり、その後も長く使い続けられる公共施設の基本構想を決めるコンペとしては、あまりに余裕がない。拙速に作成された案が基本構想とされるのでは、市民にとっても設計者にとってもリスクが高い。
(3)1等当選者を実施設計者とするのがコンペの原則だが、このコンペでは1等当選者を「デザイン監修者」とし、基本・実施設計者は別途公募で選ぶシステムが採られた。「監修」業務の曖昧さ、著作権保護の問題、上記の拙速さを併わせて考えれば、コンペ応募案を別組織による設計に繋ぐプロセスにも混乱を来しかねない。
(4)審査経過報告が公表されていない。問題の多い日本のコンペ史上でも、半世紀前の国立京都国際会館(コンペ1962-63/竣工1966)で1万8千字の審査経過報告書が公表されたのを嚆矢として、審査公開の取組みが積み重ねられてきたのではなかったか。
ここで、主催者であるJSC(Japan Sport Council/日本スポーツ振興センター)理事長・河野一郎氏による当コンペに関するアナウンスメント中の一文を確認しておきたい。
As an all-new stadium, we want to create it in an all-new way, with full public participation, and we pledge to make the entire process - from design selection to final completion - fully open and transparent.
「full public participation」の部分は和文ではなぜか抜け落ちているのであえて英文を引用した。これは公開コンペを指すのかどうかは曖昧だが、何らかの公開性を示唆してはいる。また、デザイン選定から竣工までの全プロセスを「fully open and transparent」にするという「誓約」(pledge)はいちおう明瞭だ。(1)や(4)はこれと矛盾する。
(3)についてはもう少し説明が必要だろう。今回のコンペは、設計者でなく「基本構想」を募るコンペと規定され、また当選者=デザイン監修者は、基本設計から工事監理まで「監修」に当たることが明記されている。一見、応募者が納得していれば問題ないようにも見えるが、本当にそうか。経緯としては、周知のとおり当選者=デザイン監修者がザハ・ハディドに決定した後、公募型プロポーザルによって2013年5月に日建設計・梓設計・日本設計・アラップジャパンの設計JVを「フレームワーク設計者」とすることが決まり、つい先日(2013年11月27日)、同組織による基本構想の縮小案(設計変更案)が有識者会議で承認されたことが発表されたところだ。コンペ要項では、「公募型プロポーザル」で「基本・実施設計者」を選ぶとは記されているが、フレームワーク設計云々の文言は見当たらない。しかし、報道によれば同JV組織体が基本・実施設計までを担当する見込みだという。「監修者」「設計者」の関係(分かりやすくいえば上下関係)についても公式の説明がなく、誰がどのように設計に責任をもつのかなど、不透明さを拭えない。
さらに、コンペ後に予算規模の問題が生じ、概算見積額3000億の案を1000億以上落とす(常識的にはきわめて大掛かりという他ない)設計変更が案外すんなり行なわれたことには驚いた。当選者たるザハが了承していれば著作権の問題にはならないとしても、コンペでの審査の意義が揺らぎかねないし、建築家らの批判やマスコミの圧力の「原因」を取り除くかのような姿勢では、肝心の問い、つまりどのようなスタジアムをつくりたいのか、そして都市にどのような公共財を創出したいのか、という根本問題が回避され、景観や維持の問題なども何となく解消されてしまいかねない(巨大なスタジアムの経済的な維持に欠かせないファシリティが削ぎ落される危険性もある)。
それにしても、まるで箝口令が敷かれたかのようなコンペ関係者の沈黙は何だろう。巨額の税金を投じる高度に公共的なプロジェクトである。少なくとも、審査委員長を務め、その後の有識者会議に建築家としてただひとり参加している安藤忠雄氏には説明責任がある。
このほかにも当コンペをめぐってはさまざまな疑問点が指摘されているが 、以下では上記(1)〜(3)の問題点を中心に、新国立競技場コンペについて考えるための枠組みを、コンペの歴史を参照しつつ整理してみたい。
2. ポリティクスとしてのコンペ
コンペは、民主的な社会において建築物や都市計画などの適切な設計者を(その設計案とともに)選ぶ方法である。それゆえ、よく知られるように、古代ギリシア、ルネサンスに先例があり、19世紀・20世紀に欧米から世界へと普及した。コンペは公共財の創出にかかる社会的合意形成(ガバナンス)の一手法であって、だから審査委員会の結論に対して、市民の直接投票でコンペそのものを無効とする事例も欧米にはある
この理念は、設計者が営利や利害から自立して公益を探求できるプロフェッションとしての立場と倫理を持たなければ成立しない。それは、たとえば伝統的パトロネージの下にある建築家像とは異質だ。また、19世紀以降、資本主義経済の急速な進展のなかで設計から施工までを一貫して請け負う事業者が欧米でも急増するが、こうした建設業に所属する設計者の場合、設計の内容と施工(=営利事業)上の利害を切り離しがたいから、公正で自立的なプロフェッションとみなされず、したがって彼らにはコンペの参加資格はないという考えも導かれる。かつて欧米の国際コンペで、日本の建設業設計部の所属者が登録を認められないというコンフリクトが生じた例も実際にある。コンペのポリティクスは、こうして建築生産体制の問題にかかわる。
当然、建築家の職能団体は、こうした理念が貫徹できるようなコンペの運用を国家や公共団体をはじめとする施主(コンペ主催者)に求めていかなければならない。それは、自立した建築家でなければコンペに参加できず、ひいては公共財の設計には関われない、というコンセンサスを社会化することを意味する。これが「独占」に抵触しないのは、建築家が営利事業者でないという法的認識が成立する社会においてだけだ。世界的なコンペ基準では、審査員の過半を建築家とするように求めているが、これもまた、建築家が自立的なプロフェッションであるという立て前なしには意味をなさない。
このように見てくれば、コンペ史が一面において建築家の職能確立運動史でもあった事情が理解されよう。実際、日本建築家協会の正史ともいうべき『日本の建築家職能の軌跡』(1997) も、かなりのページをコンペ問題に割く。そして、西欧的アーキテクト像の理念が日本の風土にいかに馴染まないものであったかも、コンペ史を辿ればよく分かる。
たとえば、当選者を実施設計者とするのは、著作権保護の観点からも、また社会的責任をプロフェッションたる個人に集約する観点からも当然とされるが、日本のコンペ史上には、当選案が別の設計者によって改変されて実施される、といった事例がごろごろ転がっている。大阪の中之島公会堂(コンペ1912/竣工1918)や議院建築(国会議事堂、コンペ1919/竣工1936)などの例がよく知られるが、その後も類例は戦後期まで跡を絶たない。もちろん、日本建築家協会の出自でもある日本建築士会(1914年設立、当初は全国建築士会)は西欧的プロフェッションの確立を掲げ、当選者すなわち実施設計者たるべきことを強く主張したが、逆の立場を代表したのが佐野利器・内田祥三ら構造派・社会政策派である。彼らにとってコンペはあくまでも参考案の募集で、実際の設計は技術力ある官庁営繕機構が担う方が合理的だった。それは公共財の品質を確保する現実的な思想でもあったろう。他方で、広島平和記念聖堂(コンペ1948/竣工1954)のように、審査員の一人であった建築家が実施設計をしてしまうことさえ少なくなく、かえって問題の根深さを示唆する。
本格的な著作権確立運動にようやく火がついたのは、1950年代の国立国会図書館(コンペ1953-54/竣工)のときである。ここでも、1等当選案を「変更」することも、また「採用しない」こともありうると要項にうたわれており 、これに対する吉阪隆正による最初の公開質疑書への図書館当局の回答は、むしろ当選者を実施設計に関わらせることなど想定しない(設計は建設省営繕)、という明快さであった。今回の新国立競技場コンペ要項においても、当選案の事後的な変更が生じても当選者は「これに同意する」ものと定められているが、これは長い歴史の尾を引くものとみるべきだろうか。ついでに付言すれば、この国会図書館コンペでは、1953年11月から翌年2月までの3ヶ月強という応募期間の短さも問題とされ、当局と建築家らとの妥協により結局5月まで延長された経緯がある(今回の新国立競技場コンペは前述のとおり2ヶ月であった)。
国立国会図書館コンペを契機に、1957年、3会(日本建築家協会・日本建築学会・日本建築士会連合会)による建築設計競技規準がUIA基準を踏まえて定められた。この基準に沿わないコンペは俗に「疑似コンペ」と称され、日本建築家協会では疑似コンペへの会員の応募を認めなかった。ところが、1970年代初頭の九州地方での「疑似コンペ」で申し合わせを破った事務所を協会が戒告処分にしたのに対し当該事務所から提訴をうけた公正取引委員会が独占禁止法の「独占」にふれる可能性があるとして家協会を調査・審判する事態に発展した。この事件の結果、1979年に3会基準は廃止されてしまった (現在は日本建築学会が1991年に公開した「指針」が国内でのひとつの基準とされている)。
3. エコノミクスとしてのコンペ
1960年代中盤以降の日本のコンペ史は、建設会社(ゼネコン)設計部の連戦連勝に特徴づけられる。この頃に、建築生産体制とそのなかに占める「設計」の位置の劇的転換が起こっていたと考えて差支えなかろう
要するに、理念を括弧に括ってクールに見るなら、いつの時代も、実態としての建築生産の構造と施主の官僚的システムに適合した設計体制こそが求められてきたのであって、コンペも(開かれた自由区であるどころか)大局的には現実の縮図でさえあった歴史をきちんと見る必要はある(公正で意欲的な成功例を評価すべきことは論を俟たないが)。
件の新国立競技場コンペに戻ろう。ここで採用されたデザイン監修者+基本・実施設計者という体制が、90年代以降に世界の大規模開発で顕著になってきた建築設計のありようをなぞるものであることは見落とせない。アイコニックな造形を提供できるアーキスターと、高度な技術的蓄積およびマネジメント能力を有する大規模な組織型のデザインファームとのタッグ。その背景には、国際的な都市間競争のなかでの新自由主義な経済政策と開発資本のグローバル化がある 。もちろん、新国立競技場の建設そのものは、純然たる公共事業である。しかし、その器で行なわれるイベントに投じられる資金は、グローバル企業や大手広告代理店などの大資本のものであるし、ザハは東京という都市の国際競争力という観点から彼らのデザインを売り込み、審査委員会を通して東京と日本がそれを買ったのである。
今や世界各地に事務所を持ち、総勢400人を超える多分野のスタッフを抱えるザハ・ハディドの事務所は、80年代の彼女らとはまるで違い、アーキスターとしての作家性と、総合的なエンジニアリングおよびマネジメント業務をこなせる組織性の両面を併せ持つし、他組織体との恊働も苦にしない 。ザハ事務所の新国立競技場担当者ジム・ヘベリン (Jim Heverin) は、強いデザインの付与、公開されたペデストリアン・ウェイの公共性、ファシリティの充実といった彼らの提案への自信を一貫して表明しつつ、なおかつ批判もネゴシエーションも歓迎する、と公言している 。JSC当局やコンペに関わった専門家らの「沈黙」と「規模縮小」に比べればはるかに明快だ。
ところで新国立競技場コンペの応募要項には、コンペ後、入賞の有無にかかわらず全応募者が基本・実施設計者を決める公募型プロポーザルに参加できる、とする条項がある。これはコンペ応募者となる数少ない有力組織設計事務所が、その後の基本・実施設計者にもなる可能性を担保していると解せる。実際、「フレームワーク設計者」のプロポーザルに参加したのは2組だけで、いずれも組織設計数社で構成する設計JVである。彼らの多くはコンペ応募者でもあった。アーキスター+ローカル設計JVという体制は、実はコンペ前から想定されていたようにも見えてくる。
4. おわりに
新国立競技場のコンペは、グローバルシティのエコノミクスとポリティクスが許容し、あるいは求めている建築生産の今日的実態の反映とみることができ、その構造の下で、近代コンペ史の通奏低音的な悪弊がいくらか形を変えて顕在化している、というのが筆者のとりあえずの見立てである。
それに対して、もともと日本の都市は新陳代謝の激しいカオスであったという類のクリシェを持ち出して居直ったり溜め息をついたりするような相対主義も聞かれるが、それはたぶん偽の問題である。だが、そう言えるだけの確かな議論の基盤は弱い。都市史の研究が、依然としてこうした議論に実践的な知識を提供できていないという問題もある。
一方で、今度の批判運動が、アトリエあるいはプロフェッサーの建築家による党派的な集団に見えかねない形に陥らないことも肝要だろう。また、自らコンペに応募しながら、そのコンペ要項のプログラムに異議を唱える槇文彦氏の批判に支持の署名をした建築家は、自らの立場について公的に発言すべきだろう。これもまた運動を社会化する上で欠かせないのではないか。
最後に、日本ではオリンピックおよび万博の施設についてほとんどコンペを実施してこなかった事実にふれておく(1964年東京オリンピックでは日本武道館、1970年大阪万博では本部ビルだけがコンペで、他は特命)。これも国際的な常識とはずいぶん違う。その意味では今回のコンペも一定の成果ではあり、批判運動には画期的な意義がある。しかし、2020年東京オリンピックの「ヘリテージゾーン」「ベイゾーン」に見込まれる新築・改修建物および関連する都市整備事業については、その設計者の選定はこれからで、それらにコンペの導入が検討されているとは寡聞にして知らない。オリンピックが都市公共財への投資チャンスなのだとしたら、その責任を誰が負い、社会に問うのかを実践的に考えるチャンスも続く。欧米にはコンペが日常であるような国があるし、日本でもむしろ地方では意欲的で多様な設計者選定の試みがある。